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第三章 イラン革命と井筒の比較哲学の認識論的な問題と結果

第一節 井筒とコルバンの比較哲学における他者化

本論文の第一部で、筆者は比較哲学の誕生と文明の遭遇との関係について詳しく論じ、

われわれの時代には、西洋文明と東洋文明の遭遇によって、共通の「理解」が必要である と結論した。井筒は『意識と本質』の後記で、こうした必要性を次のように述べている。

東と西との哲学的関わりというこの問題については、私自身、かつては比較哲学の 可能性を探ろうとしたこともあった。だが実は、ことさらに東と西とを比較しなく とも、現代に生きる日本人が、東洋哲学的主題を取り上げて、それを現代的意識の 地平において考究しさえすれば、もうそれだけで既に東西思想の出逢いが実在的体 験の場で生起し、東西的視点の交錯、つまりは一種の東西比較哲学がひとりでに成 立してしまうのだ[井筒、2010:414頁以下]。

井筒が西洋と東洋の比較の必要性について言う場合、そこには次のような二つの次元が みられる。第一の次元は、西洋文明と歴史による東洋の支配である。井筒はこれにかんし て、次のように述べている。

明治以来、一途に欧化の道を驀進してきた我々日本人の場合、その意識――少な くとも意識表層――は、もはや後にはひけないほど西洋化しているのだ。ほとんどそ れと自覚することなしに、我々は西洋的思考で物事を考える習慣を身につけてしま っている。つまり、ごく普通の状態において、現代の日本人のものの考え方は、著 しい欧文脈化しているし、まして哲学ともなれば、既に引き受けた西洋的学問の薫 陶が、それをべつに意図しなくとも、我々の知性の働きを根本的に色付ける[井筒、

同上]。

第二の次元は、東洋の諸伝統の復興と読み直しである。

東洋の様々な思想伝統を、ただ学問的に、文献学的に研究するだけのことではな い。厳格な学問的研究も、それはそれで、勿論、大切だが、さらにもう一歩進んで、

東洋思想の諸伝統を我々自身の意識に内面化し、そこにおのずから成立する東洋哲 学の磁場のなかから、新しい哲学を世界的コンテクストにおいて生み出していく努 力をし始めなければならない時期に、今、我々は来ているのではないか、と私は思 う[井筒、2010:412頁]。

確かに、西洋化と東洋の諸伝統の読み直しに関する井筒の意見は、ナスル、シャイガン、

コルバンの意見と等しいものではある。実際のところ、東洋人は自らの伝統の復興のため に、新しい哲学を作り出さなければならい。そうした新たな哲学によって、東洋人は「西 洋」と対話をする。とはいえ、ここで「西洋」という言葉が西洋のすべての次元を包摂す

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るわけではないことは、注意されねばならない。井筒やコルバンのいう「西洋」には、「世 俗的な西洋」と「存在的な西洋」がある。「世俗的な西洋」はデカルト哲学以来、生じてき たものである。この場合、西洋の本質は、モダニティーや世俗主義、またはニヒリズムや

「西洋かぶれ」である。さらに、東洋人が超えなければならない西洋も、「世俗的な西洋」

である。

「存在的な西洋」は、モダニティーや世俗主義、ニヒリズムや「西洋かぶれ」を批判す ることを意味する。この場合、西洋の本質と捉えられているものには、ハイデガー哲学や 実存主義の思想がある。従って、シャイガンは『西洋に対するアジア』において、また同 様に井筒は「東洋と西洋における実存主義(Existentialism East and West)」[Izutsu,

1971:26-33, 参照]において、イスラーム神秘主義の思想をハイデガーやサルトルと比

較することを試みたのだ。東洋人が対話しなければならない西洋は、この「存在的な西洋」

である。「存在的な西洋」との対話は、ある一つの基礎において行われ、そこからは二つの 成果が導かれる。

基礎について、

「存在的な西洋」との対話は、その基礎をコルバンの意見に置いているように思われる。

ニヒリズムを克服し得るために、また、精神性をもう一度世界に与え得るために、東洋の

〈東洋人〉と西洋の〈東洋人〉は精神性の段階で対話しなければならないとコルバンは主 張した。「万国の東洋よ、団結せよ!」というスローガンも、彼のこうした意見を象徴する ものである。井筒はコルバンのこの意見を、イランの神秘主義とハイデガーや実存主義と の対話の段階へと移し、次の二つの実績を導き出そうとして。

① その成果について、井筒、コルバン、シャイガンらと、ハイデガーや実存主義の哲学 者たちには、ある共通の目的がある。それは、ニヒリズムの克服である。従って、比 較哲学によってニヒリズムを克服するために、イランの神秘思想と西洋の存在的な思 想に「対話」を準備することができる。

