元特殊学級担任・管理職・教育委員会指導主事 経験者へのインタビュー調査
保護者へのインタビュー調査
元特殊学級担任・管理職・教育委員会指導主事
経験者へのインタビュー調査
杉原仁士氏へのインタビュー調査 (1996年11月2日 自宅にて)
1950年に新採用で岡山市立宇野小学校に赴任。普通学級に在籍する遅れのある子 供に関心を寄せる。岡山中央児童相談所から同校に赴任していた橋本教論とともに 熱い思いを語り合い影響を受ける。29年に特殊学級開設(担任橋本教論、副担任杉 原教論)1956.57.58年と担任。59年に岡山市立福島小学校へ転勤。2年間の準備 期間を経て61年に特殊学級開設。1961年に岡山市立石井中学校へ転勤。この年から 1学級増設となり松田教諭と共に特殊学級担任となる。
【授業】
昭和30年代は学校工場方式が流行しており、45年頃まで続いた。生活単元中心の 授業だった。5.6校時は毎日作業学習にあてていた。学校工場方式は、はやく仕事 を豊艶て働く力をつけることを目的にしているが人権問題にかかわる部分もあった のではないか。付属は今もにたようなこと(生単中心)をやっている。男子は動力 ミキサーで砂やモルタルを使って建築ブロックを作る作業をしていた。目的の第一 は体力づくり。女子は主に名刺や年賀状の印刷。注文をとって写植文字を拾う作業 中心。他に佃煮を入れる木箱の作成。佃煮屋からキットを預かり組み立てる作業。
しかし、時期によって忙しさが異なり、忙しい時期には〜までに何100個という製 品を仕上げねばならず、作業の時間だけでは仕事量をこなせなくなり2年で止めた。
教育課程が崩れる。生徒達が注文から会計、銀行に入金まで行った。材料費は市の 予算だが売上金は収入。収益金で遠足や昼食会を行った。始めは生徒達の言葉がよ く分からないと思っていたのに、しばらくすると分るようになる。しかし、それは 生徒達の表現力や語彙数が増えたとは限らない。自分が生徒達に慣れて分かるよう
になっただけかも知れない。遠足に行って切符を買う時、生徒達の言葉が駅員に通 じないことがあった時にそう感じた。学校だけでなく多くの人々と接する必要があ る。昭和40年代頃、普通学級と一緒にやろうというという風潮があった。
【促進学級】
昭和50年頃は統合教育をしていた。交流については、音楽、技家、美術は教科担 任が担当したが、授業には杉原先生も一緒にいっていた。教科によっては特殊学級
の生徒が交流学級に行くのを嫌がった。衣紋掛けやすいた等を製作して文化祭など で売ったりしていた。修学旅行は当初特殊学級として参加していたが、昭和40年頃 から交流学級に入って参加。卒業式なども特殊学級独自だったのが交流学級での参 加となる。授業記録は毎日9年間つけていた。
【就学】
当時の校長が理解のある人だった。校長の考え方は大切である。ウイスクの知能 検査道具を早くから備えていた。自分は人に恵まれていたと思う。当初は石井中の みだったので生徒はみんな石井に来ていた。福浜中(S37)や桑田中(S38)ができ ると親は自分の学区に行かすのに抵抗を感じ、違う学区の中学へ入級させた。一般 の人々や親の理解が必要だと感じていた。IQのあまり低い生徒は入級していない。
ボーダーラインから70くらいまでだったと思う。当時は就学指導委員会のようなも のは存在せず、保護者と学校との話し合いで入級を決定していた。あまり低い生徒 を入れると入謡言が減り(保護者が入れたくないという)学級が維持できなくな る。ある程度の生徒であれば教育効果もあがり、それなら入れようかということに なる。昭和37・8年頃、岡山市教育委員会や校長などと判別委員会なるものを組織 する。これがのちに就学指導委員会となる。
【行事】
当時は小学校と中学校を合わせても特殊学級は10校程だった。特殊学級担任の集 まりもなく特殊学級担任の集まる会を開いては就学や教育方法などにつて話し合っ た。それが後に市内特殊教育研究会となる。宿泊研修は行っていた。石井中と付属 中(橋本教諭、奥山教諭)で合同運動会を始めた。その後、小学校も含め今年で37 年關続く。奥山教論はその後、市教委指導主事から市教育長となる。昭和44年、
