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第三章 イラン革命と井筒の比較哲学の認識論的な問題と結果

第三部 の結び

第一の点

ホメイニー師は、政治的・社会的な観点からすれば、モダニティーやオリエンタリス

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ト、そして帝国主義に対抗するための指導者であった。実際、彼は伝統の内側から、そし て伝統の流れに即して西洋文明を批判し、否定していた。この意味でも、彼は反対のオリ エンタリズムの代表者の一人であったといえよう。しかし、ホメイニー師一人が独力で、

イラン革命を準備したわけではない。イラン人のすべての知識人が、西洋の批判者であっ たアジア人や西洋人の思想家とともに、イラン革命の理論と思想的基盤を構築したのだ。

ナスルやシャイガンらイラン人の知識人たちはシャーと密接に関係していたので、伝統の 読み直しを行うことで、イラン国王による近代化を批判していた。ホメイニー師は革命を 通じて、知識人たちの理論的なテーゼを政治的・社会的に実現化した。

井筒とナスルはこうした政治的・社会的な事実を超えるために、革命以降のイランの状 況に不安を抱きつつも、「内面主義」と「外面主義」という二元論を再興させ、イラン革命 をも「外面的なもの」へと還元してしまった。しかしシャイガンは、イラン革命の歴史的 な事実が有する意義をよく理解していたので、『宗教革命とは何か(Qu'est ce qu'une révolution religieuse?)』を著すことで、『西洋に対するアジア』における自らの意見を自 覚的に反省するようになった。彼はこの著作で、イラン人の知識人たちは、伝統とその危 険に関して正しい「理解」をしてこなかったと述べている。

結局、シャイガンは、『光が西から上昇して(La lumière vient de l'Occident)を著すこ とで、伝統とモダニティーの間の壁を壊し、現在の人間は純粋に伝統的な人間ではないし、

また純粋に近代的な人間もではないことを暴いたのである。現在の人間は「流れている人 間」である。こうした人間は、一日の生活の中で、伝統のアイデンティティーと近代のア イデンティティーの狭間を流れている。実際のところシャイガンは、超歴史的な思想の立 場からは離れ、歴史的な事実を引き受けていくようになる。

第二の点

第三章で論じたように、「ワラーヤ」という概念はイマームに属し、不在イマームは

「終末の日」に、内面的な「ワラーヤ」によって、政治の勢力をシーア派の信徒に与える。

だが、シーア派における政治の勢力は、超歴史的な問題である。ホメイニー師は「ワラー ヤ」という概念を読み直すことで、「ワラーヤ」を神秘主義的な概念から法学的な概念へと 移した。「ワラーヤ」という概念はそれまで、全く法学的な概念ではなかった。それは最初 から神秘主義的な概念であり、イブン・アラビーの神秘主義に遡るものであった。ホメイ ニー師自身の素養は、法学よりもむしろ神秘主義(特にイブン・アラビーとモッラー・サ ドラーの神秘主義)の領域にあった。従って、ホメイニー師が自分のテーゼを表現した当 初、モンタゼリー師のようなイスラームの純粋法学者はそれをよく「理解」出来なかった が、ホメイニー師のテーゼは、シーア派における完全に新しいテーゼとして認められるこ とになった。

とはいえ、坂本勉の意見に抗して、ホメイニー師のテーゼをアーシュティヤーニーの思 想と比べることは不可能であろう。アーシュティヤーニーの思想はモッラー・サドラー個 人への註釈であり、イスラーム法学について何の意見も提示していないからである。モン タゼリー師(純粋法学者として)の意見とホメイニー師の意見を比較することで、ホメイ ニー師のテーゼの神秘主義的な次元が最も鮮明に現れてくる。これに加えて、イラン革命 によってシーア派の政府が組織されたとき、シーア派の政府の時期が「終末の日」から現

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在に移されたことになる。実際、ホメイニー師は「聖なる時間」を「世俗的な時間」に移 した。確かに、「終末の日」を待っている井筒の比較哲学は、ホメイニー師のテーゼを「外 面的なもの」として「理解」せざるをえないであろう。

