シリコンインクとそれを用いた薄膜形成技術に関す る研究
増田, 貴史
https://doi.org/10.15017/1441270
出版情報:Kyushu University, 2013, 博士(工学), 課程博士 バージョン:
権利関係:Fulltext available.
シリコンインクとそれを用いた薄膜形成技術に関する研究
増 田 貴 史
電気電子工学専攻・情報エレクトロニクスコース 博士学位論文
シリコンインクと
それを用いた薄膜形成技術に関する研究
A Study on Silicon ink and
its Technology for Thin Film Formation
指導教官 教授 浅野種正 平成 26 年 2 月
増田 貴史
i
1.1
はじめに
...11.2
半導体デバイスの製造手法
...31.3
本研究の背景
...41.4
シリコンインク
...51.5
塗布法による製膜技術
...71.6
本研究の目的と意義
...91.7
本論文の構成
...102
章 分子間相互作用と液体の物理現象の基礎
...122.1 van der Waals
相互作用
...122.2 van der Waals
力発見の歴史
...132.3
巨視的な物質間の相互作用ポテンシャル
...152.4 van der Waals
エネルギーの構成
...192.5 van der Waals
エネルギーの推算
...202.6
表面エネルギーの推算
...242.7 van der Waals
エネルギーと溶解現象
...243
章 シリコン前駆体高分子の解析
...283.1
背景
...283.2
実験
...293.3
結果と考察
...313.4
結論
...394
章 シリコン化合物と有機溶媒の光学パラメータ
...414.1
背景
...414.2
実験
...424.3
結果と考察
...434.4
結論
...51ii
5.1
背景
...535.2
実験
...545.3
結果
...565.4
考察
...605.5
結論
...646
章 塗布法によるアモルファスシリコン薄膜の作製
...666.1
背景
...666.2
実験
...676.3
結果と考察
...686.4
結論
...767
章 塗布法によるドープシリコン膜およびシリコンカーバイド膜の作製と薄膜シリコン 太陽電池への応用
...787.1
背景
...787.2
実験
...797.3
結果と考察
...837.4
結論
...978
章 結論
...998.1
本研究のまとめ
...998.2
今後の展望
... 101謝辞
... 102本研究に関する発表論文
... 103iii
A.1
光散乱法開発の歴史
... 105A.2
光散乱法の原理
... 105A.3
光散乱法のデータ解析
... 110B
シクロペンタシランの合成手法
... 112C
ポリジヒドロシラン溶液と
CPS溶液の
dn/dc測定
... 113D
ポリジヒドロシラン溶液のバッチ測定
... 114E
光学パラメータ一覧
... 115F Acid–Base
相互作用
... 121G
薄膜シリコン太陽電池
... 122G.1
薄膜シリコン太陽電池開発の歴史
... 122G.2
シリコン太陽電池の動作原理
... 123G.3
水素化アモルファスシリコン太陽電池
... 125序論
1
1 章 序論
1.1
はじめに
近年、世界各地で気候変動の影響を想起させる異常気象と記録的な災害が頻発している。
その中でも
2011年
3月
11日に発生した東日本大震災が、多くの死亡・行方不明者の発生、
住宅・工場の被災やインフラの破壊による経済活動の停滞を引き起こした事は記憶に新し い。この震災に伴う福島第一原発の事故を受け、今後原子力発電への依存度低下を図る中 で改めて温室効果ガス排出の課題が取り上げられてきた。これらの課題は、エネルギーに 関する科学技術政策と温暖化対策を一体に見直す必要性を示すものであった。大量の資源、
エネルギーを消費する現代の社会のあり方を見つめ直すとともに、持続可能な社会の必要 性を改めて意識するなど、国民の間に大きな価値観や意識の変化が生じている。
2011
年
3月の福島第一原発事故以降、国内にある
53基の原発は現在ほぼ全てが停止し、
電源は火力発電が
9割以上を占める状況にある。発電電力量に占める原発の割合を
2030年に
50%にまで増加させようとしていた当初のエネルギー計画は変更を余儀なくされ
1、 原発依存度の低下に伴う温室効果ガスの排出量増加は避けられなくなった。それに伴い日 本政府は、温室効果ガスの排出量削減目標値を
2020年までに
2000年度比で
25%減から、
2005
年度比
3.8%減と大きく引き下げた
2。この目標値の後退は世界に大きな失望と落胆を もたらした。日本はもとより、世界中の国々がより積極的な排出量削減を実現するためは、
低炭素社会に向けた国際的なエネルギー政策が必要である。
2013
年
11月、ポーランドのワルシャワにおいて国連気候変動枠組条約第
19回締約国
会議
(COP19)が開催され、
2020年に全ての国が参加する国際的な枠組みを設ける事が決定
した。しかし温室効果ガスの削減案に対する先進国と途上国間の溝は埋まらず、残念なが
ら実効的な削減目標の合意には至っていない。これは途上国が、温室効果ガスの削減によ
る経済活動の阻害を懸念している点に原因がある。排出量とは大雑把には経済活動量にエ
ネルギー効率を掛け合わせたものである。経済活動量を維持向上させながら排出量を削減
するには、エネルギー使用効率を向上させ続けるしかない。従ってエネルギー関連技術を
持つ国と持たない国との間では、削減案に関する合意を得ることは難しい。エネルギー技
術は今や国際的な舞台において技術的、経済的、政治的にも非常に重要な位置を占めるよ
うになっている。
2
Fig. 1-1
為替レート
GDP当たりの
1次エネルギー供給の国際比較
(2004年
)。縦軸は日本
のエネルギー使用効率を
1とした時の相対的な値。
GDPは
2000年為替平均レートドル換 算
温室効果ガスの主なものは二酸化炭素であり、その多くが産業に係るエネルギー消費に
よって工場から排出される
1。日本のエネルギー使用効率は世界で最も高く、アメリカの
2倍、ロシアの
18倍、世界平均(
IEA掲載国のみの平均)の
3倍である
(Fig. 1-1)3。世界
の国が日本並みのエネルギー使用効率を達成するだけでも温室効果ガス抑制の効果が非常
に大きい事がわかる。エネルギー使用効率の向上は単にエネルギーの使用量を減らすだけ
でなく、石炭、石油、天然ガスのような枯渇性エネルギーを再生可能エネルギーに切り替
えるのと同等以上の温室効果ガス抑制の効果をもたらす。世界における日本の役割は、自
らの温室効果ガス削減目標の達成のみならず、高いエネルギー使用効率を実現している技
術の普及と、産業に係るエネルギー効率を高める革新的な技術の開発に挑み続けることで
ある。
序論
3
1.2
半導体デバイスの製造手法
