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シャイガン、井筒、コルバン――イラン文化の対話研究所

第二章 伝統の復興と反対のオリエンタリズム

第二節 シャイガン、井筒、コルバン――イラン文化の対話研究所

本論文の第一部で、比較哲学と政治的体系、政府の支持との関係について論じられ、そ れらの関係の具体的な事例として、ハータミー大統領の「文明の対話国際センター」とそ の活動が挙げられていた。しかし、「文明の対話」というテーゼはハータミーの理論ではな く、彼は国際連合で「文明の対話」のテーゼを復興したに過ぎない。

「文明の対話」のテーゼの誕生は、一九七二年に遡る。フランス人哲学者、ロジェ・ガ ロディ(Roger Garaudy;1913-2012)は、一九七二年に「文明の対話」のテーゼをユネ スコに提案した[Garaudy, 1979:93-95, 参照]。ガロディはそもそもマルクス主義者で あり、「文明の対話」を哲学の水準でではなく、市民の水準で展開せねばならないと主張し た。なぜならば、市民の水準においてこそ、西洋の文明とその支配が明らかにされるから である。ガロディは一九八二年にキリスト教と西洋の文明を厳しく批判し、イスラームに 帰依した。さらに一九九〇年にホロコーストを否認し、その結果、一九九八年の控訴審で 有罪(執行猶予付きの六か月禁固)・罰金刑判決を受けている。

マルクス主義からイスラームへと向かうガロディの歩みは、ジャンベとイラン人社会学 者で、ユネスコ局長であったエーサン・ナラーギー(Ehsan Naraghi;1926-2012)の歩 みと似ている。ジャンベもナラーギーも、ガロディのようにマルクス主義者であった。こ の三名は、共産党とマルクス主義のイデオロギーにまとわりつく様々な困難に遭遇するこ とで、マルクス主義から離れていき、イスラーム神秘主義、東洋思想、文明の対話などの 思想に近づいていった。これ以外にも様々な理由を挙げることができるが、しかし、次の 点には注意が必要である。一部のマルクス主義者やコルバン、さらにはフーコー、ニーチ ェ、ジュリア・クリステヴァ(Julia Kristeva;1941-)らの哲学者たちは、西洋の文明や 西洋のイデオロギーという困難に遭遇したとき、イスラームあるいは東洋思想をオルタナ ティヴとして選択したということである61

とりわけ「文明の対話」のテーゼは、一九七六年以降、イランの王妃であったファラー・

パフラヴィーの支持によって続けた。シャイガンはナラーギーらイラン人学者たちととも に「イラン文化の対話研究所」を設立することになった。この研究所は具体的に二つのテ ーマを扱っている。それらは、①アジアの諸文明との関係と、②西洋文明の本質の理解と それに対するアジアの諸文明の状態の解明である[Shayegan, 1979:356, 参照]。

一九七六年から七九年(つまりイラン革命の発生)まで、この研究所では約七〇冊がペ ルシア語に翻訳され、それらは主に東洋思想に関するものであった。さらにこの研究所は

61 このことについて、現在カタールにおけるジョージタウン大学外事研究科(Georgetown University School of Foreign Service in Qatar)の教授であるイアン・アーモンド(Ian Almond)の研究は非常に有意義である。彼は『新しいオリエンタリストたち(The New Orientalists: Postmodern Representations of Islam from Foucault to Baudrillard)』の 中で、オルタナティヴとしての東洋思想について詳しく論じている。彼の研究に加え、ジ ルーベル・アシュカルもまた、Marxism,Orientalism,Cosmopolitanism において西洋の 哲学者たちやマルクス主義者のアプローチを批判している。

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ユネスコから支持を受け、七七年に「文明の対話」に関する最初のシンポジウムをテヘラ ンで開催した。そのシンポジウムの題は「西洋思想の衝撃は諸文明間の実質的な対話を可 能にしたのだろうか(L’impact de la pensée occidentale rend-il possible un dialogue réel

entre les civilisations?)」というものであり、一週間にわたって開催された。このシンポ

ジウムの発表者は一八名おり、井筒、インド人哲学者でハイデガーの弟子であったメフタ

(Jarava Lal Mehta;1912-1988)、エジプト人哲学者、アンワル・アブドゥル=マレク

(Anouar Abdel-Malek;1924-)らに加えて、フランス人とイラン人が名を連ねていた。

フランス人の発表者たちは、ガロディ、ジャンベ、コルバンの他の弟子たちであった。イ ラン人の発表たちは、シャイガンやナラーギー、コルバンのイラン人弟子たちや協力者で あった。このシンポジウムのテーマの基軸は、コルバンの思想とスフラワルディー哲学の 解釈のもとに形成されていた。

このシンポジウムでの発表内容に共通することとして、以下の三点が挙げられる。

① 西洋の文明(モダニティー)、西洋史の支配、技術の支配、実証主義の批判。

② オリエンタリズムの批判。

③ アジアの諸文明との対話。

この三点は、比較的研究と反対のオリエンタリズムへと向けられたものである。実際の ところ、このシンポジウムは、ユネスコの「シルクロード」という計画の継続でもあった。

アマドゥ・マハタール・ムボウ(Amadou-Mahtar M’Bow;1921-)がユネスコの第六代 事務局長だった時期に認可されたこの計画のもと、アジアの諸文明の状態と西洋との関係 が、探究の中心主題であった。ゆえに、テヘランで催されたシンポジウムでは、西洋文明 とオリエンタリズムの批判とアジアの諸文明との対話が、全ての発表者の原稿の基軸にあ ったのだ。

