第1節 行政施策と特殊学級担当教師の資質
1949年忌教育職員免許法が制定され、盲・聾・養護学校の教職員は、それぞ れの学校の免許状の他に、盲・聾・養護学校の各部に相当する学校の教員の免許状 を併せ有する者でなければならないとされた。しかし、54年の「教育職員免許法 の一部を改正する法律」の付則24項によって、いわゆる基礎免許状だけで、当分 の間、特殊教育諸学校の教員となることが認められたD。この様な教員免許制度の
発足に伴い1951年に東京教育大学に特殊教育学科が開設され、60年度から
は、教員養成大学に4年課程の養護学校教員養成課程が設置され始める。そして、73年度に鹿児島大学に設置されたのを最後に、全国すべての教員養成大学への設 置が完了する2)。また、文部省主催の免許認定講習会が1954年忌り行われ、次 第に各障害区分に応じてその内容も拡充した。特殊教育内地留学制度も66年度か
ら実施され現職教員の資質の向上が計られることとなった3)。
岡山大学に養i護学校教員養成課程ができたのは1965年で、定員は20名。全 国で5番目の設置であった4)。岡山大学教育学部付属養護学校の資料によると「新 制大学として岡山大学が発足した当時、養護学校教員免許状を出す資格をとった大 学は、東京教育大学とわが岡山大学だった。また、最初に特殊学級を設けたのもこ
の2大学である。昭和27年、第1回入学生が4年次生になり、同年4月から8週
間付属小学校へ教育実習にやってきたのである。その8週間の最後の1日を特殊学 級参観にやって来た。しかし、このころは養護学校教員免許状を取得するための講 座が充実せず、特殊教育に関係したものは佐香栄次郎のr異常児教育』と林道倫の『精神衛生』のみであった。昭和32年、養護学校教員免許状を取得するための講 座が充実し、 r異常児教育実習』という名称のもとに2週間、2単位(養護学校教 員免許状)取得のため、はじめて制度的に認められた実習がはじまった」5)とあ る。免許状の授与資格を早くから持っていたにもかかわらず65年まで養護学校教 員養成課程が設置されなかったことについて育成会の資料には「この課程の岡山大
学への設置はもっと早くなければならないはずだった」6)としている。これについ て坂元(1958)は、「教員養成機関における養成(いわゆるプレ・サービス・トレ ーニング)は、わが国では非常に不十分であるといわねばならぬ。養護学校教諭免 許状を取得できる単位を出す養成機関として文部省から認定されているのは、わず かに国立大学のうちで東京教育大学と岡山大学の2校に過ぎない。…普通の教員養 成大学では、わずかに岡山1校であるということは、いかにこの方面に対する認識 が教員養成大学にも、またあえていうならば特殊教育関係者にも、不足しているか を物語るものである。おそらくそういう制度があることさえ知らないのであろ う。」7)としている。また、当時の「異常児教育実習」という名称について、元付 属中学校特殊学級担任の講元氏は「実習の始まる時には『これから異常児教育実習 を開始します』と言っていた。子供はそれを聞いてr僕ら異常児か』と言ってい た。」と当時を振り返る。次にその実習計画を示す。
週 実習内容
1
・実習計画の概要及び諸注意 E各学級にて観察参加
E学習指導と研究
2
・実地授業 E研究授業 E全日経営
(岡山大学教育学部付属養護学校r創立十年史』p.19 1975)
1956年度より教育実習委員会が発足し、実習に関する大綱の立案及び反省等
が検討され教育実習の組織が一段と整備される8)。
岡山県教育委員会が毎年策定する「重点施策」の中で「教職員の資質の向上」が 初めて登場するのは1965年度である。
1955年頃より生徒数が急増し、学級編成及び教職員定数の悪化が全国的な問 題となり、58年に「公立義務教育諸学校の学級編成及び教職員定数の標準に関す
る法律」が制定された。当初の編成基準は1学級15人以下とされたが、その後の
改正により、69年には13人以下、74年には12人以下となる9)。岡山県教育
委員会の資料によると、改正の要望が高まった理由の1つを「児童生徒の急増がピ ークを超え、昭和38年度からは急減期を迎えることとなり、標準法の基準をその ままにして置くならば、教員整理という事態を予想しなければならなくなったこ と。」10)としている。その結果、教職員の配置は格段の改善を見せ、岡山県における1958年の中学校の生徒数は97,261人、教員数3,496人であったのが、
78年には生徒数75,071人と減少したが、教員数は3,825人と329人増加
しているu)。しかし、講元氏によると「(当時の普通学級は)1クラス60人だっ た。次第に定員は減っていったが、定数は変わらないのに子供は減ってきて…その 方たちを養護(特殊学級)に回したという面があったのではないか」としている。