半導体デバイスは世界で最も大きな産業である電子産業の基礎であり、その製造に係る エネルギーの低減が望まれる。現在の半導体デバイスは、真空製膜、フォトリソグラフィ ー、エッチングという
3工程を基本とする共通技術の中で技術開発が行われてきた。多く の技術者の寝食を忘れた努力の結果として、半導体デバイスは高い性能と高度な生産性を 実現し、我々の生活を豊かにしてきた。しかし半導体デバイスの小型・高性能・低消費電力 化の技術開発に傾斜するあまり、生産に要するエネルギー効率の向上や環境負荷低減のた めの技術開発が大きな課題として浮かび上がってきた。
真空法を基本とした半導体デバイスの製造では、原料にガスを利用し、基板上に堆積さ せて膜を得る。用いられる原料ガスはシラン、ホスフィン、ジボラン等の特定高圧ガスが 主であり、法令で貯蔵量や輸送形態が厳しく制限されている。大規模生産ラインを要する 工場ではガス原料の保管スペースとそれに伴う安全設備の確保、貯蔵量の制限からくる頻 繁な原料ガスの調達と搬送が極めて現実的な課題であり、コスト高の一因になっている。
同時に真空装置が抱える課題、つまり巨大なクリーンルーム、重厚長大な設備、低い材料 使用効率と、真空環境を維持するためのエネルギーの供給等が、コスト高のみならず高い 環境負荷とエネルギー消費に繋がっている。
そこで近年では、上述した真空製膜を基本とした製造技術に代わる技術として塗布法に よる物作りが提案されている。塗布法は真空設備が不要なため製造に係るエネルギーや時 間が少なく、低エネルギーで環境負荷の小さな製造技術である。更に装置の小型化が可能 であり、設置面積の縮小や脱クリーンルームによる大幅な低コスト化が可能となる。また 材料使用効率が高いことから省資源な製造手法でもある。さらに塗布法は用いる原料が液 体である点にも強みを持つ。ガス原料と比較して液体原料は同じモル比で体積が約
3桁小 さく、保管スペースの大幅な縮小が可能である。更に液体原料は大気圧下での貯蔵が可能 であり、大掛かりな耐圧容器が不要である。また危険なドーパントソースにも溶液が使用 できるため、有毒ガスを使用せず安全性が高い。このように塗布法は低環境負荷・低エネ ルギー・低コスト・省資源の製造技術であり、原料に液体を用いる点においても多くの利 点を有する。
以上のような理由から、近年では様々な塗布型半導体デバイスが開発されている。しか
しその主なものは溶液化が容易な有機物か金属酸化物を用いたデバイスである。残念なが
ら技術的困難さから、半導体の主流であるシリコンデバイスを塗布法によって得たという
報告はほとんどない。塗布型のシリコン半導体デバイスの実現が強く望まれており、その
実現が現在の半導体産業に大きな変革をもたらすであろうことは容易に想像できるだろう。
4
1.3
本研究の背景
シリコンは現在の半導体産業で最も重要な材料の
1つである。一般にシリコンデバイス の出発原料にはシリコンウェハに代表される固相シリコンか、シランガスに代表される気 相シリコンが使われている。意外な事に液相シリコンから電子デバイスを作製したという 報告はほとんどない。従って液相を用いたシリコンデバイスの作製は全く新しい試みであ り、今までにない概念に基づくシリコンデバイス誕生の可能性を含んでいる。更にその製 造工程に着目をするとシリコンデバイスの作製に歴史上初めて塗布法が適用できる事にな る。
前節で述べたように塗布法は低環境負荷・低エネルギー・省資源のデバイス製造技術で
あり、液相シリコン、つまりシリコンインクと組み合わせる事で、シリコンデバイスの製
造に係るエネルギー、材料、コストを劇的に低減できる可能性がある。しかしながらシリ
コンデバイスの製造に塗布法を用いたという報告は僅かであり、デバイスを構成するシリ
コン
1層のみを置き換えたという報告に留まっている
4。その理由は塗布法が抱える
2つ
の課題にある。第
1に塗布法では使用する材料が液体に制限されるため、シリコンのよう
な不溶物への適用が困難である。つまり良質なシリコンインクといったものが未だ存在し
ていない。第
2に塗布法は開発の歴史が浅く、製造技術として確立されているとは言い難
い点である。再現性良く均一な塗布膜を得るための基礎的な知見や技術が明らかになって
いない。塗布法の課題は材料と製膜技術が未成熟な事であり、これが塗布法によるシリコ
ンデバイス実現の障壁となっている。そこで本研究ではこれら
2つの課題、つまりシリコ
ンインクの開発、およびシリコンインク塗布技術の開発に取り組むことで、塗布法による
薄膜シリコン薄膜の実現を目指す。そしてその成果を薄膜シリコン太陽電池へ適用する事
で、塗布型のシリコン半導体デバイスの概念を実証する。研究に先立ち、
1.4節および
1.5節では、過去、塗布法によるシリコン薄膜がなぜ実現できなかったのかについてを、材料
および製膜技術の観点からもう少し詳細に説明をする。
序論
5
1.4
シリコンインク
塗布法によって半導体シリコン薄膜を得るためには、出発原料として炭素や酸素等の不 純物を含まない、純度の高いインクを開発する必要がある。過去、シリコンインクとして シリコン前駆体物質の溶液
5,6か、シリコン微粒子の分散液
7,8の開発が行われてきた。微粒 子分散液は粒界に生じるボイドや粒子表面の酸化膜の影響によって良質な半導体膜を得る 事ができないため、ここではシリコン前駆体物質の溶液に焦点を当て、その開発の歴史を 述べる。なお本研究ではシリコン前駆体物質の溶液をシリコンインクと呼ぶ。
代表的な可溶性のシリコン前駆体物質としては有機ケイ素化合物が知られている。ポリ フェニルシラン
9、ポリメチルフェニルシラン
10、メチルシランデンドリマー
11,12、かご型 シリコン化合物
13,14といった有機ケイ素化合物は過去、活発に研究されてきた。しかしそ れら化合物は構造中に多量の炭素を含むため、これら化合物から得たシリコン膜が半導体 特性を示す事はなかった。
次に炭素を含まない水素化ケイ素化合物、
SinH2n+2の構造のケイ素化合物、が注目をさ れた。揮発性の高いトリシランを除くと、
n>4の化合物は室温で液体である
(Table 1.1)が、
それら化合物は不安定であり室温で速やかに低次シラン化合物へと分解してしまう。そし て残念なことにそれら低次シラン化合物は毒性、発火性が強く、安全面で問題が大きい。
従ってこれら直鎖状のケイ素化合物もまた、シリコン前駆体物質としては適さなかった。
Table 1.1
シラン化合物の沸点
分子式 沸点
(°C)分子式 沸点
(°C)SiH4 -111.9 Cyclo-Si3H6 N/A
Si2H6 -14.5 Cyclo-Si4H8 N/A
Si3H8 52.9 Cyclo-Si5H10 195
Si4H10 108.1 Cyclo-Si6H12 202 Si5H12 153.2 Cyclo-Si7H14 N/A
Si6H14 193.6
そこで次に
SinH2nの構造を持つ環状シラン化合物が注目された。ただし
n=3, 4の化合 物は不安定であり
15、室温で速やかに分解してしまう。一方で
