博 士 ( 水 産 科 学 ) 中 村 厚
学 位 論 文 題 名
水産無脊椎動物トロポミオシンの食品製造過程における 挙動とアレルゲン性変化に関する研究
学位論文内容の要旨
1997年度に 厚生省(現 厚生労働 省)が主 体となり ,食物アレルギーに関する全国調査が おこなわれた。その調査結果から,(i冫乳幼児に限らず,成人においても食物アレルギー患 者が多い(食物アレルギーを起こした人の割合憾それぞれ8.6%および9.3%)ことや,(ii冫 乳幼児や 若年層に おけるア レルギー 原因物質 (アレル グン)の第一位は卵であるのに対し て,成人では魚類やエビ・カニ等の甲殻類が上位を占めていること等が初めて明らかとなっ た。 近年になっ て,さま ざまな魚 貝類のア レルグン タンパク質が同定され,節足動物(甲 殻 類) や 軟体 動 物 等の 無 脊椎 動 物 ではト ロポミオ シン(TM),魚類 ではパル ブアルブ ミン 韜 よびコラー ゲン,魚 卵ではB .コンポーネントが主要アレルゲンであると報告されてい る 。アレル ゲン物質 の同定は 主に生鮮 品を用い ておこなわ れているが,我々は魚貝類を生 の ままだけ ではなく ,加熱調 理品や加 工食品と しても摂取している。そのため,生鮮魚貝 類 のアレルゲ ン物質が 明らかと なった現 在,水産 加工食品 のアレルゲン性に関する研究も おこな う必要がある。しかし,.これまでに魚類加工食品のアレルゲン性に関する報告例は
あるが, 節足動物 や軟体動 物を原料 とした加 工食品のア レルゲン性についての研究は見当 たらない 。
我が国における重要な水産加工食品原料として,ホタテガイやスルメイカが挙げられる。
こ れらを乾 燥させて 作られる 乾製品で は,製造過 程中にメ イラード反応が進行し,タンパ
ク 質のアミ ノ基と還 元糖のカ ルボニル 基との間 で複雑な反応が起きている。しかし,この よ うな反応 がアレル ゲン物質 にどのよ うな影響 を与えているかは不明である。そこで本研 究で は,製造過 程中に起 きるメイ ラード反 応がホタ テガイおよぴスルメイカの主要アレル ゲン で あるTMのア レ ルゲン 性におよ ばす影響 にっいて 検討した 。また, 無脊椎動物 間の 抗原交差性の有無やメイラート、、、反応とアレルゲン性変化の関係を解明することを目的に,
TMのIgE結 合エ ピ ト ープ の 同定 をおこ なった。
第一章で は,グルコ ースやり ボースと のメイラ ード反応 の進行に伴うホタテガイTM(以 下 , グル コ ー スと 反 応 したTMをTM―gと する)の アレルゲ ン性変化に ついて検 討した。
そ の結果, ′IヽMと還元 糖との間 でメイラ ード反応 が進行するとTMのアレルゲン性は著し く増大し た。次に 第二章で は,ホタ テガイと同じ軟体動物門に属するスルメイカを試料と したと ころ,リ ボースとメイラード反応したスルメイカTM(以下,TM―.r)のアレルゲン 性 は大 き く低 下 し ,グ ル コ ース や りボース と反応し たホタテ ガイTMとは 全く異なる 挙動 を示 した。こ れについて は,反応 性£.ア ミノ基を 対象とし た修飾実験の結果から,TM分 子 中の り ジン 残 基 への グ リ コシ ル基の 結合では なく,メ イラード 反応の進 行に伴うTMの 立体構造変化に起因する現象であると推察した。
第一 章およぴ 第二章の 結果から, メイラー ド反応の 進行に伴いホタテガイとスルメイカ TMの ア レ ルゲ ン 性が 大 き く変 化 する こ とが判明 した。そ こで第三 章では, メイラード 反 応 が 進 行し たTMを 摂 食す る こと を 想 定し , ペ プシ ン およ び ト リプ シ ンを 用 い たプ ロ テ ア ーゼ 処 理が 両TMの ア レ ルゲ ン性に およぼす 影響につ いて検討 した。メ イラード 反応が 進行 し たTMは プロ テ ア ーゼ 処 理 によ り 低分子化 していた が,メイ ラートご 反応の進行 に 伴って起 きたアレ ルゲン性 変化は消 化物におい ても維持 されてい た。すなわち,ホタテガ イTM−gで はnative TM (TM―n) より も アレ ル ゲ ン性 が 高く , スルメ イカTM―rで はそ
れ より 低か った 。こ の結 果よ り, 両消化物中にIgE結合能が変化した領域を含む消化断片 が存 在し てい るこ とが 示唆 され た。 しかしSDS‑ PAGEの 結果 によ ると,ホタテガイTM―n お よびTM−gの ペプシ ン・ トリ プシ ン消 化物では消化断片を明瞭に検出できないほど低分 子化が進行していた。そこで,ベプシン・トリプシン消化物をゲル濾過クロマトグラフイー に供 した 。そ の結果 ,TM−n消化 物で は大部分が分子量3,500以下まで低分子化していた の に対 して ,TM―g消 化物 では 分子 量3,500以上の断片が大部分を古めており,ホタテガ イTM―g消 化 物 の 方が 分子 サイ ズの 大き なぺ プチ ド群 を有 してい た。 この こと が, ペプ シ ン・ トリ プシ ン消 化物 におい ても ホタ テガ イTMーgのアレルゲン性が高かったことと関 係 して いる と考 えら れた 。
