開発
著者
佐藤 智哉
学位授与機関
Tohoku University
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Fr
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電子の永久電気双極子能率探索のための
Fr
原子線の開発
東北大学大学院 理学研究科 物理学専攻
佐藤 智哉
平成
24 年
1
研究の背景
基本粒子の永久電気双極子能率(Electric Dipole Mo-ment, EDM) は,存在すれば時間反転 (T) 対称性の 破れを意味し,この時CPT 定理を仮定すれば同時に CP 対称性 (C: 荷電変換,P: 空間反転) の破れをも意 味するため,この宇宙の物質・反物質非対称性解明 への手がかりを与える.EDM の素粒子の標準模型に おける予言値は,近い将来までの実験技術では観測 不可能なほど小さいが,多くの標準模型を超える粒 子模型では現在の実験技術ですでに観測可能な大き さのEDM を予言しており,EDM は標準模型を超え る新物理に対して高い感度を持つとされている. 特に最外殻に不対電子を持つ重いアルカリ原子 では,相対論効果により電子の EDM de は原子の EDM datomを通して原子番号Z の 3 乗に比例して観 測されることが理論的に示されており,最も重いア ルカリ原子であるフランシウム(Fr, Z=87) では相対 論的結合クラスター理論等,原子構造の第一原理計 算によるとその増幅度は約895 倍である. 現在,東北大学サイクロトロン・ラジオアイソトー プセンター(CYRIC) において,この Fr 原子を用い た電子EDM の世界最高精度測定 de<10−28e · cm を 目指し,レーザー冷却Fr 生成ビームラインを建設中 である(図 1).このビームラインでは,CYRIC が保 有するAVF サイクロトロン (K=110) からの重イオン ビーム(18O, E=100 MeV) を金標的に照射し,核融 合反応18O +197Au →210Fr + 5n により半減期 3.2 分 の放射性元素210Fr を生成する.生成した Fr を表面 電離効果によりイオン化して引き出し・加速を行い, イオンビームとして核融合反応や電磁石によるノイ ズの少ない環境まで輸送する.その後,Fr イオンビー ムを中性化器で中性化して原子線とし,原子線横方 向速度減速器とゼーマン減速器によりコリメート及 び磁気光学トラップ(MOT) が可能な速度まで減速, MOT で 200 µK の原子集団として捕獲する.MOT し たFr を光双極子トラップを経て光格子に導入し,そ こで電場・磁場を印加して原子スピン歳差周期を高 精度に測定し,EDM の精密探索を行う.EDM の高 精度探索実現のためには,一度の測定に用いるFr 原 子の個数を増やして統計誤差を抑え,かつ測定する Fr を空間的に小さな領域に閉じ込めることで外部電 磁場の非一様性から生じる系統誤差を抑えることが 肝要である. 本研究の目的は,統計誤差低減のために,貴重な Fr 原子を MOT へ効率的に導入する際に重要となる 低速原子線の生成を行うことである.その実現へ向 け,Fr イオンを高効率で中性原子へ変換して原子線 とする「中性化器」の開発と,レーザー光を用いて 原子線の広がりを抑えコリメートする「原子線横方 向速度減速器」の設計を行った. 図1: レーザー冷却 Fr 生成ビームライン 1
Fr 中性化器は,中性化標的による表面中性化とオー ブンによる表面イオン化により,Fr イオンビームを 効率よくFr 原子線へと変換する装置である.これま でのFr トラップ実験においては,イオンビームをセ ル中のイットリウム標的で停止・中性化したのち,標 的を加熱してそこから放出されるFr 原子をトラップ する方式が広く用いられてきたが,中性化された原 子は全立体角に放出されるため,中性化後のトラッ プ効率が低くなってしまうことが問題であった. 本研究ではこの欠点を克服するため,中性化標的 をオーブンで包み込み,大きな角度を持って放出さ れた原子を再びイオン化して再利用するサイクルを 作ることで,利用可能なFr 原子の個数を大幅に落と すことなくある程度の広がりを持つ原子線とするFr 中性化器を新たに開発した.また,今回,加速器を 使用せずにオフラインで試験を行うために専用Rb イ オン源を開発し,Fr 中性化器に Rb イオンを入射し 性能評価を行った. 上記の装置を用いて,Rb イオンビームを Fr 中性 化器に入射し,その出力Rb 原子線を直後の MOT で 捕獲することに成功した(図 2).また,中性化器の イオンビーム/原子線変換効率や原子線強度の評価に 重要と思われるパラメータについて依存性の測定を 行い,中性化器の特性評価の手がかりとなる結果を 得た. 図2: MOT で捉えられた,中性化器により Rb イオ ンから変換された中性Rb 原子集団.円内で光る直径 2 mm 弱の領域に,およそ 106個のRb 原子が捕獲さ れている. 中性化器により,ある程度の広がりを持つ原子線 を生成することは可能だが,それをMOT で捕獲可 能な約30 m/s まで減速するゼーマン減速器を考える と,400 m/s 程度の Fr 原子を減速するため 2 m 程度 の長さが必要となり,減速過程で多くの原子が失わ れてしまう.これを防ぐため,中性化器からの出力 原子線をゼーマン減速器に入射する前に,レーザー 光を用いて原子線をコリメートする原子線横方向速 度減速器を設計した. 原子線横方向速度減速器は,1 軸について 2 枚,計 4 枚のほぼ平行に設置された鏡の間にレーザー光を 多数回反射させ,その光からの輻射圧により原子の 広がる向きの速度(横方向速度) を抑え,コリメート する装置である.これにより,Fr 原子線のゼーマン 減速器での損失を抑え,大強度かつ低速な原子線を MOT へ供給出来る. 本研究では,中性化器出力を模した原子線に対し て,光の輻射圧を考えて運動方程式を解くシミュレー ションを行い,レーザーを反射させる鏡の長さやレー ザー入射角度,鏡の傾き等を最適化し,原子線のゼー マン減速器透過効率を推定した.また,原子線横方 向速度減速器試作機の製作も行った.今後,この試 作機による実験を行い,シミュレーション結果と総 合して,Fr オンライン実験に向けた原子線横方向速 度減速器の開発を行う予定である.
