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マッソン・ウルセルの比較哲学のモデルに基づく井筒の方法論

井筒が『意味の構造』で使用する方法論は、彼が比較哲学に関して書いた著作の方法論 と大きく異なる。『意味の構造』と『コーラン』に関する井筒の他の著作は、方法の観点か ら、言語学の理論と歴史的相対論に基づいて書かれたものである。しかし、井筒が書いた 著作のうち比較哲学に属するものは、言語学の理論に依然として従うものの、それらの著 作はコルバンの現象学的な解釈とイスラーム・グノーシスと密接に関係している。井筒は 比較哲学における自分の方法論をコルバンのテーゼの下に、「歴史を超える対話」あるいは

「超歴史の対話」と呼んでいる。換言すれば、井筒は『意味の構造』で、人間を地理、自 然、言語、時代、歴史などの状況や脈絡によって限定されると前提し、普遍的「判断」の 無批判な措定を行わない。『スーフィズムとタオイズム』に代表される比較哲学の著作にお いて、井筒は歴史の領域を超え、すべての人間社会とすべての人間の言語の間に共通のコ トバ、共通の「判断」、共通の「理解」を探求している。既に述べたように彼はこの共通の コトバ、共通の「判断」、共通の「理解」に至ることを「イスティシュラーク」と呼ぶ。こ の思惟はある種の本質主義を生み出す。

第二章 マッソン・ウルセルの比較哲学のモデルに基づく井筒の方法論

井筒は、一九六〇年からマギル大学イスラーム研究所で研究を開始した。一九六一年十 二月から翌年六月までその研究所で特別講義を行った。既に述べたように、彼が行った講 義は『コーラン』とイスラーム神学についての二冊の本(改訂本をふくめれば三冊)とし て出版された。六一年から二つの出来事は井筒の人生を大きく変化させ、彼の人生はイラ ン哲学、比較哲学、イブン・ルシュド以後のイスラーム哲学と結び付いた。

第一の出来事は六一年一月、もしくは二月に起きたと思われる。ホセイン・ナスルは次 のように述べている。

私は六一年一月か二月か、講義のためにマギル大学へ招待され、モッラー・サドラ ーの哲学について講演した。井筒はその講演会の参加者の一人であった。私の講演

35 イラン革命以後から宗教的な知識人というグループは、イスラームの伝統的神学から離 れ、現代の思想の下に『コーラン』の構造、啓示の本質、ムハンマドと啓示の関係などに ついて新しい見解を作り出した。例えば、現在アメリカ在住のイラン人哲学者・神学者で、

宗教的インテリを代表するアブドルカリーム・ソルーシュ(Abdolkarim Soroush;1945

~)は、『コーラン』を「ムハンマドの言葉」と呼ぶ。彼は、啓示は基本的にムハンマドの 生と言葉に基づくとする。イランの宗教的な知識人たちに加え、エジプトやシリアの一部 の知識人も、『コーラン』の構造、啓示の本質について新しい意見を発表している。しかし、

これら全ては現在のところ研究計画の表明に留まる。このことについて[Soroush, 1385/2006]を参照。

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が終わるとすぐ、井筒は私のもとに来て、次のことを言った。モッラー・サドラー の哲学は大変面白く、重要な哲学だと思う。これから私は純粋な言語学的研究をや めて、モッラー・サドラーの哲学を研究したい[筆者とナスルの対談]。

第二の出来事は一九六二年に起きた。その年、メフディー・モハッゲグはマギル大学へ 客員教授として赴任した。モハッゲグはイスラーム哲学を学生たちに教えるために、十九 世紀のイスラーム・スコラ哲学者、サブザワーリー(Hājj Mūllā Hādī Sabzavārī;1797‐

1873)の『哲学詩注釈(Shar al-manuma)』を選択した。井筒もモハッゲグのゼミに参

加していた。モハッゲグはつぎのように述べている。

かつて私はゼミでサブザワーリーの詩のひとつを読んだ。ゼミが終わってから井筒 が私の方に来て、次のように言った。「あなたたちイラン人はサブザワーリーのよう な卓越した哲学者を持ちますが、残念ながら世界でまだだれも彼らを知らない。な ぜ誰も彼の著作を翻訳してないのだろう」と。そして私はすぐサブザワーリーの『哲 学詩注釈』を井筒に手渡し、この本を読んでください、もしそれを気に入ったら、