n>7の化合物は合成が複雑 であり実用的でない。しかし
n=5, 6のシクロペンタシラン
(CPS)、シクロヘキサシラン
(CHS)
は安定な液体で合成も簡単である事からシリコン前駆体物質の有力な候補となった。
6
CPS
と
CHSは、
1975年に
Henngeらによって初めて合成された
16。当初
CPS、
CHSを
300°C
以上で加熱することで、
Si-Si結合の熱分解
/再結合を経てアモルファスシリコン膜
が得られると期待された。しかしいずれも沸点が
300°C以下であり
(Table 1.1)、分解前の 蒸発によりシリコン膜を得る事が出来なかった。この後、この材料はケイ素化合物の 1 つ として細々と研究が続けられた
17。
2006
年に下田らは、
CPSの開環重合によって得たポリジヒドロシランが良質なシリコ ン前駆体物質となる事を発見し、この材料は再び注目を浴びた
4。ポリジヒドロシランは
SinH2n+2の安定構造を持つ可溶性の高次直鎖状ケイ素化合物であり、有機溶媒に溶解させ ることでシリコンインクとなった。彼らはこのシリコンインクの塗膜にエキシマレーザー を当てる事で半導体特性を持つ結晶シリコン薄膜を得る事に成功した。レーザー照射によ ってポリジヒドロシラン薄膜は溶融し、膜中のシリコンのネットワーク構造がリセットさ れることで良質な結晶シリコンへと転移した。
上述した経緯から、現在のところポリジヒドロシラン溶液がシリコンインクの最有力候 補であると言える。しかしポリジヒドロシランは有機溶媒に対して溶解性が著しく悪く、
安定なインクが存在していない。また、その塗膜は製膜性が極端に悪く平坦で良質な膜を 得る事もできていない。更にこのインクから半導体特性を持つアモルファスシリコン膜を 得られたという報告もない。つまりこのシリコンインクおよびこのインクから形成される 膜の諸物性についてはほとんど明らかになっていない。特に安定なインクが得られていな い事が、全ての解析を困難にしている。
塗布法によるシリコン薄膜の形成のためには、最初に液体特有の物理現象を理解した上 で、シリコンインクの持つ溶解性の悪さや膜の不安定性といった課題に対する最適な解決 手法を見出さなければならない。その上で、シリコンインクから半導体特性を持つアモル ファスシリコン膜が得られるかの評価を進めるべきである。しかしシリコンインクのよう な特殊な液体の物理現象を基礎科学の視点から捉えた研究例はなく、残念ながら今までの ところ、これらの試みは上手くいっていない。
そこで本研究では液体の物理現象を基礎的な―ここでは分子間相互作用の―視点から捉
え、シリコンインクが抱える上記の課題解決を図る。
2章では
van der Waals(vdW)エネル
ギーの詳細を説明し、いくつかの液体特有の物理現象の考え方を述べる。その後
4章では
vdWエネルギーの観点から最適な溶媒を探索する術を見出す。
序論
7
1.5
塗布法による製膜技術
塗布法によって半導体シリコン膜を得るためには、安定なシリコンインクの開発だけで は不十分である。シリコンインクから形成したシリコン膜の特性評価を精度よく進める為 にも、シリコンインクから平坦で良質な塗膜を再現性良く得る術を見出す必要がある。一 般的な高分子溶液は、塗れ性の良い固体基板上で容易に平坦な塗膜を得る事が可能である。
しかしシリコンインクを塗れ性の良い固体基板上に塗布しても、その膜は不安定性のため に破裂をしてしまう事が多い。またその原因についてもはっきりとは分かっていない。そ こで本研究では、高分子膜の不安定性について分子間相互作用の観点から議論を試みる。
固体基板上に製膜された薄膜の均一性や安定性に関する研究は、コーティング
18,19、ペ イント、吸着
20、濡れ性
21等、幅広い分野において工業的にも科学的にも重要度が高い。
多くのアプリケーションにおいて平坦で安定な表面や界面をいかにして得るかは重要な課 題である。溶液を用いて固体基板上に薄膜を得るためには一般にいくつかの塗布法、例え ばスピンコート法のような手法が用いられる。形成される薄膜の均一性や安定性は、用い る溶媒、溶質、基板の種類に応じて変化し、得た薄膜が常に安定な状態にあるとは限らな い。例えば固体基板上の高分子膜は、ガラス転移点以上に加熱した場合、残存溶媒を含む 状態、またゲル状高分子を用いた場合など、いくつかの条件下で自発的に破裂し、膜が後 退する事が知られている
22,23。つまり高分子膜が不安定性を持つ場合、平坦な膜を保つこ とが困難となる。固体基板上の液体膜の濡れ広がり
(wetting)24,25が古くからよく研究され ているのに対し、不安定な高分子膜に見られるような、膜の撥水
(dewetting)現象や、それ に伴う膜形状の変化に関する報告は圧倒的に少ない。しかしながら高分子膜の不安定性と、
それを原因とする撥水現象が塗布法によって得た膜の製膜性を議論する際に重要である事 は明らかである。
1μm
を超えるような比較的厚い膜の撥水現象は重力の影響を受けるのに対し
26,27,28、電 子デバイスで使用されるような数百
nm以下の薄膜の撥水現象は分子間力に支配される。
薄膜では自由界面の揺らぎを自発的に増幅させて破裂するスピノーダル撥水が知られてい
る
29。揺らぎの成長は実験的によく調べられているが
30、多くの場合再現性が悪く説明が
できない振る舞いも多い。スピンコート法による薄膜形成では急速な溶媒蒸発による力学
的な応力により、通常のスピノーダル撥水よりも複雑な振る舞いを示す。また実験で使わ
れる物質は分子量分布の揃ったポリスチレンや理想的な表面を持つシリコン基板のような
限られた標準物質のみであり、電子デバイスで用いられるような機能性材料での報告は少
ない。
8
非イオン性物質では、薄膜の不安定性を特徴付ける分子間力は主に長距離の
van derWaals (vdW)
相互作用と短距離の
Acid-Base (AB)相互作用
31からなり、低極性物質では前
者の
vdW相互作用が支配的と言われている。実際の薄膜の不安定性の評価で用いられる
vdWエネルギーは、大雑把な近似のもと、膜厚のみの関数として扱われる事が多い
32。こ れは
vdWエネルギーの計算が複雑なため、標準物質では
vdWエネルギーが常に似た値を 示すという粗い近似のもとで導かれた結果である。この近似は明らかに多くの問題を含ん でいる。例えば
vdWエネルギーは引力
/斥力のどちらにもなる相互作用であり、ある臨界 点を境に振る舞いが正反対に変化するが、その影響を考慮できていない。また非標準物質 を扱えず、更に定量的な評価もできない。
これらの問題は精度の高い
vdWエネルギーの計算式を用いる事で解決される。その計 算には物質固有の光学パラメータを必要とするが、残念な事に標準物質以外ではほとんど 明らかになっていない。つまり今まで標準物質以外の系からなる薄膜に関して、
vdWエ ネルギーの観点から製膜性を議論したという報告がない。
塗布法を用いて電子デバイスを作製するには、溶液から平坦で均質な薄膜を再現性良く
得なくてはならない。しかしシリコンインクの塗膜の不安定性の原因は現在までのところ