4
まとめ
本研究では,Fr を用いた電子 EDM 高精度測定の 鍵となるFr 中性化器の開発と,原子線横方向速度減 速器の設計を行った.Fr 中性化器では,Fr と化学的 性質の似たRb イオンの中性化を行い,その出力の MOT に成功し,また,その出力特性の評価に繋がる 結果を得る事ができた.また,原子線横方向速度減 速器ではコンピュータによるシミュレーションを行 い,中性化器からのFr 原子線がコリメート可能であ ることを示した.今後,低速Fr 原子ビームの実現と 大強度化を実現し,MOT での Fr 原子のトラップ個 数の向上を目指して開発を進める. 2目次
第1章 序論 1 1.1 物質優勢宇宙の解明に向けて . . . 1 1.2 素粒子EDMと時間反転対称性・CP対称性の破れ . . . 1 1.3 標準模型及びそれを超える物理におけるEDM . . . 3 1.4 レプトンEDM探索による模型識別 . . . . 6 1.5 EDMの増幅 . . . 7 1.6 研究の目的 . . . 9 第2章 冷却Fr原子を用いたEDM探索 11 2.1 Frを用いたEDM測定の原理 . . . 11 2.1.1 世界の電子EDM探索実験 . . . 12 2.2 Fr-EDM測定の概要 . . . 15 2.2.1 Frの生成 . . . 15 2.2.2 Frイオンビームの輸送 . . . 18 2.2.3 Frイオンビームの中性化 . . . . 19 2.2.4 Fr原子線の収束・減速 . . . 19 2.2.5 Fr原子のトラップ . . . 21 2.3 電子EDM測定に必要なFr原子個数の見積もりと低速中性原子線の必要性 22 第3章 Fr中性化器の開発 25 3.1 Fr中性化器の概要 . . . 25 3.2 Fr中性化器の原理 . . . 27 3.2.1 金属表面における原子の中性化・イオン化 . . . 27 3.2.2 Frの中性化とイオン化の繰り返し . . . 27 3.3 Fr中性化器の設計・製作 . . . . 30 3.3.1 Fr中性化器の設計 . . . 30 3.3.2 Fr中性化器の製作 . . . 36 第4章 RbイオンビームによるFr中性化器の性能評価実験 41 4.1 実験の目的・概要 . . . 41 4.2 ホットフィラメントとCEMによる中性化されたRb原子の検出 . . . . 414.2.1 実験セットアップ . . . 41 4.2.2 実験 . . . . 48 4.2.3 実験の結果と考察 . . . 51 4.3 MOTによる中性化されたRb原子のトラップ . . . 58 4.3.1 実験セットアップ . . . 58 4.3.2 実験の手順. . . 68 4.3.3 実験の結果と考察 . . . 70 4.4 まとめと課題 . . . 77 第5章 原子線横方向速度減速器の設計 79 5.1 原子線横方向速度減速器の概要 . . . 80 5.2 原子線横方向速度減速器の原理 . . . . 80 5.2.1 原子が光から受ける輻射圧 . . . 80 5.2.2 ドップラー冷却 . . . 82 5.2.3 長方形鏡を用いた横方向速度減速 . . . 84 5.3 原子線横方向速度減速器の設計 . . . 84 5.3.1 横方向速度減速器の設計・検討 . . . 85 5.3.2 横方向速度減速のシミュレーション . . . 88 5.3.3 横方向速度減速器の製作状況 . . . 91 5.4 まとめと課題 . . . 100 第6章 まとめと今後の展望 101 謝辞 103 参考文献 105
図目次
1.1 基本粒子とEDM . . . 2 1.2 標準模型におけるdクォークのEDMに寄与するダイアグラム . . . 3 1.3 標準模型における中性子のEDMに寄与するダイアグラム . . . 3 1.4 標準模型におけるWボゾンのEDMに寄与する三次のダイアグラム . . 4 1.5 超対称性模型におけるフェルミオンのEDMに寄与する一次のダイアグ ラム. . . 5 1.6 原子系での電子EDMの増幅 . . . 9 2.1 EDM測定模式図 . . . 12 2.2 EDM測定の歴史 . . . 13 2.3 Fr-EDM実験室全体図 . . . 16 2.4 Frビームライン全体図 . . . 17 2.5 Fr表面イオン化器外観 . . . 18 2.6 Fr表面イオン化器 . . . 18 2.7 Fr輸送系 . . . . 19 2.8 ゼーマン減速器模式図 . . . 20 2.9 開発中のDouble-MOTシステム . . . 21 2.10 光格子トラップ模式図 . . . 22 2.11 低速Fr原子線生成の模式図 . . . 23 2.12 Fr中性化・トラップ方式の比較 . . . 24 3.1 インフライトでのアルカリ原子蒸気を用いたイオン中性化方式模式図 . . 26 3.2 インフライトでの電子雲を用いたイオン中性化方式模式図 . . . 26 3.3 表面中性化によるイオン中性化方式模式図 . . . 26 3.4 金属表面近傍にある原子のイオン/原子密度比γの,金属表面の仕事関数 及び温度に対する依存性 . . . 28 3.5 金属表面に接近する原子と金属表面の原子が作るポテンシャル. . . 28 3.6 Fr中性化の模式図 . . . 29 3.7 有限要素法による中性化器オーブン内部でのFrイオンの軌道シミュレー ション . . . 323.8 オーブンに埋め込まれたFrの放出時間の温度相関 . . . 33 3.9 中性化標的に埋め込まれたFrの放出時間の温度相関 . . . . 34 3.10 Fr中性化器からの原子線の角度広がり . . . 35 3.11 シミュレーションによる中性化器オーブンの穴の直径が3 mmであると きのビーム広がり . . . 35 3.12 シミュレーションによる中性化器オーブンの穴の直径が6 mmであると きのビーム広がり . . . 35 3.13 Fr中性化器内に残存する原子とサイクル数の関係 . . . 36 3.14 Fr中性化器構成図 . . . 37 3.15 Fr中性化標的 . . . 38 3.16 Fr中性化器熱シールド . . . 39 3.17 Fr中性化器チェンバー . . . 39 4.1 ホットフィラメントとCEMによる中性化されたRb 原子検出実験の セットアップ図. . . 42 4.2 Rbイオン源模式図 . . . 43 4.3 TOSCAによるRbイオン源の電場・イオン軌道シミュレーション . . . 43 4.4 Rbイオン源Moヒーター . . . 43 4.5 Q電極の原理 . . . 45 4.6 ホットフィラメントとCEMによる検出系模式図 . . . 46 4.7 ホットフィラメント及びCEMマウント外観 . . . 46 4.8 ホットフィラメント,リフレクター及び補助電極 . . . 47 4.9 CEM外観 . . . . 47 4.10 CEM模式図 . . . 47 4.11 ホットフィラメントとCEMによる中性化されたRb原子の検出実験配 線図. . . 49 4.12 CEM計数率の中性化標的電圧依存性(0∼ −800 V) . . . . 54 4.13 CEM計数率の中性化標的電圧依存性(0∼ −1700 V) . . . . 54 4.14 CEM計数率の中性化標的温度依存性(700∼ 1000 ◦C) . . . . 55 4.15 CEM計数率の中性化標的温度依存性(1000∼ 1100 ◦C) . . . . 55 4.16 ビームプロファイル測定 . . . 56 4.17 中性化器出力減衰測定 . . . 56 4.18 中性化器に関係する原子の流れ . . . 57 4.19 中性化器における,出力原子数/入力イオン数の時間発展. . . . 57 4.20 MOTによる中性化されたRb原子トラップ実験のセットアップ図 . . . 58 4.21 MOTの模式図 . . . 60 4.22 MOTの原理 . . . 60 4.23 87Rbのエネルギー準位 . . . . 61 4.24 210Frのエネルギー準位 . . . . 61
4.25 MOTチェンバー周辺外観 . . . 61 4.26 ECLD模式図 . . . . 62 4.27 トラップ光の周波数相関図. . . 65 4.28 トラップ光光学系セットアップ図 . . . 65 4.29 リポンプ光光学系セットアップ図 . . . 66 4.30 MOT光学系セットアップ図 . . . 67 4.31 ベーキング中のMOTチェンバー . . . 69 4.32 中性化器からのRb原子MOTの典型的な画像データ . . . 70 4.33 個数測定に用いた中性化器からのRb原子MOTの典型的な画像データ . 71 4.34 トラップ原子蛍光からのトラップ原子数の推定 . . . 72 4.35 MOTでのトラップ原子数の中性化標的温度依存性 . . . 72 4.36 MOTでのトラップ原子数の中性化標的電圧依存性 . . . 73 4.37 中性化標的電圧依存性測定時のトラップ個数の時間変化 . . . . 74 4.38 輝度に変換した中性化器からのRbMOT画像 . . . 75 4.39 MOT画像輝度フィッティング . . . 75 4.40 中性化器からのRbMOT蛍光輝度/BG輝度の比の中性化標的電圧依存性 76 4.41 中性化器からのRbMOT蛍光輝度/BG輝度の比の時間依存性 . . . 76 5.1 1000 ◦Cの温度を持つFrの速度分布 . . . 79 5.2 原子がレーザー光から受ける輻射圧 . . . 81 5.3 二準位原子のドップラー冷却 . . . 82 5.4 レーザーから受ける輻射圧. . . 82 5.5 ドップラー冷却の際に原子に働く力の原子の速度依存性 . . . . 83 5.6 長方形ミラーを使用した横方向速度減速の模式図 . . . 85 5.7 理想的な横方向速度減速の模式図 . . . 86 5.8 ゼーマン減速器透過効率 . . . 87 5.9 原子線横方向速度減速器シミュレーションセットアップ . . . 89 5.10 コンピュータシミュレーションによる長方形ミラー長さとMOT到達率 . 90 5.11 レーザー離調ごとのMOT到達率 . . . 91 5.12 横方向速度減速器用ミラー外観 . . . 93 5.13 横方向速度減速器用ミラー反射率 . . . 93 5.14 長方形ミラーマウント概念図 . . . 94 5.15 アクチュエーター外観 . . . 94 5.16 Rb原子源外観 . . . . 95 5.17 ガラスチューブ外観 . . . 97 5.18 長方形ミラー保持機構 . . . 98 5.19 原子線横方向減速器のクーリング光の周波数関係図. . . 98 5.20 長方形ミラーを用いた原子線横方向速度減速の光学系セットアップ図 . . 99