精神薄弱教育の進むべき方向を求めて のスローガンのもと、第8回精神薄弱教育 研究全国大会が岡山で開催。その時の事務局長を努める。 (詳しくは『精神薄弱児 研究1970年1月号』)7回大会までは授業研究がなかったが、8回大会から実施され ることになった。また放送教育全国大会でも特殊学級を対象に公開授業。
【人】
金浦中(岡山で最初の中学校特殊学級設置校)の藤原マサ教論は当時50歳ぐら い。杉原氏くらいから若い人がやり出した。
小松原次郎氏(岡山大学付属学校長、精神薄弱者育成会副会長、岡山大学)のコ ネで校外実習(カバや食品)や就職の世話をしてもらった。天満屋の社長も教え子 で、運動会などではお菓子の寄付等があった。
佐藤修策氏(元本学学長)井上氏(倉敷市立短大)奥山氏(ももその学園創設 者)らはいずれも岡山中央児童相談所出身。吉田三郎氏(元県教育委員会,西備養 護学校長,岡山ろう学校長,付属小学校)丸山氏(元県肢体不自由児協会理事)金 重博之氏(県手をつなぐ育成会会長)
昭和45年、岡山市教育委員会学事課勤務。のちに教育次長。16年間行政の仕事に 携わる。その間、特殊教育に携わっている者を引き上げる人事を行うように心がけ た。当時訪問教育のなかった時代に訪問教育を担当し、教育委員会から派遣して訪 問教育を行った。 (訪問教育について調べれば岡山のこと出ているはず)昭和61年 県立早島養護学校長に就任。4年間努め、多くのことを学んだ。教育とは生きる力、
生きる勇気を与えること。平成2年に退職して岡山市教育相談室長(6年間)を努め 岡山市適応指導教室「トラングルー官」を開設。その後、倉敷、津山などにも開設 される。文部大臣表彰(特殊教育)受賞。現在、就実女子短大講師、トラングルー
宮相談役。
吉田三郎氏へのインタビュー調査
(1997年6月17日 岡山県肢体不自由児福祉協会にて)
岡山大学付属中学校特殊学級担任、岡山大学付属小学校普通学級担任、特殊学級 担任を経て1966〜79年まで県教育委員会指導主事。西備養護学校長等を歴任し、現 在、岡山県肢体不自由児福祉協会常務理事。
【学校現場と理念】
小学校の普通学級担任になったのは、障害児をできるだけ普通学級で学習させた いとの意図からだった。できるだけ同年齢の生徒達と同じ環境で生活させたかっ た。中学生ならば、中学生のライフスタイルがある。全く同じにはできないが、そ のまねごとでもさせたいと思っていた。交流学習と言う言葉があるが、共通学習と 言う方が良いかも知れない。一緒にいて、その子が取り入れるものがあれば取り入 れるであろう。全く分からない授業を同じ教室で受けても1時間じっと座っていた ということがその子の学習かも知れない。作業学習についてもその子のライフスタ イルを見つめる必要があると考えていた。従って学校工場方式には反対であった。
遊ぶことが大切だと思っていた。他人が何をしているのか見ることが大切であり、
特殊学級だけで作業学習をやるのはライフスタイルを見つめていないのではない か。石井中や付属等、当時はブロックや印刷の作業学習が盛んであった。しかし、
特殊学級数が増加してくると注文もなくなってきた。最終的にはブロックを作って どうするのかということになる。印刷も写植を反対に拾ってゆくのは難しく、結局 先生がやることになる。だから私は畑をやれといっていた。職場の人は仕事の内容 よりも休み時間の過ごし下等の社交事例や、遅れずに出勤する事忌を生徒に望んで いる。仕事の内容は問題ではない。学校はそういうことを要求されている。とりあ えず体力は必ず必要である。昭和40年以前教育課程研究集会というのが東京であっ た。そこでは青鳥中学校のバザー単元学習、島田第一中学校の学校工場方式に対し て、九州の先生方は「そんなことをしても何にもならない。人間として扱っていな い」といった意見が出された。男女も別にすることがあったが、できるだけ一緒に するべきだと考えていた。指導案等、昔は詳しく書いていた。しかし、 「一人一人
の能力に合った」などとよく書いているが、表向きは障害の程度がどうのこうのと いっても実際は学習の能力を中心としていたのではないか。教科の学習能力と社会