明らかになっておらず、再現性良く良質な塗膜が得られていない。結果として膜の物性評
価にも手が付けられていなかった。従って塗膜の膜形状を決定する因子を明らかにした上
で膜の不安定性に関する定量的な評価を行い、安定な膜を得る手法を見出す必要がある。
序論
9
1.6
本研究の目的と意義
本研究の目的は、塗布法によるアモルファスシリコン薄膜の実現可能性を示すことであ る。その実現がシリコンデバイスの分野にどのような変革をもたらすかについては既に
1.2節、
1.3節で述べたが、この節の最後でも簡単に触れる。
本研究では、目的を果たすために克服すべき
2つの技術的な課題を提示する。
1つはシ リコンインクの開発であり、もう
1つはシリコンインクの塗布技術の開発である。
1.4節、
1.5
節で述べたようにいずれも液体特有の課題を抱えており、液体の基礎物理に立脚した 理解と課題解決が求められる。本研究では分子間相互作用、より具体的には
vdWエネル ギーの観点から各々の課題解決に取り組む。そして最終的には
p型、
i型、
n型のシリコ ンインクおよびシリコンカーバイドインクの開発、更にそれらインクから平坦で均一なシ リコン膜を再現性よく得る為の手法を見出す。そして得られたシリコン膜を薄膜シリコン 太陽電池に応用することで、塗布法によるシリコン薄膜およびデバイスの概念を実証する。
以上が本研究で取り組む内容である。
本研究は、液相シリコンという新たな学術分野を提供すると共に、低環境負荷・低エネ ルギー・低コスト・省資源のシリコンデバイス製造技術を提示するものである。各種シリ コンインクの開発と、塗布法による
pn接合デバイスの実現は、塗布法の適用可能性を歴 史上初めてシリコン半導体の分野へと展開する事になる。
既存の技術の延長でなく全く新しい技術によって現在の課題を克服し、持続可能な開発
を目指す、というのが本研究の趣旨である。巨大なクリーンルームや真空設備、更には多
量の材料、エネルギー、時間を消費する現在のシリコン半導体産業の技術開発は生産消費
型の技術発展であり、環境保全の面からも大きな課題に直面している。塗布法によるシリ
コン薄膜の実現は、それらの課題を克服できると期待される。本研究は、多量のエネルギ
ーを消費する現在の製造技術の在り方を変え、今後の半導体産業が持続可能な発展を遂げ
るためにとるべき
1つの方向を提示する事になると筆者は考え、これを研究意義とした。
10
1.7
本論文の構成
本研究のテーマは『シリコンインクとそれを用いた薄膜形成技術に関する研究』である。
材料や製造プロセスがある程度確立している真空法とは異なり塗布法は、材料、プロセス、
デバイスと、異なる研究分野に亘る横断的な開発が求められる。各工程間の関係性を明確 にするため、本論文では太陽電池完成までの工程を
5つの要素に分割し、各要素に各章を 充てる事とした。その要素とは、材料開発
(3章
)、インク化技術
(4章
)、製膜技術
(5章
)、 薄膜評価
(6章
)、太陽電池作製
(7章
)、である。
1
章では本研究の背景と目的について触れ、それを序章とした。近年のエネルギー政策
に関わる世界の流れと、その中におけるエネルギー関連技術の重要性、それとデバイス製
造に係るエネルギー低減のための技術開発の必要性を述べた。現在のシリコン半導体産業
が直面している多くの課題を解決するために、我々はシリコンの製膜手法に塗布法を用い
ることを提案した。
2章では本研究の遂行において中心的役割を果たす分子間相互作用に
関する物理的基礎を説明する。
3章では本研究で中心材料となるポリジヒドロシランの合
成方法と、高分子の特性解析の結果を述べる。
4章はインク化技術について述べる。ポリ
ジヒドロシランを含め、塗布法で重要となる多くの液体
/固体試料の
vdWエネルギー算出
に必要な光学パラメータを報告する。ここでは実際に溶媒の表面張力やポリジヒドロシラ
ンの溶解性の議論を通して
vdWエネルギーの重要性を検証する。そして
3章や
5章以降
で使用する最適な溶媒を、
vdWエネルギーの解析を通して提案する。
5章は製膜技術につ
いて述べる。固体基板上に製膜されたポリジヒドロシラン塗膜の不安定性と
vdWエネル
ギーの計算値とを比較し、膜の不安定性メカニズムを議論する。そして
vdWエネルギー
の観点から、安定で均一な塗膜を得るための指針を示し、
6章以降のシリコン製膜に反映
してゆく。
6章はシリコンインクの熱分解過程に着目し、加熱後に得られるシリコン膜の
物性について報告する。この章において、塗布法による半導体アモルファスシリコン膜が
得られるかを検証する。
7章では半導体デバイスに欠かすことのできない
p型、
n型のシ
リコン膜およびシリコンカーバイド膜を開発する。そしてそれら膜を薄膜シリコン太陽電
池に適用し、塗布型シリコン半導体デバイスを実証する。
8章では本研究で得られた成果
を総括し、残された課題と今後の展望について議論する。
序論
11
参考文献
1
経済産業省
HPエネルギー基本計画
(平成
22, 25年度
)資料より
, http://www.meti.go.jp/2 COP19, http://www.cop19.gov.pl/
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より算出
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11 H. Suzuki, Y. Kimata, S. Satoh, and A. Kuriyama, Chem. Lett. 24, 293 (1995).
12 A. Sekiguchi, M. Nanjo, C. Kabuto, and H. Sakurai, J. Am. Chem. Soc. 117, 4195 (1995).
13 H. Matsumoto, K. Higuchi, S. Kyushin, and M. Goto, Angew, Chem. Int. Eng. Ed. 31, 1354 (1992).
14 N. Wiberg, and K. Polborn, Angew, Chem. Int. Eng. Ed. 32, 1054 (1993).
15 R. S. Grev, and H. F. Schaefer, J. Am. Chem. Soc. 109, 6569 (1987).
16 E. Hengge, G. Bauer. Monatshefte fur Chemie 106, 503 (1975).
17 V. S. Mastryukov, M. Hofmann, and H. F. Schaefer, J. Phys. Chem. A 103, 5581 (1999).
18 Z. W. Wicks, F. N. Jones, and S. P. Pappas, “Organic Coatings: Science and Technology.”
Wiley-Interscience, NewYork, 1992.