表目次
1.1 EDMの実験上限値 . . . 2 1.2 レプトンEDMの測定上限値 . . . 6 1.3 原子EDMにおける電子EDMの増幅度K . . . 9 2.1 世界のレーザー冷却を応用した電子EDM測定計画 . . . 14 3.1 仕事関数が低い中性化標的候補の金属 . . . 30 3.2 仕事関数が高いオーブン(イオン化器)候補の金属 . . . 30 3.3 アルカリ原子のイオン化ポテンシャル . . . 31 4.1 評価用Rbイオン源の仕様 . . . 44 4.2 典型的なRbイオン源パラメータ . . . 50 4.3 典型的な中性化器パラメータ . . . . 50 4.4 典型的な静電三連四重極電極パラメータ. . . 50 4.5 典型的な検出系パラメータ. . . 50 5.1 アルカリ原子のドップラー冷却限界 . . . 83 5.2 横方向速度減速器の鏡の長さと原子線のゼーマン減速器透過率の概算 . . 87 5.3 シミュレーションによる中性化器から出た原子線のMOT到達率 . . . . 90第
1
章
序論
1.1
物質優勢宇宙の解明に向けて
「この宇宙を構成する物質がどのようにして生成されたか」という謎は長年にわたり多 くの物理学者が取り組んできた課題である.現在主流であるインフレーション宇宙論によ れば,インフレーション終了時には宇宙に物質・反物質は同数存在するため,現在の物質 優勢宇宙の存在を説明する為にはここから元素合成に至るまでに物質-反物質対称性を破 る過程が必要である.宇宙に物質反物質非対称性が生じるには,以下の「サハロフの三条 件」と呼ばれる条件を満たす必要があることが知られている[1]. (1) バリオン数を破る過程が存在すること. (2) その過程はC対称性及びCP対称性を破ること. (3) その過程は熱非平衡状態で起こること. この中で(2)の条件に関してK0中間子[2],B0中間子[3]など弱い力におけるCP対称 性の破れについての実験結果があるが,素粒子の標準模型ではこれをカビボ・小林・益川 行列[4]によって説明している.しかし,この標準模型が予言するCP対称性の破れの量 は,観測によって判明した我々の宇宙の物質-反物質対称性の破れを説明するには不十分 であり,更なるCP対称性の破れの発見が期待されている.また,理論においても標準 模型を拡張した多くの理論(超対称性模型,Left-Right Symmetric模型,余剰次元模型 等)は,標準模型において考慮されなかった多数の効果により,標準模型よりはるかに大 きいCP対称性の破れを予言しており,CP対称性の破れの探索は標準理論を超える物理 の兆候を捉えることが出来ると考えられている.このCP対称性の破れを探索する為の有 望なプローブの一つとして,基本粒子の永久電気双極子能率 (Electric Dipole Moment, EDM)が挙げられる.1.2
素粒子
EDM
と時間反転対称性・
CP
対称性の破れ
基本粒子の永久電気双極子能率(Electric Dipole Moment, EDM)は,古典的には電荷
である.素粒子の基礎法則を記述する場の量子論の枠組みでは,一般的に,荷電変換(C), パリティ変換(P),時間反転変換(T)を組み合わせた変換であるCPT変換の対称性が保 存される(CPT定理).EDMが基本粒子に備わっていると時間反転対称性の破れ及びパ リティの破れが生じ,更にこれはCPT定理の元ではCP対称性の破れを意味する.(図 1.1) 図1.1 基本粒子にEDMが存在するとき,その粒子に時間反転を行うとスピンSは 反転するがEDM dは反転しない.これは基本粒子にEDMが存在すると時間反転対 称性の破れが生じることを意味する. スピンS,EDMd,磁気モーメントµを持つ中性粒子を考える.この粒子の外部電場 E,外部磁場Bとの相互作用ハミルトニアンHは以下のように表される. H =−µB ·S S − dE · S S (1.1) ここでパリティ変換P を考えるとP (E· S) = −E · Sとなり,式(1.1)においてdが 完全に0でない限りP変換に対して非対称となる.また,時間反転T を考えると同様に, T (E· S) = −E · Sであり,これもdが有限の値を持つとT変換に対して非対称である. EDM ははじめパーセルとラムゼーが中性子についてその電子散乱実験結果から |dn| < 3 × 10−18e· cmの上限値を推定[5]して以来,その他の基本粒子に対してもその 値を測定しようと多くの試みがなされてきた.現在得られている測定結果はいずれも上限 値を与えるに留まっているが,それらは素粒子理論に対して大きな制約を与えている.表 1.1に現在得られている種々の粒子のEDMの実験上限値を示す. 上限値 測定系 文献 |de| < 1.6 × 10−27e· cm (90% C.L.) 205Tl原子 [6] |de| < 10.5 × 10−28e· cm (90% C.L.) YbF分子 [7] |dn| < 2.9 × 10−26e· cm (90% C.L.) 中性子 [8] |d(199Hg)| < 3.1 × 10−29e· cm (95% C.L.) 199Hg原子 [8] 表1.1 EDMの実験上限値
1.3
標準模型及びそれを超える物理における
EDM
素粒子の標準模型においては基本粒子のEDMはCKM行列のCPを破る位相から生 じる.この位相からのEDMへの低次の寄与は強く抑えられており,実際に観測される
EDMの値は高次の効果によるものである.そのため標準模型におけるEDMの予言値は 非常に小さなものとなっている.
ハドロンのEDMはクォークのEDM及びクォークの複合粒子としての核子のEDM
が考えられる.例として,図1.2にdクォークのEDMに寄与すると考えられるダイアグ ラム,図1.3に中性子のEDMに寄与すると考えられるダイアグラムを示す[9]. g u,c d b,s t t W t t 図1.2 標準模型におけるdクォークのEDMに寄与するダイアグラム.u,d,s,c,b,t はそれぞれ三世代のクォーク,gはグルーオン,WはWボゾンである. n Σ− n π+ γ u, d u, d s d c, t c, t g W 図1.3 標準模型における中性子のEDMに寄与するダイアグラム.u,d,s,c,b,tはそれ ぞれ三世代のクォーク,nは中性子,Σ−はシグマ粒子,gはグルーオン,WはWボ ゾン,π+はパイオン,γは光子である. このとき,dクォークのEDM dd は近似的に dd$ e mdm2cαsG2FJCP 108π5 In 2(m2 b/m2c)In(MW2 /m2b) (1.2) ここでJCPはJarlskog位相と呼ばれ,下記の式で表されるが,標準理論によるEDMの 評価において,ハドロン,そして後述の電子やミューオンのようなレプトンの場合におい
て,EDMが極めて小さい値をとるのは,このJarlskog位相が入る事が一つの要因となっ ている. JCP = Im(VtbVtd∗VcdVcb∗) = s12s23s13c12c23c213sin δ ∼ 3 × 10−5 (1.3) ここで,Vtb,Vtd∗,Vcd,Vcb∗ はCKM行列の要素,αsは強い相互作用の結合定数,GFは 弱い相互作用の結合定数,md,mc,mb,mW はdクォーク,cクォーク,bクォーク, Wボゾンの質量,δはCPを破る位相,eは素電荷である.dクォークでは1ループ,2 ループからのEDMへの寄与は存在せず,3ループで初めてEDMが現れる.これからd クォークのEDMの値はdd ∼ 10−34e·cmと計算されている[9, 10]. 中性子など核子のEDMはこのクォークEDMが起源となって発現し,その値は2ルー プから寄与があり,中性子EDMの計算値はdn ∼ 10−32e·cmである. また,レプトンである電子のEDMはファインマンダイアグラムにおいて電子と結びつ くWボゾンのEDMから生じるものである.この過程において一次及び二次のループか らの寄与は消滅してしまい,三次より高次のループからの寄与が観測されるEDMを生み 出す.Wボゾンの三次のダイアグラムを図1.4に示す. 図1.4 標準模型におけるWボゾンのEDMに寄与する三次のファインマンダイアグ ラム.qはクォーク,γは光子,gはグルーオンである. WボゾンのEDMの大きさは以下のように計算されている. dW ∼ JCP( 1 16π2) 2(g2 8 ) αs 4π e 2mW ∼ 8 × 10 −30e· cm (1.4) ここから四次のループまでを考えた電子のEDMの値は,meを電子質量として de ∼ g2 32π2 me mW ∼ 8 × 10 −41e· cm (1.5) と非常に小さな値になると予言されている.
