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第三章 「歴史を超える対話」とは何か――アンリ・コルバンの比較哲学のモデルに基づ

第二節 M 領域に至る方法論としての kashf al-mahjūb

既に述べたように、「一」、「無分別存在」、「純粋な存在」、ハックに、すべての存在者が 淵源することは、A領域からB領域への自己顕現として、井筒によりモデル化された。し かし、上述のごとく、本来は、A領域におけるハック――それの「内面」、ないしプラスの 次元――を全く観念化(ヴィジョン)することはできない。それゆえ、ハックのヴィジョ ンは、M 領域――つまりハックが外面化した次元、マイナスの次元――において行われる。

A領域からB領域への動きは、イスラーム神秘主義の用語でいわゆる「降下の円弧」と呼 ばれている。「降下の円弧」に対して「上昇の円弧」があり、それはB領域からA領域へ の動きであり、宗教的には人間が神へ至ることを意味する。この二つの円弧の動きがいわ ゆる「存在の円」(あるいは井筒の用語で「双面的思惟形態」)の全体をなす。

「存在の円」には、理論上、二つの極がある。上の極はA領域の頂点(A領域の動きの 始点;ハックの極点)であり、下の極はB領域の終点(B領域の動きの終点;人間の極点)

である。ハックの極点から形而上学の段階を見れば、MとB領域はハックの自己顕現ある いはハックの外面化に過ぎない。人間の極から形而上学の段階を見れば、MとA領域はハ ックの内面である。換言すれば「降下の円弧」における動きとは、非顕現という内面から 顕現という外面への運動であり、さらに「上昇の円弧」における動きとは、顕現されたも のという外面から顕現されざるものという内面への還元である。

この二つの動きは、神秘主義の観点から、神と人間との同一説を形成する。すなわち、

42イスラーム神秘哲学における時間の分割については、[Izutsu, 1367/1988:4-7]を参照。

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題:「叡智者と天使」Philosopher with a Book and Angel.

画家:不明 時代:15世紀

場所:Harvard Art Museums, Object Number: 1936.22

天使は叡智者を M 領域、「第八世界」、

「あいだの東洋へ導く。

「降下の円弧」の動きとは、神は「自分が知られたい」がために宇宙と人間を作り出した 働きのことである。だからこそ、神は知られるために人間の存在を必要とする。なぜなら ば、もし人間がいなければ、神は自分を知ることができないからである。しかし、「上昇の 円弧」において、逆に人間は神の存在を必要とする。すなわち、形而上学の存在の段階で 人間は可能的なもの(mumkin)という存在であるので、人間の存在は神の存在と関連す る。換言すれば、もし神の存在がなければ、人間は存在しない。だからこそ、「上昇の円弧」

である神に至る旅程において、人間は自分自身の存在の本源性に向かう。ゆえに、認識論 的観点から、神は自分自身を知るために人間を必要とし、存在論点から人間は自分の存在 のために神を必要とするといえよう。

今まで筆者は「降下の円弧」のメカニズムについて論じたが、これから「上昇の円弧」

のメカニズムについて論じ、井筒とコルバ ンの比較哲学の意味を解説しようと思う。

スフラワルディーは『黎明の叡智』の最 後で、「第八世界」(eqlīm-Hashtom)とい う世界を導入する。「第八世界」はまさに「形 象的相似世界」、あるいは M 領域である。

「第八世界」の意味は、興味深く重要であ る。B領域あるいは物質領域は、七つの段 階に分割される。この分割はプトレマイオ ス(Claudius Ptolemaeus;83‐168)の 天文学に根差している。彼の宇宙論的天文 学の下、第七段階までが物質の領域であり、

第七段階以降われわれは物質の領域を出る。

イスラーム神秘哲学者たちはプトレマイオ スの天文学を受容し、その宇宙観のもとに 自分たちの形而上学の構造を構築した。ス フラワルディーも自分の黎明の叡智の形而 上学的構造と光の形而上学を、プトレマイ オスの宇宙論的天文学の構造を援用して構 築した。従って、スフラワルディーが「第 八世界」という用語を使う時、第七段階の 外にある非物質的領域、つまり井筒のM領 域が指摘されている。

スフラワルディーによれば、神秘哲学者 の心や霊魂は、神秘道の修行が進むに従い、

物質・肉体から徐々に離れ、「精神的東洋」

(M領域)に向かう。この時には、十五の

光(ヴィジョンとして意識に顕現する道案内役である天使の「光」)が一段一段と心や霊魂 を照明し、神秘主義者の心や霊魂を「第八世界」(あいだの東洋)に導く(B 領域から A 領域への旅)。M領域は〈東洋〉であり、神秘主義者は M領域、あるいは、〈東洋〉に旅

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するので、B領域からA領域はスフラワルディー哲学の用語で「イスティシュラーク」と 呼ばれる。神秘主義者たち、あるいは、世界にあるすべての内面的な学派は、「第八世界」

で絶対者自身と一体になるとスフラワルディーは主張する。これは、「精神的東洋」(M領 域)に向かう人々が、イスラームに限らず世界中に存在し、他の宗教における神秘道的修 行を実践する流派も含め、宗派や宗教の区別なく、神秘道を通して、経験の本源性を対象 化されていない顕現として、意識と体験が分化されていない状態として、非質料的に認識 することを意味している。スフラワルディーの言い方では、すべての学派、すべての存在 者、すべての現象は「第八世界」において、光的な真実在として解釈され還元されるとい うことになる。

「第八世界」において絶対者そのものと一体化するという事態は、すべての現象が本源 性に引き戻されることの謂いである。M領域へのこの還元は、現象態を非現象態、あるい は顕現の最も原初的な本源性において了解する解釈である。この還元という解釈が、井筒 とコルバンの比較哲学の基本であり、彼らはその考えを神秘体験あるいは精神体験に基づ く思惟に完全に基づけている。すでに述べたように、M領域はB領域より内面(非顕現)