テヘランのシンポジウムが終わってから、シャイガンは野心的な計画を開始した。彼 は「イラン文化の対話研究所」をユネスコのような国際的な研究所にしようとした。その ために彼は、井筒を東アジアの代表者として、コルバンをヨーロッパの代表者として、イ ブン・アラビーの専門家であったオスマン・ヤフヤー(ʿUthmān Yaḥyā)をアフリカ(エ ジプト)の代表者として選び、自らもイラン・イスラームの代表者になった。しかし、コ ルバンの死とイラン革命の発生によって、彼の野心的な計画は実行されなかった。シャイ ガンは、この計画と井筒の役割について筆者に次のように証言している。

私はその計画について井筒と連絡し、十分に話した。井筒はその計画をすぐ引き受けて くれた。しかし、賃金について私は何回も井筒の妻と話した。しかし、残念ながら革命の 発生によって、全ては消滅してしまった。

イラン革命の一年前にシャイガンは、コルバン、井筒、中村元(とくに中村の『東洋 人の思惟方法』)の思想の影響のもとで『西洋に対するアジア』を出版した。この著作は「文 明の対話」に関するシャイガンの目的を表現するものであり、その内容は二部からなって いる。第一部でシャイガンは、コルバンの思想に即して、西洋史の支配とニヒリズムを批 判し、第二部では、井筒と中村の思想の影響のもとに東洋の諸伝統を読み直し、それらを

143 比較している。

一部のイラン人の知識人は、この著作は革命前のイランにおける西洋と東洋の状態をよ く分析していると指摘する[Boroujerdi,1996:147]。シャイガンは自分の師であるコル バンにならって、ニヒリズムと世俗主義が人間の思想を支配するとき、その「解毒剤」は 神秘主義と東洋の精神性にしかないと主張する。彼にとってニヒリズムと世俗主義は、西 洋思想における四つの下降運動の産物、つまり、①精神的な思想から技術的な思想への下 降、②元型イマージュ(想像的イマージュ)から技術的な概念への下降、③天使界から質 料界への下降、④神話から歴史への下降、を表現するものである[Shayegan, 1382/2003:

47-48]。それらの下降運動の結果、①文化の衰退、②神の黄昏、③神話の死、④精神性の

衰退、これらに至ったのである[Shayegan, 1382/2003:168]。彼はこのような結果を、

いわゆる「西洋かぶれ」(Gharbzadegi)と呼んでいる。

「西洋かぶれ」という用語は、ハイデガー哲学における「存在の忘却」という問題を記 述するために、ファルディードが造ったものであった。彼はコルバンの最初のペルシア語 訳者であり、「学問的知識人」を代表する一人でもあり、イラン王立哲学アカデミーでコル バン、井筒、ナスルの協力者でもあった、ハイデガーは、『存在と時間』の序論から存在へ の問いの必然性を訴え、「存在問題は今日では忘却されてしまっている」と嘆いていた[ハ イデガー、昭和46年、66頁]。ハイデガーにとっては、ギリシアの形而上学の思想によっ て存在問題が忘却されてしまい、人間は存在に対する問いの代わりに存在者に対する問い をたてるようになった。結局、存在者への注目は、人間の喪失とニヒリズムをもたらした。

換言すれば、ハイデガー哲学から見れば哲学史は、ギリシアから今日までを通じて「存在 の忘却」の歴史なのである。ファルディードはコルバンの解釈の影響のもとに、「存在の忘 却」の歴史(西洋思想史)を「西洋かぶれ」と呼んだ62。すなわち、人間が存在を忘却し てしまい、存在者について考えたことが、「西洋かぶれ」を意味するのだ。しかし、存在の 忘却がなぜ「西洋かぶれ」と解釈されたのだろうか。この問いに対する答えを、われわれ はスフラワルディー哲学における形而上学の構造のうちに検討しなければならない。

本論文の第二部で論じたように、AとM領域は〈東洋〉、真実在(真理)と「光」の 領域であり、B領域は〈西洋〉、物質と「闇」の領域であった。だからこそ、ファルディー ドはスフラワルディー哲学の概念を、ハイデガー哲学の「存在の忘却」の問題に結び付け、

「西洋かぶれとは真実在に侵入するニヒリズムと存在の忘却以外になにものでもない」と 述べたのだ[Maref, 1380/2001:413]。

しかし、シャイガンは『アジアに対する西洋』の第二部で、「西洋かぶれ」に別の意味を 与えた。その意味が、「アジア文明の分裂」に他ならない。アジア文明の構造は同一であり、

東洋思想はそもそも精神的体験と宗教の信仰に基づいて形成されている。しかし、ニヒリ ズム、世俗主義(モダニティー)の出現によって、アジアの諸文明は徐々に自らを共通の

62 「スフラワディー哲学と古代イランとの関係」という論文が、ペルシア語に翻訳された コルバンの最初の著作であった。一九四六年にペルシア語に翻訳されたこの著作では、ス フラワディー哲学におけるゾロアスター教の要素が紹介されながら、〈東洋〉と〈西洋〉の 形而上学的概念が解説されている。注意すべきは、この著作の翻訳者がファルディードで あることだろう。この著作の翻訳作業とその内容が、「西洋かぶれ」のアイディアをファル ディードに与えたのかもしれない。[Abdolkaraimi, 1392/2013:67-71][Corrado, 1999:

29-30]参照。