19 F. Garbassi, M. Morra, and E. Occhiello, “Polymer Surface.” Wiley Chichester, 1994.
20 J. R. Philip, J. Chem. Phys. 66, 5069 (1977).
21 P. G. de Gennes, Rev. Mod. Phys. 57, 827 (1985).
22 D. J. Srolovitz, and S. A. Safran, J. Appl. Phys. 60, 247 (1986).
23 K. Sekimoto, R. Oguma, and K. Kawasaki, Ann. Phys. (N.Y.) 176, 359 (1987).
24 W. F. Cooper, and W. H. Nuttall, J. Agricult. Sci. 7, 219 (1915).
25 J. Daillant, J. J. Bennatar, and L. Leger, Phys. Rev. A 41, 1963 (1990).
26 C. Redon, F. B. Wyart, and F. Rondelez, Phys. Rev. Lett. 66, 715 (1991).
27 C. Andrieu, C. Sykes, and F. B. Wyart, Langmuir 10, 2007 (1994).
28 L. Bacri, and F. B. Wyart, Europhys. Lett. 56, 414 (2001).
29 G. Reiter, Phys. Rev. Lett. 68, 75 (1992)
30 G. Reiter, Science 282, 888 (1998).
31 C. J. V. Oss, M. K. Chaudhury, R. J. Good, Adv. Colloid Interface Sci. 28, 35 (1987).
32 T. Kerle, R. Y. Rozen, J. Klein, and L. J. Fetters, Europhys. Lett. 44, 484 (1998).
12 2 章 分子間相互作用と液体の物理現象の基礎
はじめに
塗布法による物作りにおいて、液体の物理現象を理解する事は極めて重要である。物質 の溶解現象、液体の塗れ性、液膜の安定性等、塗布法に関わる物理現象はいずれも溶媒、
溶質、基板のいずれかの間に働く分子間相互作用の影響によって決定する。本章では、本 研究を推進する上で重要となる分子間相互作用
―具体的には
van der Waals(vdW)相互作 用
―の基礎について説明をする。そしていくつかの液体の物理現象と
vdW相互作用との 関係を示す。物質の溶解性や濡れ性に関する説明をこの章で行い、
3章以降では実際の物 理現象との比較を通して
vdW相互作用の議論を進める。
2.1 van der Waals
相互作用
van der Waals (vdW)
相互作用は物質間に常に働く普遍的な相互作用であり、分子間力
が関与する全ての現象において中心的な役割を演じている。粒子間に働くこの相互作用エ ネルギーの大きさは距離の
6乗に反比例するために影響力は比較的小さいと思われがちで ある。しかしこの相互作用は可算的であり、巨視的物質間においては最大で距離の
1乗に 逆比例する長距離力へと変化する
(2.3節で詳細を述べる
)。異なる形状の物体間に働く
vdWエネルギー
W(L)と物体間の距離
Lの関係を
Fig. 2-1に一覧にして示す。この長距離効 果に加え、
vdWエネルギーの一部の相互作用の起源が量子力学的なものであることから、
エネルギーの染み出し効果が知られている。更に重要な点として、この相互作用は真空中
では常に引力的だが液体中では引力的にも斥力的にも変化する点が挙げられる。主にこの
3つの特徴により、
vdW相互作用はしばしば無視できない程の影響力を持つ。この相互作
用の起源に関しては
2.2節で簡単に述べるが、その本質を理解するためには場の量子論の
概念が必要となる。ここでは難しい事に触れず主に
vdWエネルギーの推算手法について
説明をする。
vdW相互作用が実際の物理現象に与える具体的な影響力に関しては各章を
通して議論をしてゆく。
4章ではポリジヒドロシランの溶解性について、
5章ではシリコ
ンインクの製膜性について、
vdW相互作用の観点から検証する。
分子間相互作用と液体の物理現象の基礎
13
Fig. 2-1
対加算性に基づいて計算した異なる形状の物質間の
vdW相互作用エネルギーと
物体間の距離の関係
332.2 van der Waals
力発見の歴史
19
世紀、
van der Waalsは分子の大きさと分子間力を考慮した期待の状態方程式を報告
した。
vdW力と呼ばれるこの力の正体は、後に
M. Plank、
B. G. Casimir、
E. M. Lifshitzの
3人によって明らかにされた。
1900年、
Plankは黒体放射に関する
Plankの法則を発表し
た。
Plankは黒体放射において発生する電磁波に分子・原子の振動子による振動を仮定し
た。そしてその単振動のエネルギーが量子化していると仮定し、整数倍のエネルギーのみ をとるとした。つまり波の調和振動子のモデルから零点振動が導入され、また、ある制限 された空間内の電磁場では定在波のみしか存在を許されない事を示した。位置と運動量の 不確定性からも電磁波は必ず零点エネルギーを持つとされた
(Fig. 2-2)。
Fig. 2-2 Planck
による空洞放射の実験
14
その後
Casimirは
Plankの実験で用いた箱を縦に無限に引き延ばしたとする仮想実験か ら、真空中の