② イランの神秘思想は形而上学的な思想であり、二〇世紀まで政治的・社会的な問題と 直面したことはなかった。これに対して、「存在的な西洋」は形而上学的な思想から離 れ、政治的・社会的な問題と直面している。ゆえに比較哲学によって、東洋人と西洋 人の経験をお互いへと移すことができる。井筒は『意識と本質』で、この体験をイラ ン神秘思想の段階から東洋の諸伝統へと移している。

上述した二つ実績から、井筒らの比較哲学は次の二つの責任を担うことになる。

Ⅰ. 東洋の諸伝統を読み直し、その読み直しによって新しい哲学を作り出すこと。

Ⅱ.「存在的な西洋」との対話によって、ニヒリズムを克服すること。

井筒らの比較哲学は、「存在的な西洋」との対話を模索するものの、実際には「世俗的な 西洋」、あるいは「非精神的な西洋」を、他者として批判して否定してしまう。「世俗的な 西洋」、あるいは「非精神的な西洋」は、全世界に入り込んで様々な現代的危機をもたらし たものである。東洋はこの場合、「精神的な他者」として、「非精神的な他者」(=西洋)に

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対置される。さらに、第三章の第二節で論じるように、世俗主義、世俗化は、井筒とコル バンの比較哲学と完全に対立しており、彼らの方でも自分たちの比較哲学を、世俗主義に 対するものとして定義している。

第二項 井筒の比較哲学ならびに、 「アラビア哲学」と「イスラーム哲学」

本論文の一つの中心的なテーマは、イブン・ルシュド以後の哲学の流れを描くことであ った。井筒とコルバンは、スフラワルディーから「本当にイスラーム的な哲学が出てくる」

と主張する。しかし、スフラワルディーには、両者が評価するほどの意義はないのではな いかと思われる。すでに論じたように、井筒とコルバンの比較哲学において、スフラワル ディー哲学は反対のオリエンタリズムの観点から読み直され、オリエンタリズムを批判す るものであった。ここで筆者は、井筒とコルバンの比較哲学のもう一つの価値について論 じたい。この価値には、確かに反対のオリエンタリズム的な意味はあるものの、アラブ・

スンニー派世界とイラン・シーア派世界の間に、ある種の他者化をもたらすものでもある。

筆者が知る限り、スフラワルディーの名が井筒の著作に最初に現れるのは、一九四八年 の論文「アラビア哲学―回教哲学」[井筒、第一巻:476-478頁]である。この論文で井筒 は、スフラワルディー哲学とその注釈を端的に紹介している。その後一九六七年まで、井 筒は著作の中でスフラワルディーに言及していない。一九六七年に「コーラン翻訳後日談」

[井筒、第四巻:143 頁]という小論で、スフラワルディーの名が挙げられてはいるが、

それは井筒の知り合いのレバノン人の博士論文に言及した文脈においてに過ぎない。一九 七四年の「回教哲学所感―コルバン著『イスラーム哲学史』邦訳出版の機会に」[井筒、第 四巻:165頁]という小論でコルバンを紹介する際に、スフラワルディーの決定的重要性 が指摘される。そして一九七五年『イスラーム思想史』[井筒、第四巻:544、550、552 頁]の中で、スフラワルディーが注記において短く触れられている。

『イスラーム思想史』はそもそも、一九四一年に出版された井筒の処女作『アラビア思 想史』と、一九四八年の「アラビア哲学―回教哲学」を統合したものである。『アラビア思 想史』で井筒は、スフラワディー哲学やそれ以降の哲学学派について何も述べておらず、

「アラビア哲学―回教哲学」で初めてスフラワディーの名を挙げている。井筒はその後、『イ スラーム思想史』でスフラワルディーの名を挙げるものの、その哲学については説明する ことはせず、読者にコルバンの『イスラーム哲学史』を参照するよう求めるのみである。

注意してみれば明らかなように、井筒のこれら三つの著作は、タイトルこそ異なるが、

扱うテーマはほぼ同じである。ここで一つの疑問が生じるかもしれない。三つの著作の内 容はほぼ同じであるものの、なぜ、『アラビア思想史』は『イスラーム思想史』へと変更さ れたのか。こうした著作のタイトルの変更の背後には、井筒によるスフラワルディー哲学 の理解が進展したこと、およびコルバン思想からの影響があると筆者は考えている。

井筒のスフラワルディーに対する評価を考えるうえで、スフラワルディーに関する直接 的言及以外に注目すべきこととして、「アラビア哲学」という用語に関するコルバンと井筒 の考え方の相違が挙げられる。井筒は、「アラビア哲学―回教哲学」の序で「アラビア哲学」

という用語について解説し、アラビア語はイスラーム世界の共通語なので、「アラビア哲学」

という用語を用いたと述べている[井筒、第一巻:351-354頁]。これに対してコルバンは、