第三点

井筒が適切にも述べているように、預言者とイマームは絶対無謬である。彼らは宗教の 観点から創造的想像力の領域にいるし、宗教の内面的な諸概念を開示する。従って、信者 はイマームとの直接的に関係することで創造的想像力の領域に旅することができる。これ に対して、ホメイニー師は自分のテーゼによって、法学者たちを「イマームの代理人」と 呼んだ。その結果、信者は宗教の実在にいたるために、最初は「イマームの代理人」に直 面し、そして「イマームの代理人」によってイマームにつながっている。勿論、井筒が言 うように、「イマームの代理人」は無謬ではない。また、「イマームの代理人」はイマーム と関係することで、自らの神的な立場を作り出すことができる。すなわち、「イマームの代 理人」はイマームと直接的に関係し、イマーマの話を正確に共同体に移す課題を担うので、

わずかばかりではあるが無謬性を持つ。もし「イマームの代理人」が、まったく無謬性を 持たないのであれば、イマームの話は改竄されるだろう。こうした議論から、以下の二つ の立場が結果する。

① 「イマームの代理人」によって、聖なるものは世俗的なものに変更される。なぜなら ば、「イマームの代理人」は経験世界の領域で政府を形成し、宗教の諸概念を創造的想 像力の領域から経験世界の領域へ移したからである。その結果、シーア派の中でウラ マー階級は宗教現生勢力の主となった。これは明らかに、シーア派の世俗化を意味す る。

② 宗教と現生勢力との混交は、全体主義の政治体系を作り出す。すなわち、宗教と現生 勢力である「イマームの代理人」は、自分のすべての意見をイマームの意見として、

社会に命令してしまう。

上記二つの結果は、コルバンがそれらを「イスラーム〔シーア派〕における危険性」と 呼んでいたものである。つまりこれが、シーア派の世俗化の内実である。

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結語

「序」で論じたように、本論文の中心的課題、あるいは中心的テーマを形成するものは、

井筒俊彦の比較哲学と政治的・社会的な事柄との関係であった。しかし、本論文の目的は 単に井筒の比較哲学に限定されるものではなかった。というのも、筆者は第一部から第三 部まで、井筒の比較哲学と政治的・社会的な事柄との関係に関して論じつつ、同時に比較 哲学の本質とその規定、アンリ・コルバンが井筒に与えた影響、井筒のアラビア語の先生 であったムーサー・ジャールッラーの反シーア派にかかわる意見、井筒とコルバンによる 世俗主義とニヒリズムの批判、反対のオリエンタリズムと井筒の比較哲学との関係、イラ ン革命と井筒の認識論的問題に関しても論じた。いまだ語られることのなかったシーア派 の歴史的流れのなかで、井筒の宗教思想の特質を明らかにしてきた。これが第一の論点で ある。

それと同時に、多変数的な要素や条件のなかで、井筒の宗教思想とそれが同時に持ち合 わせてしまう社会的・政治的意義について論じてきた。これが第二の論点である。フーコ ーによれば、知は一つの権力であり、この考えはフランシス・ベーコンが述べた「知は力 なり」の現代版とも言える。しかし知は権力であるという事態にも、多くのモードがある に違いない。そのモードの一つとして、多変数要因のなかでの「裏返された社会・政治的 派生効果」を明るみに出して来たのである。

さらに続いて、それぞれの部の概要と論点を明示したい。

第一部で論じた論点

第一部において、筆者は三つの点を課題とし、以下の三つの点を明らかにした。

第一の点

第一の点は比較哲学の規定にかかわる。まず、筆者は五つの点で比較哲学の目的と意 味を規定した。その五つの点は比較哲学に関する一般的な定式でもある。それらの定式は、

比較哲学について書かれた様々な著作で見ることができる。その五つの点に加え、筆者は 比較哲学に関して新たな規定を提示した。その規定とは、「一方のA 文明のすべての次元 が、他方のB文明の「中心」に入り込んで、B文明の政治的・社会的な状態を大きく変化 させる場合に、比較哲学そのものの誕生が不可避である」とするものである。この規定の 下に、「比較哲学の解明課題は、A とB 文明の遭遇の後に生まれて来た新しい諸状況と諸 条件の「理解」と「表現」である」とした、この規定は派生的に一つのフレームワークを 作り、筆者はそのフレームワークによって、井筒の比較哲学と政治的・社会的な事柄との 関係を分析することを試みたのである。

筆者はこの規定を明確にするために、二つの例を挙げた。一つの例は前近代に属し、具 体的にダーラー・ショクーの『両海の一致』と彼の『ウパニシャッド』のペルシア語訳に ついてであり、もう一つの例は、近代に属し、具体的にマッソン・ウルセルの『比較哲学』

についてである。マッソン・ウルセルの『比較哲学』は、筆者が比較哲学に関して提示し た規定のための事例としてだけではなく、本論文の第二部と第三部の内容と目的も密接に