一方,多くの標準模型を超える新しい理論においては標準模型の予言を大きく超える EDMの値を予言している.例えば,現在の標準模型の粒子それぞれに対して統計の異な る粒子(超対称性パートナー)が存在するとする超対称性模型を考える.この模型では, 超対称性パートナーの存在によってそのラグランジアンにCPを破る位相を持つ項が出現 し,その効果によりCP対称性の破れの量は標準模型の予測値よりも大きくなる.その結 果,EDMに一次のループが寄与するとされている.そのダイアグラムを図1.5に示す. 図1.5 超対称性模型においてフェルミオンのEDMに寄与する一次のダイアグラム. fL,fRはそれぞれ左巻き,右巻きのフェルミオン,χ˜0はニュートラリーノ,χ˜±は チャージーノ,g˜はグルイーノである.(グルイーノはクォークEDMのみに寄与する) 超対称性模型においては,EDMの値は超対称性粒子の質量やCPを破る位相などのパ ラメータに依存しており,電子の場合は以下の式で表される[10]. de eκe = g 2 1 12 sin θA+ ! 5g22 24 + g12 24 " sin θµtan β (1.6) ただしθA,θµはCPを破る位相パラメータ,tan βは真空期待値,g1,g2はゲージ結合 定数である.また,κeはMSUSYを超対称性粒子の質量として κe= me 16π2M2 SUSY = 1.3× 10−25cm× me 1 MeV ! 1 TeV MSUSY "2 (1.7) である.この式から分かるように,電子EDMの値は超対称性粒子の質量の2乗に反比例 する関係にある.つまり,LHCなどの大型加速器実験で超対称性粒子が発見され,直接 MSUSYが決定できればEDMの測定結果と合わせてCPを破る位相パラメータについて 重要な情報をもたらすことができ,標準理論を超える物理のモデルに対して大きな制約を かける事ができるようになると考えられる.
1.4
レプトン
EDM
探索による模型識別
超対称性模型に限らず,標準模型を超える新しい物理では,標準理論では現れなかった 効果が発現しEDMに寄与するようになる.それらの効果が複合してEDMに寄与する ため,その起源をよく見分けるためには多種の基本粒子のEDMを測定することが重要で ある. ここでは,異なるレプトンのEDMについて考える.レプトンは電子,ミューオン,タ ウ粒子の三世代があり,それぞれ質量が大きく異なっている.レプトンに働く相互作用は その種類によらないが,EDMのスケールにはそれぞれの粒子の質量項が存在するため, 標準模型を超える新しい物理も,シンプルにはその質量の比によってEDMの値はスケー ルしている[11]. |de| : |dµ| : |dτ| = 1 : 200 : 3500 (1.8) しかし,標準模型を超える物理のモデルによっては,その質量比の普遍性が失われ,例 を挙げればEDMの大きさがそれぞれの質量の3乗に比例するとするものもある[12].こ の点で,電子とミューオン(あるいはタウ粒子)のEDMの測定は相補的であり,標準模 型を超える物理のモデルを識別できる可能性がある. 現在のレプトンEDMの上限値を表1.2に示す. 上限値 測定系 文献 |de| < 10.5 × 10−28e· cm (90% C.L.) YbF(電子) [7] |dµ| < 1.8 × 10−19e· cm (95% C.L.) ミューオン [13] −2.2 × 10−17e· cm < Re(dτ) < 4.5× 10−17e· cm(95% C.L.) タウ粒子 [14] −2.5 × 10−17e· cm < Im(dτ) < 0.8× 10−17e· cm 表1.2 レプトンEDMの測定上限値 次章で述べるように,現在電子EDMの上限値は,標準模型を超える物理の予言する領 域に差し掛かりつつある.一方,ミューオン(及びタウ粒子)のEDMは,電子と比較し てより大きいと予想されるとはいえ,自然界に安定に存在しないことから標準模型を超え る物理の予言値までは3∼ 4 オーダーの精度の改善が必要である.この精度を改善する ため,近年,蓄積リングを使用したミューオンEDM測定の計画が進行している.日本の J-PARCでは陽子ビームを銅ターゲットに照射し,そこから生じた大強度のミューオンを 蓄積リングに入射し,そこでミューオンのスピン偏極度の変化を測定して,異常磁気能率 g-2及びEDMを測定する計画である[15].この実験でのミューオンEDMの初期到達精 度目標は10−21e·cmと,現在の上限値を二桁更新する.これらの実験が進み,標準模型 を超える物理が予言する領域に到達することができた際は,その結果を電子EDMの測定 と組み合わせ,より高い精度で標準模型を超える物理の探索が可能であると言える.1.5 EDM
の増幅
前節まで見てきたように,EDMの値は標準模型を超える理論が予測する値でさえも大 変小さい.この微小なEDMを増幅して観測する事が可能であれば,測定感度を向上する 事が実現できる.また,中性でない粒子を測定しようとした場合,外部電場を印加すると その粒子が加速されてしまうため測定が難しくなる.その為,中性原子に電場を印加する ことでその内部にある荷電粒子のEDMを観測する方法が考えられた.この方法は当初, 印加した外部電場を打ち消すように原子内部の電場が変化することにより測定が困難にな ると予測された(Schiffの定理,[16])が,原子核が無限小の点でなく有限の大きさを持つ こと,及び原子内部の電場が非一様であることからこの遮蔽が完全でないことが分かり, 中性原子系であっても原子を用いて基本粒子のEDMが測定できることが示された.原子 が持つ合成されたEDM相互作用は習慣的にシッフモーメントと呼ばれる量で議論される [17]. 電気的な遮蔽効果が不完全であっても,原子のEDMは原子核のEDMよりも原子番号 が大きい原子系において10−3 ∼ 10−4小さくなるが,そのような困難を克服する精密測 定技術の進歩により水銀(Z = 80)やゼノン(Z = 54)等の反磁性原子の系を使用して原 子EDMの測定実験が行われている[18, 19]. 電子は原子核と異なり点粒子とみなせるので上記の効果による原子EDMの発現は期待 できないが,重い原子系においては軌道上の電子の運動は相対論的に記述され,その場合 には電気的遮蔽効果は適用されないことが示された[20]. この相対論的効果による電子EDMの発現について簡潔に述べる[21].相対論的条件の もとで一つの電子を持つ系のEDMのハミルトニアンは以下のように書ける. HEDM = i de 2 (Ψγ5γµγνΨ)F µν = −de 2(Ψγ5σµνΨ)F µν (1.9) ここでdeは電子のEDM,σµν = −iγµγν(µ %= ν),Fµν は電磁場テンソル,γµ はディ ラック行列である.これにパウリ近似を用いると以下を得る. HEDM =−deβ(σ· E + iα · H) (1.10) 以降,第二項が第一項に比べて十分小さいため,第一項のみを考える.これを拡張して多 電子系原子のハミルトニアンは H = H0+ HEDM (1.11) ただし,ここでH0は原子のハミルトニアンで,Vnuc(ri)を原子核のポテンシャルとして, H0= # i $ cα· pi+ (β− 1)mc2+ Vnuc(ri) % + e 2 4π*0 # i$=j 1 rij (1.12) 及びHEDMは HEDM =−de # iβσi· Eiint, Eint=−grad