2枚の金属壁の間に働くエネルギーを計算した。位置と運動量の不確定性を
4次元に展開することで、時間とエネルギーの不確定性が得られる事から、
Casimirは真 空を仮想電磁波、ここでは仮想光子で満たされた揺らぎのある場であると考えた。プラン ク時間以下であれば、真空には無限大のエネルギー、つまり無限の波の出現が許される。
ただし
Plankの法則から、
2枚の金属板の間では定在波のみしか許容されないため、金属
壁の間と外側ではエネルギー差が発生することになる。この零点エネルギーの差分として 現れる電磁圧力が
Casimir力と呼ばれる
(Fig. 2-3)。
Fig. 2-3 Casimir
による定式化
その後
Lifshitzは
Casimirの考えを実際の物質に適用する事に成功した。
Casimirの仮想 実験にある真空を挟む
2枚の金属板は、ある媒質を挟む
2つの誘電体に置き換えられた。
この
2つの誘電体間の電磁的性質は真空の場の揺らぎではなく、媒質の振動電荷の揺らぎ、
つまり電子や光子の吸収
(共振
)振動数と振動子強度によって表現される
(Fig. 2-4)。
Fig. 2-4 Lifshitz
による相互作用エネルギーの概念図
分子間相互作用と液体の物理現象の基礎
15
場の揺らぎに着目したのが
Casimirであり、場の揺らぎを誘起する振動電荷に着目した
のが
Lifshitzである。振動子の物理的役割は、電荷、格子の振動によって電磁場を形成す
る事と同時に、吸収によって場の振動を抑制することである。
Lifshitzにより、金属板だ けでなく半導体、絶縁体、全ての物質間に働く零点エネルギーの差分が求まるようになっ た。これが
vdW力の正体である。
2.3
巨視的な物質間の相互作用ポテンシャル
2.1
節において、
vdW相互作用は巨視的物質間においては最大で距離の
1乗に逆比例す る長距離力へと変化すると述べた。ここでは実際に
2つの原子
(もしくは小さな分子
)間に 働く対ポテンシャル
(pair wise potential)を、分子―平らな表面間、球形粒子―平らな表面 間、平らな表面―平らな表面間の相互作用へと展開し、なぜ短距離相互作用が長距離相互 作用に変化するのかを数学的に示す。対粒子間の相互作用を考える際のモデル図を
Fig. 2-5
に示す。
Fig. 2-5
距離
L離れた物質間に働く相互作用エネルギーの和の計算方法
(a)1つの分子と
平らな表面間
(b)平らな表面と球形粒子
(c)2つの平らな表面間。
16
分子―平らな表面間相互作用
2
つの原子間もしくは小さな分子間の対ポテンシャルが純粋に引力的であるとすると、
相互作用ポテンシャルは典型的に式
(2.1)で表される。
( ) Cn
W L L . (2.1)
ここで
Cは比例定数である。更に加算性を仮定すると、同種分子からなる固体の平らな 表面と
1個の分子間の正味の相互作用エネルギーは、その分子と物体中の全ての分子の相 互作用の和になる
(Fig. 2-5a)。断面積
dxdy、半径
yの円環中の分子に対して、環の体積は
2πydxdyであるから、環の中の分子数は
2πρydxdyとなるここで
ρは固体中の分子の数密度 である。従って表面から距離
Lだけ離れた分子に対する正味の相互作用エネルギーは次 のように与えられる。
2 2
2
2
30
2 2
( ) 2 ( 3)
2 2 3
x y x
n n n
x L y x L
ydy C dx C
W L C dx n
n x n n L
x y
(2.2)2
つの原子間もしくは小さな分子間の
vdWエネルギーは
n = 6である事が知られており、
これを代入すると上式は次のようになる。
( ) 3
6 W L C
L
. (2.3)
これは
Fig. 2-1のリスト中、右上の関係式に対応する。
分子間相互作用と液体の物理現象の基礎
17
球形粒子―平らな表面間相互作用
最初に半径
Rの球が
Fig. 2-6のように壁に付着した際の有効接触面積を求める。ピタゴ ラスの定理
AC2=AB2+BC2=AD2+BD2+BD2+DC2から、
4R2=a2+2y2+(2R-a)2が得られ、これ を簡単化すると次のようになる
y2=(2R-a)a ≈ 2Ra (R>>a) (2.4)
Fig. 2-6
壁に付着した球の有効接触面積の求め方
Fig. 2-5b
に あ る よ う な 形 状 に お い て 、 面 積
πy2、 厚 さ
dxの 円 形 の 断 片 の 体 積 は
πy2dx=π(2R-x)xdxであり、この断片に含まれる分子数は
πρ(2R-x)xdxとなる。これら全て の分子が表面から
(L+x)の距離にあるので、正味の相互作用エネルギーは
(2.2)式から次の ようになる。
2 2 2
3 0
2 2
( ) 2 3
x R
n x
R x xdx W L C
n n L x
. (2.5)L<<R
の時、
xの小さな値
(x≈
L)のみが積分に寄与するので、次の式を得る。
2 2 2 2
3 5
0
2 2 4
( ) 2 3 2 3 4 5
x
n n
x
C Rxdx C R
W L n n L x n n n n L
= . (2.6)これは
n=6の場合
2 2
( ) 6
W L C R
L
. (2.7)
となる。これは
Fig. 2-1のリスト中、下段中央の関係式に対応する。
18
平らな表面―平らな表面間相互作用
次に距離
L離れた
2つの平な表面間の相互作用エネルギーを計算する
(Fig. 2-5c)。無限 に広がった
2つの面の場合、結果も無限大になるから、単位面積あたりのエネルギーを考 える。単位面積を持ち厚さ
dxの分子の薄膜を考える。薄膜は、それよりも大きな面積を 持つ広がった表面から距離