第三章までは,モデル実験系を用いてアレルゲン性変化を検討した。そこで第四章では,
第 一 章 お よ び第 二 章 で 観 察 さ れ たTMの ア レル ゲン 性変 化が 加工 食品 中のTMにお いて も 同様に起きているか検討した。すなわち,市販の干しホタテガイ貝柱およぴ干しスルメイ カか らTMを単 離し ,そ のア レル ゲン 性を 測定 した。 その 結果 ,ホタテガイとスルメイカ の いず れの 乾製 品に おいて も, 製造 過程 中にTMは メイ ラー ド反 応し ていたが,そのアレ ルゲ ン性 は全く変化しておらず,モデル系の結果と異なっていた。その原因として,メイ
ラ ード 反応 の進 行温 度や 反応 性還 元糖 の量 の違 い,筋 線維 中に 存在 しているTMと精製し たTMでは メイ ラー ド反 応に伴 う構造変化の起こり方の違い等が考えられた。
ホ タテ ガイ 乾製品は生のまま摂取するだけではなく,調味素材としてさまざまな料理に 供 され る。 その ため第五章では,ホタテガイ乾製品エキスのアレルゲン性にっいて調査し た 。そ の結 果, エキス中にはうま味や甘味に関与する遊離アミノ酸にとどまらず,アレル ゲンタンパク質である′I`Mが多く溶出していた。またTMは,一般IYJなアレルゲンタンパ ク 質の 特性 である高い熱安定性を有しており,エキス製造工程を経てもそのアレルゲン性
― 1263―
は全く低下していなかった。
第 六章 で は,TM中の ヒ トIgE結 合 エピ ト ー プ部 位 に関す る情報を 得るため ホタテガ イ とス ル メイ カTMの エ ピト ー プ 部位 解 析 をお こ なっ た 。 酵素 分 解し た 両TMを 用 いて 解 析 したと ころ,両TMには少な くとも2ケ 所のエピ トープ領 域が存在す ることが示唆された。
ま ず1ケ 所は , 両 ′FMにお い て 共通 領 域(N末 端か ら77―105残 基目 ) であ っ た 。こ の 領 域は ブラウン・シュリンプにおいてエピトープ部位と同定されて韜.り,節足動物(甲殻類 や 昆 虫類 )TMと も 高 いア ミ ノ酸 配 列相 同性を示 したこと から,無脊 椎動物に 共通のエ ピ ト ー プ 領域 で ある 可 能 性が 高 い。20所目 は 両TMで 異な る 位 置で あ り ,ホ タテガ イでは 169−189残基 , ス ルメ イ カで は269―284残 基(C末 端領 域 ) であ っ た。 前 者 は軟 体 動物 TM問で のみ高い相 同性を示 したこ, とから, 軟体動物 固有のエ ピトープ領域であると思わ れる。一方 ,後者は ブラウン ・シュリ ンプTMのエピトープ部位と一致していたことから,
軟体動物に 加えて節 足動物′rMとも抗原 交差性を 示す可能 性が高い領域であると推定され る。
以 上 , 本研 究 の 成果 を 総括 す る と,ホ タテガイお よびスル メイカTMを 用い,水 産加工 食品 製 造 過程 に お けるTMの ア レ ルゲ ン性変 化を初めて 明らかに した。ま た,メイ ラード 反応 が 進 行し たTMの 消 化性 や ,無脊椎 動物′rM間 の抗原交 差性に関す る知見も 得ること
ができた 。今後,魚貝類アレルギー患者が安心して魚貝類を摂食できるよう,低アレルゲン 化水 産加工食 品の開発に本研究の成果が応用されることを期待したい。
学 位 論 文 審 査 の 要 旨 主 査 教授 佐伯宏 樹 副査 教授 今野久仁彦 副 査 教授 川合祐 史 副 査 教授 尾島孝 男 副 査 教授 塩見一 雄 副査 助教授 岸村栄毅
学 位 論 文 題 名
水産無脊椎動物トロポミオシンの食品製造過程における 挙動とアレルゲン性変化に関する研究
水 産 物 を 原 料 と し た 乾 燥 食 品 で は , 製 造 過 程 で メ イ ラ ー ド 反 応 が 進 行 し て い る が , こ の 反 応 が 食 品 の ア レ ル ゲ ン 性 に お よ ぼ す 影 響 は 不 明 で あ る 。 そ こ で 本 研 究 で は , ホ タ テ ガ イ と ス ル メ イ カ の 主 要 ア レ ル ゲ ン で あ る ト ロ ポ ミ オ シ ン(TM)に 注 目 し , メ イ ラ ー ド 反 応 が TMの ヒ トIgE結 合 能 ( 以 下 , ア レ ル ゲ ン 性 ) に お よ ぼ す 影 響 に っ い て 検 討 し た 。 ま たTM の ヒ トIgE結 合 エ ピ ト ー プ の 同 定 を お こ な い , メ イ ラ ー ド 反 応 に 起 因 す る ア レ ル ゲ ン 性 変 化 と の 関 連 を 考 察 し た 。 得 ら れ た 成 果 は 以 下 の 通 り で あ る 。