であり、B領域は外面(顕現)である。従って、M領域は隠れたところであり、B領域に いる人間(世界を、分節され分析され対象化された現象態として認識する思考)はM領域 の光的真実在(世界の顕現の本源性、すなわち実体化されず、存在を与え続ける働きその もの)を「理解」して開示しなければならい。M領域という隠されたものを開示すること は、イスラーム神秘哲学の用語で「隠されたるものの開示(kashf al-mahjūb)」と呼ばれ ており、B 領域から M領域へのすべての現象の解釈(tawʾīl)、すなわち「あるものを自 らの本来のすがたに戻す(ペルシア語でchizi-ra be-asl-e Khwod rasanidan)」と呼ばれ る行為は、このような意義を持っているのであり、恣意的に聖典の意義を「解釈」する行 為とは全く異なる。

第一項 イスラーム伝統における tawʾīl(解釈)の意味

イスラームの伝統におけるタアウィール(tawʾīl)という用語はそもそも『コーラン』

の術語であり、この術語は『コーラン』で一七回用いられている。このタアウィールをイ スラーム神秘主義では、ある単語の文字通りの意味を超え、その単語の隠された意味を「理 解」することであると考える。しかし、イスラーム神秘主義とそれと親和性の高いシーア 派哲学のテクストでは、タアウィールという用語は、タンズィール(tanzīl)に対立する 関係において理解されることに注意しなければならない。この関連語タンズィールは、文 字通りの意味では、「あるものを下に送る」、「啓示」などを意味する。この神学的現象を、

井筒のモデルに従っていえば、神は「A領域」(非顕現である絶対者の次元)から「啓示」

(絶対者の顕現)を、M領域にある天使ガブリエル(非質料的で非実体化的な顕現)を媒 介して、B領域(対象化された現象界)に送る。B領域に至った啓示は『コーラン』の文 章として言語的に外在化される。従って、タンズィールは、上記の別のモデルでいうなら

「降下の円弧」に属する運動であり、預言者は「降下の円弧」の最終地点で啓示を受ける 人のことである。一般の理解であるなら、イスラームでは、ムハンマドが「降下の円弧」

の最終の点であることになる。

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しかし、神秘主義者とシーア派の信徒にとって、『コーラン』の文章は、外在化された(つ まり、辞書的に規定されるような)文字通りの意味において理解されるべきではない。『コ ーラン』は、非顕現である A 領域から顕現(啓示)されたものであるので、『コーラン』

の意味には、A領域に属する非顕現的で潜在的な意味の領域が存在する。それゆえ、真に

『コーラン』の意味を理解するには、A領域において、すなわち潜在的意味の次元も含め て解釈(tawʾīl)しなければならない。その結果、解釈(tawʾīl)は「上昇の円弧」に属す る運動(還元)になる。このように理解されたタアウィールに関するイスラーム神秘主義 者とシーア派の信徒の意見の基礎は、『コーラン』の次の節において明白に示されている。

かれ〔アッラー〕こそは、この啓典をあなたに下される方で、その中の(ある)節 は解説で、それらは啓典の根幹であり、他(の節)はあいまいである。

そこで心の邪な者は、あいまいな部分にとらわれ、(その隠された意味の)内紛を 狙い、それに勝手な解釈を加えようとする。

だがアッラーの外には、その(真の意味)を知るものはない。それで知識の基礎が 堅固な者は言う。「わたしたちはこれ(クルアーン)を信じる。

これは凡て主から(賜ったもの)である。」だが思慮ある者の外は、反省しない。

[(三・七)]

ここに引用した『コーラン』の章句に、イスラーム神秘主義の伝統やシーア派哲学の考 え方の基礎を理解するうえで、一つの重要な点ある。当然ながら、神の啓示の(隠された 真の)意味を精確に理解しているのは神自身ではあるが、知識の基礎が堅固な者、あるい は、思慮ある者は、『コーラン』の内面的な意味、すなわち、隠された意味を解釈すること ができる、という点である。裏返せば、一般の人々は、『コーラン』の内面的な意味を解釈 することができないということを、この箇所は意味していることになる。シーア派の信仰 においては、イマームのみが、知識の基礎が堅固な者、すなわち、思慮ある者であり、イ マームのみが『コーラン』の内面的な意味を解釈することができる、ということになる。

そういう意味で、イマームは神の顕現であり、『コーラン』の内面的な意味を顕示すること で護持する。それゆえ、イマームは「クルアーンの維持者」とも呼ばれている。

上で、筆者はスフラワルディーの形而上学的構造を説明し、イスラーム神秘主義とシー ア派哲学における「解釈」を関連づけてきた。これから筆者はスフラワルディーの形而上 学的構造をシーア派の信仰と対応させて比較していきたい。なぜならば、われわれはスフ ラワルディーとシーア派における形而上学的構造を比較することによって、tawʾīlの意味 をよりはっきりと理解することができるからである。

非顕現としてのA領域にある神は、シーア派の信仰の下、とくにスフラワルディーに影 響を受けたシーア派哲学では「光の光」とされる。そして、「光の光」の自己顕現によって、

最初の顕現がなされる。この原初的顕現(時間性における原初ではなく顕現の段階の始ま りという意味)は、イスラームの神学や神秘主義の表現では「ムハンマド的光」とされる。

これは、歴史的人物として現象した預言者ムハンマドではなく、その本質、本来性として の非現象態における人そのものの本質という意味である。これが最初の創造物として創造 されると考えることが、イスラームの神学や神秘主義の潮流では一般的である。そして、