また、育成会の資料においても「先生の定員数の歯止めに設けた特殊学級は、多く は促進学級的運営をしていた。」12)とある。1960年代は、特殊学級数が急増し た時代でもある。教師の資質と関連して当時の資料には次の様に記されている。
「昭和40年前後は特殊学級や養護学校の数が急増する時代であったが、同時に それは、精神薄弱児やその教育についての知識に乏しい教師の大量増加の時代でも
あった。」13>
教職員の定数や特殊学級数が増加すること自体に問題があるのではない。問題の 原因としてはさまざまな要因が考えられるが、特殊学級を担当する教師の資質が1 部の人々を除いて低いということ、その様な教師を担当者に当てた人事権を持つ管 理職達の人権意識に問題があることは否めない。
1968年の倉敷市の資料によると、特殊学級を設置する4校の担当教師(西中
学校3名、他3校に各1名、計6名)の男女比は1:1である。年齢は20歳代が
5名、50歳以上が1名で、30歳代はいない。経験年数では3年以下と3年以上 の比率は1:1であるが、西中学校の3名は何れも3年以上の経験を持っている
14) B3校では何れも経験の浅い者を担当者にしているのに対し、西申学校は3名の 教師全員が3年以上の経験者である。これは、人事権を持つ者の意識が反映されて
いるものと思われる。
以上のことから、特殊学級数の急増や定数の変化等、行政施策という要因と各中 学校における人事という非常に人為的な要因により、特殊学級担当教師の資質は規 定されて来たと考えることができる。
註
1)文部省『特殊教育百年史』東洋館出版社、pp.194−195、1978。
2)山口薫・金子健『特殊教育の展望一21世紀に向けて一』、pp.215−216、1993。
3)前掲書1)、p.217。
4)岡山県精神薄弱者育成会『会報一岡山県精神薄弱者育成会20周年記念誌一』、
p.19、 1976。
5)岡山大学教育学部付属養護学校r創立十年史』、p.19、1975。
6)前掲書4)、p.19。
7)坂元彦太郎「特殊学級について」『精神薄弱児研究』No.6、 p.7、1958。
8)前掲書4)、p.19。
9)前掲書1)、pp.215−216。
10)岡山県教育委員会r岡山県教育史』岡山県教育広報室、p.483、1991。
11)前掲書10)、p.484。
12)前掲書4)、p.11。
13)前掲書5)、p.42。
14)r第7回岡山県特殊教育研究大会要項』、p.41、1968。
第2節 管理職・保護者・担当教師の意識
特殊学級担当教師として望ましい条件として、当時の資料によると、 (1)教育 に対する熱意が特に強いことく2)特殊教育に関する興味・関心・研究の熱意があ
ること1)となっている。
管理職の特殊学級担当教師に関する意識として「教師は専門家になってはいけな い。3漏したらどうしても代わってもらう。そしていつもできるなら男女2人をこ れに当てたい。…担任の選出は本人の希望はもとよりであるが他の職員の選挙制を
とりたい。もちろん教育者としての最高の適正を備えている人を、そしてできれば 前途ある人を。」2)という考え方と「担任は3か年以上継続してこの教育に当たれ る人、あせらず気長にやれる人が望ましい。」3)という考え方があった。この様な 見解の相違は、現在においても継続しており、一概に論じることは難しい。しか し、教育を受ける生徒や保護者からすれば、専門性を持つ教師に教えてもらいたい であろう。前者の考え方は、教育を現在受けている者の側から見れば間接的であ
り、経験:のある教師が他の教師を啓蒙することで補うことができるものと思われ る。宮崎(1995)は「精神薄弱教育関係教師は、通常の学級担任教師に対し障害児 の心理や教育に関し指導ができることが必要である。…教科指導の力がない場合、
通常の学級担任教師は、特殊学級担任教師を尊敬しない。尊敬されない限り障害児 教育は、通常の学級内の遅れがちな子どもに生かされない。」4)としている。また
当時の管理職の中には、次の様な見解を著わしていた者もいる。 「なんら特殊教育 についての教育を受けていない一般教師の中から校長が頭を痛めてお願いし担任さ している現状では、担任教師が気の毒であると同時にこどもが可哀想である。また 校長にとっては毎年悩みの種の一つである。なぜ特殊学級設置を強調する前に担任 教師の養成をしなかったのであろうか。また、待遇についても、担任者の人知れな い苦労を思うとき、現状ではとても満足できない。やれやれという前に進んで担任 する気持ちと喜びと誇りをもって担任できる状態になれるだけの物心両面にわたる 待遇向上こそ急務ではないだろうか。せめて担任を2人とし、研修の時間が得られ
るようにしてもらいたいものである。」5)