Vnuc(ri) + # i$=j ! 1 rij " (1.13)
である. ここに外部電場Eを印加した時,摂動ハミルトニアンは H(1)= HEDM− de # i βσi· E − e # i ri· E (1.14) となり,その一次の摂動のエネルギーシフトは z軸正方向に電場の向きを取ることに よって Em(1)= * Ψ(0)m + + + H(1) + + +Ψ(0)m , =# j -−de * Ψ(0)m + + + βσz,j· Ejint + + +Ψ(0)m , − de * Ψ(0)m+++ βσz,j + + +Ψ(0)m , |E| −*Ψ(0)m +++ ezj + + +Ψ(0)m , |E|. (1.15) であるが,ここで第1項と第3項はodd parityな項であるので消えてしまい,実質的には E(1)m =−de * Ψ(0)m +++ β# j σz,j + + +Ψ(0)m , |E| (1.16) となる.同様にして二次の摂動によるエネルギーシフトEm(2)を求めることが出来る.そ れらの合計のエネルギーシフトEmは Em= Em(1)+ Em(2) = −de * Ψ(0)m +++ β# j σz,j + + +Ψ(0)m , − # n$=m * Ψ(0)m + + + HEDM + + +Ψ(0)n , * Ψ(0)n + + + e2jzj + + +Ψ(0)m , Em(0)− En(0) + # n$=m * Ψ(0)n + + + e2jzj + + +Ψ(0)m , * Ψ(0)m + + + HEDM + + +Ψ(0)n , Em(0)− En(0) |E| (1.17) であるが,このとき,EDMの存在によるエネルギーシフト*は*∝ −σ · Eで表されるか ら,原子EDMの値は式(1.17)の中括弧の中身となる.この式(1.17)の中身は非相対論 的な場合を考えると第一項は第二項及び第三項と打ち消し合い,EDMは存在しなくなっ てしまう.これが相対論的効果による原子EDMの発現である. また,特にs軌道最外殻に不対電子を一つもつアルカリ原子では,電子EDMが原子 EDMとして観測される際に最外殻電子の波動関数の存在分布が原子の中心付近で大きく なることにより,原子核の作る電場の影響で電子EDMがZ3に比例して増幅される[22] とされた(図1.6).この原子EDMでの電子EDMの増幅度K を正確に求めるために 多くの計算が試みられているが,その中の第一原理計算の一種であるRCC(Relativistic Coupled-Cluster)法による計算結果を表1.3に示した.なお,アルカリ原子ではないが Tlの計算結果も参考に記載する.
図1.6 原子系での電子EDMの増幅 原子 Z 増幅度K 文献 Rb 37 26 [23] Cs 55 121 [23] Tl 81 465 [24] Fr 87 895 [21] 表1.3 原子EDMにおける電子EDMの増幅度K
1.6
研究の目的
東北大学サイクロトロン・ラジオアイソトープセンター(CYRIC)では,宇宙の物質・反 物質非対称性の起源の解明に向け,原子EDMを用いた時間反転対称性の破れの検証を目 指し,アルカリ原子としては最も大きい電子EDM増幅度持つフランシウム(Fr, Z = 87) をレーザーを用いて冷却・トラップし原子EDM測定を行うことで,フッ化イッテルビウ ム(YbF)を用いた現在の電子EDM世界最高精度10.5× 10−28e·cm (90% C.L.)を超え る< 10−28e·cmの電子EDM探索のための準備を行なっている. EDM測定精度向上には,統計誤差を抑えるために測定対象のFr原子の個数を増やす こと,また,光トラップへ原子を導入し外場の非一様性が少ない環境で測定を行い系統誤 差を減らすことが肝要である.高精度EDM測定のためには,生成したFr原子を効率良 く光トラップへと導入する手法が重要となる.本研究では,光トラップ前段の磁気光学ト ラップ(MOT)への効率的な原子の輸送を目指し,以下の目的で研究を行った. • イオンとして生成・輸送されるFrをMOT可能な原子へと高効率で変換すること.• 生成したFr原子線を損失なくMOT領域まで到達させること. そのために,以下の設計・開発を行った. • 高速のFrイオンビームをある程度の広がりをもった原子線へと変換する「Fr中性 化器」 • Fr中性化器から出力される原子線の横方向速度をレーザーを用いて減速すること でその広がりを抑え,MOT領域までの輸送・減速過程での損失を最小限にする 「原子線横方向速度減速器」 本論文では,第2章ではCYRICで建設が行われているレーザー冷却Frビームライン の概要及びEDMの測定方法,第3章と第4章ではFrイオンビームを原子線へと変換す る中性化器の原理,設計,製作及びRb原子を用いたその性能評価実験,第5章ではFr 中性化器からの原子線の広がりを抑制する原子線横方向減速器の原理,設計,試作機の製 作について述べる.
第
2
章
冷却
Fr
原子を用いた
EDM
探索
この章ではEDM測定の原理,世界のEDM測定の現状,そして現在サイクロトロン・ ラジオアイソトープセンターで開発が進行しているFr-EDM測定実験の現状とその特色 を述べる.2.1 Fr
を用いた
EDM
測定の原理
Fr-EDMの測定は以下のようにして行われる.まず,ある原子系において電子EDM de がK倍の増幅度で原子EDM datomとして観測されるとする.即ち, datom= K· de (2.1) である.この原子へ磁場に加えて平行に電場を印加して原子スピンのラーモア歳差運動 を観測し,次に電場を反転させて再びラーモア歳差運動を観測する.EDMが存在する場 合,電場を反転させた前後のラーモア歳差運動の周波数にずれが現れるため,ここから EDMの値を決めることが出来る. 全角運動量F = 1/2を持つ原子の場合,原子のスピンと外部電磁場B及びEとの相 互作用のハミルトニアンは次のように書ける. H = µB·S S − datomE· S S (2.2) ここで,図2.1のように電場を磁場と平行・反平行になるように印加し原子スピンのラー モア歳差運動を観測するとその周波数νはν(parallel) = (2µB + 2datomE)/h (2.3a)
ν(antiparallel) = (2µB− 2datomE)/h (2.3b) となるから,この2つの差∆ν = ν(parallel)− ν(antiparallel) = 4datomE/hから原子
EDMの値を得る事ができる.