x離れているとする。
(2.2)式から分かるように、この薄膜と表 面の相互作用エネルギーは次のように与えられる。
3( ) 2
2 3 n
C dx
W L n n x
. (2.8)
従って
2つの表面間では次のようになる。
2 2
3 4
2 2
( ) 2 3 2 3 4)
x
n n
x L
C dx C
W L n n x n n n L
= . (2.9)これは
n=6の場合
2
( ) 2
12 W L C
L
. (2.10)
となる。これは
Fig. 2-1のリスト中、左下の関係式に対応する。
Fig. 2-1のリスト中の他 の形状の物質間相互作用エネルギーと距離の関係についても同様の手法で導くことができ る。
物質の大きさと相互作用距離の関係
以上の計算から明らかなように、
2つの巨視的な物質間の相互作用エネルギーは
2つの 原子間および小さな分子間の場合に比べ距離とともにかなりゆっくり減衰するため、
vdW相互作用は事実上かなりの長距離相互作用となる。ここでは物質の大きさと相互作用距離 についてもう少し説明をする。最初に直径
σの小さな分子が壁に接触した際の
vdW相互 作用エネルギーを考える
(体積を持つ分子間の中心間距離をとるので、接触時は
L = 0で なく
L = σとなる
)。
(2.3)式から、
ρ = 2/σ3(最密充填構造の固体に対応
)とおくと、
6 6
2 0.74
( ) 6
C C
W
. (2.11)
となる。同様に壁に接触する原子状サイズの球
(R=σ/2)に対しては
(2.7)式から
6
( ) 1.6C W
. (2.12)
となる。これらは接触する
2つの小さい分子間の対ポテンシャルの関係式
(C/L6)にかなり
近い。しかし球状物質のサイズが原子サイズよりも大きくなると(すなわち
R > σになる
と
)、接触した際に
(2.7)式は次のようになる。
分子間相互作用と液体の物理現象の基礎
19
2
7 6
1.6 2 / ( ) 2
6
R C
W CR
. (2.13)
この式は半径が小さく、
R≈
σ/2≈
0.1–0.2 nmのオーダーの時のみ
(2.12)式に帰着する。
しかし大きな球に対しては、この式は
Rに比例して増大する。つまり球状物質の直径が
約
0.5nmを超えると、分子は既に
(小さな
)球状粒子と見なさなければならない。
2.4 van der Waals
エネルギーの構成
vdW
エネルギーは、
Keesom、
Debye、
Londonと呼ばれる
3つの相互作用からなる。そ れぞれが極性―極性、極性―非極性、非極性―非極性間の相互作用を表す
(Fig. 2-7)。
Fig. 2-7 vdW
エネルギーを構成する
3つの相互作用
本研究の中心材料であるポリシランは非極性物質であることから、この
3つの相互作用の
中でも
London分散力が重要となる。以下に簡単にこの力について述べる。この力の起源
は量子力学的なものであり、厳密には複雑な理論で取り扱われる。しかし直感的には次の
ように理解することができる。無極性原子の場合、その双極子モーメントの時間平均はゼ
ロであるが、瞬間的には原子核陽子のまわりの電子の各瞬間の位置によって有限の双極子
モーメントを持つ。この瞬間双極子のつくる電場が近くの中性原子を分極してその内部に
双極子モーメントを誘起する。この
2個の誘起双極子間の相互作用が
2個の原子間に瞬間
的な引力を生じ、この力の時間平均はゼロとならない。これが
London分散力である。
20
2.5 van der Waals
エネルギーの推算
vdW
エネルギーは物質の分極によって発生する静電的相互作用であり、個々の物質が 持つ分極率の値から求められる。
2.3節で述べたように、粒子対ポテンシャルの単純な加 算によって任意の巨視的物質間相互作用を求める事ができるが、この時、隣接原子の影響 が無視されている。ある原子の分極率は他の原子に囲まれると変化する。また相互作用す る
2つの原子の周囲に第
3の原子が存在すると、エネルギーは直接的に到達するものに加 えて第
3の原子による反射によっても到達する。このような多体問題のため、単純な加算 性は成り立たなくなる。従って凝縮媒質間の相互作用では、加算性に基づく手法を拡張す る事は適切ではない。しかしこの問題は連続体理論に立脚した
Lifshitz理論によって回避 する事ができる。連続体理論では媒質中の原子構造は無視され、連続媒質として塗りつぶ される。物質の電磁的性質は粒子の持つ分極率ではなく、誘電率や屈折率のようなバルク の物理量を用いて導かれる。しかし
Fig. 2-1に示した相互作用エネルギーに対する関係式 は、連続体理論の枠内でも有効である。唯一変更される点は、関係式の分子に現れる
Cを含む定数項
(Hamaker定数
)の計算法である。
連続体理論による
Hamaker定数の計算
ある誘電体物質
3を挟んで距離
L離れた平板
1、
2の間に働く単位面積あたりの
vdWエ ネルギー
W132(L)は、
Lifshitz理論によると次のように与えられる
34。
132( ) 1322
12 W L A
L
. (2.14)
A132
は
Hamaker定数と呼ばれ、着目している物質の形状に依らずに決まる
vdWエネルギ
ーの定数項である。
(2.14)式は粒子対ポテンシャルの加算法によって求められた
(2.10)式に 対応する。
vdWエネルギーの推算とは、
Lifshitz理論によって
A132を求める事にほぼ等し い。
A132は次のように与えられる。
13 23
132 3
0 1
3 '
2
s BT
n s
A k T
s
. (2.15a)( ) ( )
( ) ( )
k n j n
kj k n j n