1. ホ タ テ ガ イ と ス ル メ イ カ の 精 製TMを 用 い て , グ ル コ ー ス お よ び り ボ ー ス と の メ イ ラ ー ド 反 応 がTMの ア レ ル ゲ ン 性 に お よ ば す 影 響 を 検 討 し た 。 そ の 結 果 ホ タ テ ガ イTMの ア レ ル ゲ ン 性 は , メ イ ラ ー ド 反 応 の 進 行 に 伴 っ て 著 し く 増 大 し た 。 一 方 , ス ル メ イ カTM の ア レ ル ゲ ン 性 は , メ イ ラ ー ド 反 応 の 影 響 を 受 け て 大 き く 低 下 し , 両TMに お い て 全 く 異 な る 挙 動 を 示 し た 。 そ し て , 反 応 性 £ 一 ア ミ ノ 基 を 対 象 と し た化 学修 飾 実験 の結 果か ら , 上 記 の ア レ ル ゲ ン 性 変 化 がTM中 リ ジ ン 残 基 ー の グ リ コ シ ル 基 の 結 合 で は な く , メ イ ラ ー ド 反 応 の 進 行 に 伴 うTMの 高 次 構 造 変 化 に 起 因 す る 現 象 で あ る と 推 察 し た 。 2. メ イ ラ ー ド 反 応 が 進 行 し たTMを 摂 食 す る こ と を 想 定 し , ペ プ シ ン お よ び ト リ プ シ ン を 用 い た プ ロ テ ア ー ゼ 処 理 が 両TMの ア レ ル ゲ ン 性 に お よ ぼ す 影 響 を 検 討 し た 。 メ イ ラ ー ド 反 応 が 進 行 し たTMは プ ロ テ ア ー ゼ 処 理 に よ っ て 低 分 子 化 し た が , メ イ ラ ー ド 反 応 の 進 行 に 伴 っ て 起 き た ア レ ル ゲ ン 性 変 化 は 消 化 後 も 維 持 さ れ て い た。 これ ら の結 果よ り,
両TMの 消 化 物 中 に ,IgE結 合 能 が 変 化 し た 領 域 を 含 む 消 化 断 片 の 存 在 が 示 唆 さ れ た 。
― 1265―
3.加工過程でメイラード反応が進行していると判断したホタテガイとスルメイカ乾製品 からTMを調製し,そのアレルゲン性を測定した。その結果,ホタテガイとスルメイカ のいずれの乾製品においても製造過程中にメイラード反応が進行していたが,TMのア レルゲン性は全く変化していなかった。さらにホタテガイ乾製品エキスのアレルゲン 性について調査したところ,エキス中に溶出したTMのアレルゲン性は加熱処理に対し てきわめて安定であることが確認できた。これらの結果は先に示した精製TMでの知見 とは相違していたが,その理由として,筋肉中で他のタンパク質と相互作用している TMと精製TMでは,メイラード反応に伴う構造変化の起こり方が異なる可能性がある と推定した。
4.ヒトIgE結合エピトープ部位に関する情報を得るため,ホタテガイとスルメイカTM のエピトープ解析をおこなったところ,両TMには少なくともニケ所のエピトープ領域 が存在することを明らかにした。まず両TMにおいて共通のエピトープ領域(N末端か ら77−105残基目)を見いだした。この部分のアミノ酸配列は既知の節足動物TMとも 高い相同性を示したことから,無脊椎動物に共通のエピトープ領域であると推定した。
一方,両TMで部位の異なるエピトープ領域は,ホタテガイでは169―189残基,スルメ イカでは269ー284残基(C末端領域)であった。先にホタテガイとスルメイカでは,
TMのアレルゲン性がメイラード反応によって受ける影響が全く異なっていたが,両者 のエピトープ領域の違いがこの差異に関わっている可能性がある。そして一連の解析 結果から,メイラード反応によってIgE結合能が変化する未知のエピトープが,ホモ ロジー共通領域とは別の部位に存在していると推定した。
本研究は,メイラード反応が水産無脊椎動物TMのアレルゲン性におよぼす影響を定量的 に明らかにした。また,ホタテガイとスルメイカTM中に複数のヒトIgE結合エピトープを 見いだした。本論文の公開発表会においては,審査員より5件、一般聴講者より2件の研 究内容に関する質問がなされたが、申請者はいずれも適切な回答をおこない、研究に対す る理解を深めさせた。以上、論文内容の吟味と発表会における討論を通して、審査員一同 は主論文の学術的価値を認め、本研究の申請者が博士(水産科学)の学位を授与される資 格のあるものと判定した。