このとき,電子EDMの測定精度δdeは,原子の全角運動量F,増幅度K,印加電場 の大きさE,測定原子数N,コヒーレンス時間(電場との相互作用時間)τ,総測定回数m
を用いて, δde= !F e 1 K 1 E 1 τ 1 √ N · m (2.4) と書ける[25]. 図2.1 EDM測定模式図
2.1.1
世界の電子
EDM
探索実験
電子EDMの探索は歴史が長く、様々な量子多体系を用いた実験がなされている。不対 電子をもつ常磁性原子や、極性分子、そして閉殻構造をもつ反磁性原子系における準安定 励起状態等は電子EDMに敏感である。ここで原子及び極性分子を用いた電子EDM測 定の歴史を述べる(図2.2,[26]). 現在原子を用いた電子EDM測定で最高精度を与えているのはタリウム(Tl)原子を使 用した実験である[6].この実験は,増幅度Kが500程度と大きいTl原子ビームを2枚 の長方形電極の間を通してEDMを測定するものである.はじめにオーブンから出射され たTl原子線にレーザー光を照射して偏極させ,電極間の高電場中を飛行させた後に再び レーザー光を照射しラムゼー共鳴を測定した.この実験では電極の両端にTlオーブンを 設置して対向する方向へ飛ぶ原子線を測定し,運動する原子が擬似的な電場を感じる効果 Bm= v× E/c2を原子線の速度vが逆向きであることを利用して打ち消している. 極性原子を用いた電子EDM測定では極性分子フッ化イッテルビウム(YbF)を使用 した実験が最高精度,また現在の電子EDMの上限値を与えている[7].測定手法はTl を用いた実験とほぼ同様であるがYbFは強い内部電場を持っており,電子EDMの増 幅度に実効的な内部電場をかけた値は14.5 GV/cm(外部電場10 kV/cm)と,Tlの57 MV/cm(外部電場123 kV/cm) を大きく上回っており,測定精度を更新することが出 来た.図2.2 EDM測定の歴史 しかし,これら原子・分子線を使う実験の不利な点はそれらの速度が毎秒数百メートル と非常に速いため原子が測定領域を通過する時間が短く相互作用時間(コヒーレンス時間) が大きく制限されることである.Tlを用いた実験では90 cm,YbFを用いた実験では 75 cmの電極を使用しコヒーレンス時間を伸ばす工夫をしているが,それでもそのオー ダーはミリ秒が限界である. また,現在のEDM測定で最も大きな誤差を与えているのは測定領域の電磁場の非一様 性である.Tlを用いた実験ではTlオーブンにナトリウムを混合しTlと同時に測定を行 うことでこの磁場の非一様性による誤差を抑えている.ナトリウムの電子EDM増幅度 KはTlに対して十分小さいため,ナトリウムのラーモア歳差周期の揺らぎが観測されて もそれは磁場の揺らぎからくる誤差と考えることが出来る(共磁力計,comagnetmeter). また,YbFを用いた実験では4つのフラックスゲート磁力計を用いて磁場の揺らぎを測 定しその揺らぎを±13 nTに抑えている.しかし,これらの実験では上記のように巨大 な電極を用いて測定を行なっているためその領域での電磁場の非一様性・揺らぎを抑えて ることは難しく,測定誤差の大きな要因となる. 本実験ではこれらの原子・分子ビームを用いた実験において不利である点を解消するた め,レーザー冷却・捕獲された原子集団を測定対象として用いる.光格子トラップ中の原 子は光によるポテンシャルの格子に一つずつ存在するため他の原子との相互作用が抑制さ れコヒーレンス時間の増大(最大1秒オーダー)が見込める.また,光格子トラップ自体 の大きさは小さい(mm程度)のため,外部電磁場の非一様性からの誤差も大きく低減さ れることが期待できる.加えて,レーザー冷却が可能なアルカリ原子の中で最大の原子番
号を持ち電子EDMの増幅度が大きいFrを用いることで更なる測定精度の向上が実現で きる.Frは放射性元素であり安定同位体は存在しないが,その同位体には長い半減期を 持つ212Fr(半減期20.0 min)や210Fr(半減期3.18 min)があり,これらを用いれば加速 器を用いた核反応で生成したFrをトラップ中へ誘導し測定を行うことは測定時間と比較 すれば充分に可能である. 測定精度向上の点において多くの利点が存在するため,光によるトラップを応用した 様々な電子EDM探索が世界で進められている. Frの次に重いアルカリ原子であるセシウムを光格子中にトラップしEDMを測定する 実験がアメリカのテキサス大学[27]やペンシルベニア州立大学[28]で進められている. セシウムもFrと同様に重いアルカリ原子であり電子EDMを増幅することが可能であ る.上記のグループではMOTで冷却したセシウム原子を1次元または2次元の光格子 トラップに導入しEDM測定を行う計画である. また,セシウムでは,アメリカのローレンス・バークレー国立研究所でMOTで予備冷 却した原子をプッシュビームで打ち上げるアトミックファウンテンを使用して,超低速の 原子集団を高速な原子線の代わりに使用することによって,原子線の場合に問題になる v× E効果による誤差や相互作用時間の短さを克服する試みもある[29]. アルカリ元素ではなくとも,電子EDMに高い感度を持つ重い原子は存在する.アメリ カのアルゴンヌ大学では,放射性ラジウムの準安定状態が電子EDMを増幅することを利 用して測定を行う計画がある[30].こちらはMOTから光双極子トラップに原子を移行し EDMを測定する. 現在の電子EDMの最高精度を与えている分子でも,レーザートラップによる低温分子 を使用した次期計画が存在する[31]. 表2.1に測定が行われた,または現在計画が進行しているEDM測定について,測定方 法,測定における諸条件,目標精度等を記載する. 場所 測定対象 方法 目標精度 テキサス大学 (アメリカ) Cs 1次元光格子 10−29e·cm ペンシルベニア州立大学 (アメリカ) Cs 2次元光格子 5× 10−30e·cm ローレンス・バークレー国立研究所 (アメリカ) Cs ファウンテン 1× 10−29e·cm アルゴンヌ大学 (アメリカ) 準安定Ra 光双極子トラップ 3× 10−29e·cm インペリアル・カレッジ・ロンドン (イギリス) YbF分子 ファウンテン 1× 10−30e·cm 表2.1 世界のレーザー冷却を応用した電子EDM測定計画
2.2 Fr-EDM
測定の概要
電子EDMの増幅度が大きいFrを用いたEDM測定を行うには,放射性元素であるFr を大量に生成・輸送し,それをEDM測定の為冷却・トラップし,精密な測定に適した 環境下でEDM測定を行う必要がある.以下にそれらの一連の冷却Frを用いたEDM探 索装置の構成要素を示す.現在,東北大学サイクロトロン・ラジオアイソトープセンター (CYRIC)においてFr-EDM測定へ向けた大強度レーザー冷却フランシウム生成用ビー ムラインを建設中である.このビームラインでは,CYRICが持つAVFサイクロトロン で加速された酸素ビームと金ターゲットの融合反応を用いて生成したFrをイオンとして 引き出し,イオンビーム/中性原子線変換を経て捕獲・蓄積の為の磁気光学トラップに導 入し,最終的には電場・磁場等がよく制御された環境下にある光トラップ中でFr-EDM を測定することを目指している. この実験が行われるCYRIC第五ターゲット室,中性子飛行管室(TOF室)及びレー ザー実験室を図2.3に示す.第五ターゲット室にはFrを生成するFr表面イオン化器及び 輸送系が設置され,ここで生成されたFrはTOF室へと輸送される.TOF室は以前中性 子のTOF測定が行われていた部屋であるが,今回はそこへFr中性化・トラップ装置及 びFr-EDM測定装置を設置し,ここでFr-EDMの測定を行う.レーザー実験室では,Fr のトラップ並びにFr-EDM測定に必要なレーザー光源の開発を行い,これを150 mの光 ファイバーを用いてTOF室へと輸送し実験を行う. 第五ターゲット室及びTOF室に建設中のFrビームラインの概略図を図2.4に示す. このビームラインの各構成要素は以下のとおりである. (1) Frを生成,イオンビームとして引き出すFr表面イオン化器 (2) FrイオンビームをTOF室へと輸送するイオンビーム輸送系 (3) Frイオンを中性原子へと変換するFr中性化器 (4) Frを磁気光学トラップでトラップ可能な速度まで減速するゼーマン減速器及びそ の効率を向上させる原子線横方向速度減速器 (5) Frのトラップ・バッファリングを行う磁気光学トラップ (6) Fr-EDMの測定を行う光トラップ及びFr-EDM測定系 である.ここから,ビームラインの各構成要素の役割・必要性能を述べる.2.2.1 Fr