i i
i i
. (2.15b)
第
1項の総和についているプライムは、
n = 0の項に
1/2を乗じる事を意味する。また、
ξn= n(2kBT/ћ)
であり、ここで
ћ、
kBT、Tはそれぞれ プランク定数、ボルツマン定数、絶対
温度である。この際、個々の物質を粒子でなく連続体として扱う
Lifshitz理論では、単位
体積当たりの分極率である電気感受率
χと誘電率
εの関係
χ = ε-1を用いて、
(2.15)式のよ
うに分極率の代わりに誘電率
εを用いて記述される。しかしながら全周波数領域において
分子間相互作用と液体の物理現象の基礎
21
正確な
εを求める事は難しく、後述する
ε(iξn)が用いられる。この
ε(iξn)は誘電関数
ε()か ら数学的手法によって求められる値であり、物理的な意味は持っていない。スペクトル形 状は
ε()と等しいが、
δ関数を用いて共振点の発散を丸めこんだなだらかなカーブを描く
(Fig. 2-8)。
A132は
ε(iξn)を通して物質の性質と関連付けられている。式中
nと
sはそれぞれ 周波数領域をどこまで考慮するか、
2つの物質間で相互作用する電磁波を何往復まで考慮 するかを表している。
Fig. 2-8
単純化した誘電関数スペクトルの一例。
(a) ε’(ω)を赤線
, (b) ε”(ω)を緑線
, (c) ε(iξn)を青線で示した。
22
Simple Spectral Method (SSM)
Hamaker
定数
A132の計算手法として代表的なものに
Simple Spectral Method (SSM)や
Tabor Winterton Approximation(TWA)
が挙げられる。詳細は各章中で述べるが、多岐に亘る
材料の評価には
SSMが適している。
TWAは計算が簡単な反面、似た物質の評価にしか 適用できない。本論文では主に前者の
SSMを用いて計算を行う。ここでは
SSMの理解の ために、物質の誘電スペクトルに関してもう少し説明を続ける。
ε()
は
ε() = ε’() + iε’’()で与えられる。ここで
ε’()と
ε’’()は誘電関数
ε()の実部と 虚部であり、後者は誘電応答の遅れとエネルギーの分散を表す
(Fig. 2-8b)。この分散は物 質の吸収スペクトルとして観測される。もし吸収が一切ないならばその領域の
ε’’()はゼ ロとなり、誘電関数
ε()は屈折率
nRIと次のように関連付けられる。
( ) '( ) nRI2
(2.16)
ε’()
と
ε’’()を関連付ける
Kramers-Kronigの式を用いると
ε(iξn)は次のように表される
35。
2 2
0
2 "( ) ( ) 1i x x dx
x
. (2.17)従って
ε’’ ()の値から
ε(iξn)を求める事ができる。実験的には電子エネルギー損失分光法 や真空紫外の吸収スペクトル測定が用いられる。しかしそれらの実験を用いても全周波数 領域における正確な
ε’’()の値を求めるのは困難である。従って
Parsegianと
Ninhamは、
ε(iξn)
を記述する次のような近似式を提案した
36。
2 2
( ) 1 1
j i
j i i
j i
d f
i g
. (2.18)
g
はスペクトルの幅を、
hと
fはスペクトルの強度を、
jと
iはマイクロ波領域と可視・紫外領域の誘 電スペクトルのピーク位置を示す。第
1項の
1は真空の誘電率を表す。第
2項の総和は極性物 質の持つ回転緩和
(Debye緩和
)による吸収を表す。 この項は水のような極性の強い物質では重 要だが、低極性物質では無視することができる。第
3項は赤外以下の周波数における吸収
(Lorentz
振動
)を表す。赤外
(IR)領域と紫外
(UV)領域の吸収はそれぞれ分子振動と電子振動に
よる。ポリジヒドロシランのような低極性物質では回転緩和の項を無視でき、上式は次の形に簡素 化できる。
21
( ) 1 1
N i
i i
i C
. (2.19a) 2 ii i
C f . (2.19b)
この式は
Parsegian-Ninhamの式として知られている。この式によると静的誘電率は次のよ
うに表される。
分子間相互作用と液体の物理現象の基礎
23
1
0 1 N i
i
C
. (2.20)簡単のため、
ε(iξn)のスペクトルを特徴付ける
IR領域と
UV領域の吸収振動数
ωiと振動子 強度の関数
Ciを
1つずつ用いると
(2.19a)式は次のようになる
37。
1 1
IRIR
2 1
UVUV
2C C i
. (2.21)
また、
(2.20), (2.21)式から低極性物質の
CIRは大雑把に次のようにして求められる。
0 1IR UV
C C .
(2.22)
ξn = n(2kBT/ћ)
であるために、
A132の計算をする際に考慮する
IR領域の項数は
UV領域の 項数よりも
1桁小さい。更に低極性物質の
CIRは一般的に
CUVよりも小さい。したがって 低極性物質では
IR領域の項を無視することで、
(2.21)式は次のように単純化できる
38。
1 1
UVUV
2i C
. (2.23)
強い分子振動を持つ物質では
IR領域の吸収を無視する事は適切ではないが、低極性物質 ではこのように
UV領域の項だけでも適切な
ε(iξn)のスペクトルを描く事ができる。この
UV領域のみのスペクトルから導かれるのが
London分散力である。
Houghと
Whiteは、
UV
領域の吸収振動数
UVと振動子強度の関数
CUVを求めるために
(2.16)式を用いた。
ξ =iω
として
(2.23)式を次のように変形する。
2 2 2
1 ( 1) 2
RI RI UV
UV
n n C
.
(2.24)