の生成
Frは以下のような酸素と金の核融合反応によって生成される. 18O +197Au→210Fr + 5n この核融合反応の断面積は酸素ビームが標的中の金原子核のクーロン障壁を乗り越えると ころで大きくなるため,酸素ビームの加速エネルギーはおよそ100 MeV程度が適してい図2.3 Fr-EDM測定実験が行われるCYRIC第五ターゲット室,TOF室及びレー ザー実験室.AVFサイクロトロンによって加速された18Oビームを51コースで第五 ターゲット室へ輸送し,ターゲット室内に設置した表面イオン化器に入射しFrを生成 する.生成されTOF室に輸送されたFrは中性化され,レーザー実験室から光ファイ バーで輸送したレーザー光を用いて冷却・トラップされる. る.10 GHz ECR重イオン源及びK = 110 AVFサイクロトロンによって供給される加 速エネルギー100 MeVの18O5+イオンビームは51コースを通り第5ターゲット室まで 輸送される.現状では,金標的上の一次ビーム(18O)の最大強度は800 enAである.第5 ターゲット室に入った酸素ビームを45◦スインガーマグネットにより斜め45◦からFr表 面イオン化器内部にある金ターゲットに入射し,ここでFrを生成する[32]*1. 表面イオン化器内部の金ターゲットはオーブンにより1000 ◦C前後に加熱されており, ターゲット内部で生成された107pps程度のFrは拡散を経てターゲット表面に到達する. ここで表面電離現象によってFrをイオンへと変換して最大5 kVの電圧によりビームと して引き出し,アインツェルレンズによって整形して輸送系へと導く.酸素と金の融合反 応ではFrのアイソトープと共にアスタチンやラドンなどの様々な放射性元素が生成され る.表面電離型イオン源では,後に第3章で述べる表面イオン化の際の原子のイオン化ポ *1現在Fr生成に使用している表面イオン化器は,阪大RCNP・CYRICで開発が行われていたFr表面イ オン化器1号機の発展改良形であるため,2号機と呼称している.1号機は,第3章において詳しく述べ るが,本研究においてRbイオン源へと改修して使用している
図2.4 Frビームライン全体図.スインガーマグネットで 45◦ で打ち下ろされた 18O5+一次ビームは表面イオン化器内の金ターゲットと反応しFrが生成される.イオ ンとして引き出されたFrはTOF室まで輸送され中性化,トラップされる. テンシャルと表面電離に用いる金属表面の仕事関数の関係によりイオンを電離させる.核 融合反応で生成される放射性元素は,Fr以外はそのイオン化ポテンシャルが金の仕事関 数よりも大きいため,イオンとして引き出されることはない.また,有限要素法によるイ オン軌道シミュレーションの結果,設計上のFrビームエミッタンスは3 kVの加速電圧 で約15π mm·mradである. このFr表面イオン化器の特徴は金標的を融点以上に保ったまま,溶けた状態を維持す る溶融型ターゲットの使用が可能な点である.これにより,(1)Frの金ターゲット中での 拡散速度が上がりFrの表面への到達時間が早くなる,(2)対流が起こり,これもFrの表 面への到達速度向上に寄与する,(3)ターゲット表面が常に清浄な金に保たれる等の利点 が生まれ,Frの高効率での引き出しが可能となる. 現在,800 enAの酸素ビーム強度において毎秒9×105個の210Frビームの引き出しに 成功している.また,この表面イオン化器はFrとよく似た性質を持つアルカリ原子であ るルビジウム(Rb)を原子線オーブンから入射できるようになっており,加速器を用いず とも表面イオン化器及び輸送系の調整・パラメータ最適化を行う事ができるようになって いる. 表面イオン化器の外観を図2.5に,表面イオン化器内部の構造,Fr生成実験結果及び金 ターゲットの融解の様子を図2.6に示す.
図2.5 Fr表面イオン化器外観 図2.6 (A)Fr表面イオン化器内部模式図.(B)Fr生成実験結果.縦軸は一次ビーム強 度で規格化されたFr引き出し個数,横軸は金ターゲット温度.ターゲット温度960◦C でFr引き出し個数が増加しているが,これは金ターゲットの融解によると考えられる. (C)固体の金ターゲット.(D)融解した金ターゲット.
2.2.2 Fr
イオンビームの輸送
垂直に引き出されアインツェルレンズで整形されたFrイオンビームは偏向電極及び2 つのステアリング電極によって水平方向に曲げられ,3つの静電三連四重極電極で収束さ れながらTOF室まで10 m程輸送される[33].これは核融合反応によって生じる中性子 及びガンマ線,またスインガー磁石や一次ビーム輸送系からの漏れ磁場等の影響による測 定ノイズを避けるためである.この輸送系にはファラデーカップ及びソリッドステート ディテクターを搭載した5つのビーム診断系が設置されており,輸送効率の測定が可能と なっている.偏向電極(D電極)は2枚の電極によって構成されており,3 kV程度の電圧をかけることで垂直に引き出されるFrビームを横方向に偏向することが出来る.この前 後に装備されているステアリング電極によりビーム軸を調整できる.静電三連四重極電極 では,垂直方向・水平方向の2軸計4枚の電極を3セット使用してビームを収束する.イ オンビーム輸送系の構成要素を図2.7に示す. 図2.7 Fr輸送系構成要素.(1)偏向電極.(2)三連静電四重極電極のうち一つ.(3) ビーム診断系のうちの一つ.
2.2.3 Fr
イオンビームの中性化
ビーム輸送系によりTOF 室に輸送されたFrイオンビームは中性化器に入射されイ オンから原子へと変換される.中性化の方式は種々あるが,この実験ではOrthotropic source [34]の手法を応用した新しい手法の中性化器を開発した.Frイオンビームは中性 化器へ入射され,1000 ◦C程度に加熱されたプラチナ(Pt)表面に付着する.ここで,Pt の仕事関数はFrのイオン化ポテンシャルよりも大きいため,Pt表面から離脱するFrの 大部分は再びイオンとして放出される.放出された熱的Frイオンはイットリウム(Y)中 性化ターゲットにかけられた数kVの負電圧によって作られる電場に引き寄せられ,Y ターゲット表面に付着する.この時はPt表面とは対照的に,Yの仕事関数はFrのイオン 化ポテンシャルより小さいため,Y表面から離脱するFrは熱的中性原子として放出され る.この放出される中性原子のうち,中性化器本体に開けられた小さな穴を抜けたものの みがFr原子線として取り出され,残りは再びPt表面に付着し同じサイクルを繰り返す. この中性化器の原理,設計,製作及びRb原子を用いたその性能評価については第3章 及び第4章において詳しく述べる.2.2.4 Fr
原子線の収束・減速
中性化器から取り出された原子線の速度分布は1000 ◦Cのボルツマン分布に従うため, 磁気光学トラップでトラップ可能な速度である約数十 m/sよりも速い速度の原子が大部分を占める.1000 ◦Cの分布を持つFr熱原子線中でFr原子がトラップ速度にある確率 はおよそ0.06%であるから,中性化器からの出力をそのまま磁気光学トラップでトラッ プしようとするとその効率は大変低いものとなる.このトラップ効率を向上させるため, ゼーマン減速器を用いてビーム進行方向(z軸)の減速を行う.ゼーマン減速器では,中空 のパイプの周囲にソレノイドコイルを巻き,ビーム進行方向から対向して原子に共鳴する レーザー光(Frの場合は718 nm)を入射する.原子の感じる光の波長は原子の持つ速度 によるドップラーシフトにより変化するが,これをソレノイドコイルに電流を流し連続的 に変化する磁場を発生させることでゼーマン効果を起こして補正し,常に原子がレーザー 光に共鳴して減速されるようにする.ゼーマン減速器の模式図を図2.8に示す. しかし,本実験の場合,中性化器からのFr原子はある程度コリメートされた原子線と なっているが,これを減速するためのゼーマン減速器は2 m程度の長さとなり,原子線 はその広がりのためにゼーマン減速器の壁面に衝突し大部分が失われてしまう.これを防 ぐために,ビーム進行方向(z軸)に垂直な方向(x軸,y軸)から原子遷移の共鳴付近の レーザー光を照射することによって横方向運動量を圧縮し,原子線をコリメートする装置 「原子線横方向速度減速器」を用いる.x軸,y軸に対してそれぞれ2枚(計4枚)の長方 形ミラーを設置し,そのあいだにレーザー光を反射・往復させることで効率よく原子の横 方向速度成分を減らすことが出来る. この原子線横方向速度減速器の原理,設計については第5章において詳しく述べる. 図2.8 ゼーマン減速器模式図
2.2.5 Fr
原子のトラップ
Frを測定領域まで運ぶまでに予冷を行うことで,効率良く原子を光トラップに導入する ことができる.磁気光学トラップ(Magneto-Optical Trap, MOT)は原子を捕獲・冷却す ることが出来る装置である[35].MOTについては後ほど第4章に詳しく述べる.MOT 中に捉えられた原子の速度は約8.5 cm/sまで冷却されており,空間的には数 mm程度 の狭い領域に閉じ込めらている. MOTなどの冷却原子トラップにおいては,そのトラップ寿命は真空度に大きく依 存するため超高真空を得ることが肝要である.本実験では Fr原子の捕獲・蓄積のた めの 1stMOT と 1stMOT で冷却された原子集団をさらに高真空でトラップするた めの2ndMOT の2 つのMOTを用いる (Double-MOT system, 図 2.9).1stMOTと
2ndMOTの間は細いチューブで接続され,差動排気により高真空が得られるようになっ ている. 2ndMOTにトラップされた原子は次に数十Wの大強度レーザーの焦点に光双極子力 によって原子をトラップする光双極子トラップ[36][37]に導入された後,光ツイーザーに よって測定チェンバーへ輸送され,最終的に光の干渉によって3次元的な干渉縞を作りそ の暗部に原子をトラップする光格子トラップ(図2.10)へと移されそこでEDMが測定さ れる[38]. 図2.9 レーザー実験室でRb原子を用いて開発が行われているDouble-MOTシステム
図2.10 光格子トラップ模式図
2.3
電子
EDM
測定に必要な
Fr
原子個数の見積もりと低速中
性原子線の必要性
測定対象として冷却Fr原子を用いる事で電子EDM測定精度の向上が実現できること を前節で述べた.次に現実的な実験条件を考え,どの程度の測定精度の向上が見込める か,また必要な開発要素は何かを検討する.式(2.4)において,以下のようにパラメータ を設定する. K = 895 E = 100 kV/cm T = 1 sec m = 105回 ここで測定回数は,実験で加速器を使用出来る時間を一回の測定時間で割ったものであ る.E 及びτ は現在の技術で達成可能なおおよそのオーダーを用いた.一回の測定を行 うには,原子の冷却・光格子トラップへの導入,偏極生成,ラムゼー共鳴,電場反転等を 行う必要があるため10秒程度の時間が必要である.加速器を12日間使用出来ると考え ると総測定回数mは105 回となる.このとき,測定対象の原子数を106 個とすると現 在YbFによる実験が与える上限値を超えるδde= 1.8× 10−28e·cmが達成できることに なる. Frの生成に関してはアメリカの SUNY[39] 及びイタリアのLNL[40] においては酸 素 (18O) と金 (197Au) の核融合反応を用いて,またヨーロッパの CERN やカナダの TRIUMFにおいてはウランカーバイドやトリウムカーバイドの陽子による核破砕反応を用いていずれも毎秒106 個以上のFrの生成・引き出しに成功している[41, 42].ここ東 北大CYRICにおいても前出の通り18Oと197Auの核融合反応を用いて毎秒9× 105個 の210Frの引き出しに成功しており,今後の装置の改良,ビーム輸送の最適化によって毎 秒107 個程度の210Fr生成・引き出しが見込まれている. これらの核反応を用いたFrの生成ではいずれの施設においてもFrはイオンの形で得 られるが,測定の為に光トラップに導入するには対象が電荷のない原子の状態でなければ ならず生成したFrイオンを中性化する必要が生じる. これまで行われてきたFrのトラップ実験では,Frイオンはトラップを行うチェンバー もしくはガラスセル中にある加熱されたY標的の表面において中性化され,そこから熱 的に放出されたFr原子を直接トラップする手法が取られていた.しかし,この方法では 加熱されたY標的によってトラップ領域の真空度が悪化し,その影響によってトラップ の寿命が低下する.また,Y表面から放出されるFr原子は熱的ボルツマン分布の速度を 持っているが,中性化を行うときの典型的なY標的の温度である1000◦C程度の領域に おいてはその速度のピークはFrの場合400 m/s付近にあり,MOTでトラップ可能な 速度である数十 m/s以下の原子は大変少なく直接トラップできる確率は極めて低い.ガ ラスセルを用いた実験ではガラス表面に特殊なコーティングを施しFrがセル壁面から離 脱しやすくする等の対策をとり[43],Y標的から出たFr原子だけでなくガラスセルに一 度付着し再びそこから放出されるサイクルを繰り返すFr原子に対してもトラップを試み るなどしてトラップ効率を高める工夫を行なっているが,それでもトラップ個数は電子 EDM測定値の更新に必要な106 個を上回ることは出来ていない. 本実験では,この低いトラップ効率を改善するため Frイオンビームから高輝度かつ MOTでトラップ可能な程低速なFr原子線を生成し,それを直接トラップする手法をと る(図2.11). 図2.11 低速Fr原子線の生成方式の模式図を示す.中性化器でFrをイオンから原子 へを中性化し,ある程度の広がりを持った熱的原子線を生成した後,横方向速度減速器 及びゼーマン減速器によって低速中性原子線として磁気光学トラップへと供給する. まず,新開発の中性化器を用いてFrイオンビームをある程度の広がりを持つ熱的中性 Fr原子線へと変換し,これをゼーマン減速器を用いてMOTトラップ可能な速度まで減 速する.ゼーマン減速器はこのような中性原子線の速度減速には有効な装置であり広く 使われているが,1000◦C程度の高速のFr原子線の減速を行うにはゼーマン減速器の長
さは2 m程度必要と見積もられており,このゼーマン減速器による立体角の制限により ほとんど全ての原子が失われトラップが不可能になるため,その使用は考えられてこな かった.そこで中性化器から出るFr原子線の横方向速度をレーザーを用いて減速し,コ リメートされたFr原子線を生成する原子線横方向速度減速器を開発し,ゼーマン減速器 内部でのFr原子の損失を最小限に抑える. 以下の図2.12は従来のMOT内部にある中性化標的からの原子をトラップする方式を 採用した場合,新開発を行った中性化器からのFr原子を直後でトラップした場合,中性化 器からのFr原子をコリメート・減速しトラップした場合の測定領域で期待されるFr原子 数を比較したものである.ただし,従来の方式におけるトラップ効率は[44]を参考とし, 0.2%とした.新開発を行った中性化器を使用する方式におけるイオンビーム/原子線の変 換効率は[34]を参考にして10%とし,MOTでのトラップ効率は1000 ◦Cのボルツマン 分布のうち30 m/s以下にある原子がトラップされるとして0.006%を用い,また積算時 間が10 秒あるとした.低速原子線を使用する方式では,イオンビーム/原子線変換効率 は同じく10%,原子線が減速領域を通り抜ける確率は後に詳細に述べるシミュレーショ ンを参考に20%として,MOTではその全てがトラップされ積算時間は10秒とした. 図2.12 Fr中性化・トラップ方式の比較.縦軸はその段階における利用可能なFrの個 数を示す.ただしFr生成,イオン輸送,中性化では個数/秒,MOTでは個数である. 従来の方式で問題になっていた中性化後のトラップ効率の改善により,一桁以上のト ラップ効率の向上・トラップ原子数の増大が見込め,現在の電子EDMの上限値を超える ために必要な106 個の測定原子数を達成することが出来と考えられる. そのためには,磁気光学トラップでのFr原子のトラップ時間(約10秒)を考えると, 中性化器と横方向減速器及びゼーマン減速器を用いてその数%程度を低速原子線として MOTへと供給できれば良いと考えられ,この数値を目標に第3章及び第4章に述べる中 性化器と,第5章に述べる原子線横方向速度減速器について開発を行った.