それを二人で翻訳しましょうと言った。数日後、非筒は私のもとに来ると、その本 の翻訳の提案を引き受けた。[Mohaghegh, 1379/2000:78-79]。

井筒もモハッゲグの影響について、自分のイラン人の弟子(現代テヘラン大学の名誉教 授)、ナスロッラー・プールジャヴァーディーとの対談で、次のように述べている。

〔井筒が〕一九六一年にカナダへ行き、メフディー・モハッゲグ博士と知り合いに なった時だ。僕〔井筒〕はモハッゲグ氏と随分話をした。彼と話しているうちに唯、

言語学(フィロロジー)という小さな窓から問題を見ているだけではイスラームや イスラーム思想の理解には十分ではないのだと気が付いた。そこでしばらく考えて、

一つの結論を得た。それはイスラームを思想の現在的状況と引き比べて考えること、

イスラーム思想を高新の知の光りの中で研究することが必要だと。そうでなくて、

純然たる歴史的テーマを取り扱うというのでは、ただ過去に関わるというだけのも ので、そんなものは博物館の役にしか立たないだろう。モハッゲグ氏はこの点につ いて僕同意見だった。当時、彼はイラン・イスラームの文化的遺産の価値を甦らせ ることを考えていた。僕がこうした側面からのイスラーム研究に関心を持っている のを見てとると彼は喜んだ[プールジャヴァーディー、1993、井筒俊彦著作集、別 巻、付録:10頁]。

六二年から六八年まで、井筒はモハッゲグと共にサブザワーリーの『哲学詩注釈』を英 語へ翻訳し、井筒は「サブザワーリー形而上学の基礎構造」という論文を『哲学詩注釈』

英訳の序論として書いた。さらに井筒とモハッゲグはテヘランでマギル大学=テヘラン大 学イスラーム研究所を設立し、『イラン的知識集成(Selsele dānesh-e irani)』という雑誌 も準備した。これに加え、井筒はモハッゲグと共に、『哲学詩注釈』のアラビア語のテクス トおよびミール・ダーマード(Mīr Dāmād;d.1631)の『カバサート(Qabasāt)』も編

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集した。さらに、モハッゲグが言うように、『哲学詩注釈』のために、彼と井筒は、毎晩、

イブン・ルシュド以後の哲学者の著作を一緒に読み共同研究を重ねた。このことは、井筒 にイブン・ルシュド以後のイスラーム哲学に関する深い知識をもたらした。『哲学詩注釈』

の英訳は六九年に出版された。この翻訳はコルバンによって行われたモッラー・サドラー の『存在認識の道』のフランス語訳と共に、イブン・ルシュド以後のイスラーム哲学のテ クストの西洋言語への最初の翻訳であった。すなわち、イスラーム哲学は、西暦八世紀以 降、初めて、シーア派哲学の形で西洋に紹介されたのだ36

ナスルとモハッゲグに加え、六二年に井筒はヘルマン・ランドルト(Hermann Albert Landolt;1935-)にマギル大学で出会った。ランドルとはコルバンの弟子であり、マギル 大学イスラーム研究所の教授として働いていた。ナスルが述べるように、「マギル大学にお けるランドルトの存在により、コルバンのさまざまなプロジェクトがマギルで継続され、

コルバンの見解やプロジェクトについて様々な論文が書かれた。従って、コルバンと彼の 思想は、間接的にマギル大学のイスラーム学に影響を与えた」[Nasr, 1382/2003:53]。 井筒はナスル、モハッゲグ、ランドルト、とくにコルバンの思想37の影響の下に、次第 に、純粋な言語学の研究から離れ、コルバンと共にイブン・ルシュド以後のイスラーム哲 学の再評価を行い、そして比較哲学を組織化することを試みることとなった。

井筒は一九六六年にマギル大学イスラーム研究所で働きつつ、『スーフィズムとタオイズ ム(A Comparative Study of the Key Philosophical Concepts in Sufism and Taoism を出版した。この著作はイブン・アラビーの「存在の唯一性」(waḥdat al-wujūd)と老子 と荘子の道教思想をめぐる比較研究である。『スーフィズムとタオイズム』は三部に分かれ ている。第一部で井筒はイブン・アラビー思想の中心的概念を詳しく説明する。第二部で 井筒は道教の中心的概念を説明する。第三部で、両者の概念と思想体系が比較される。『ス ーフィズムとタオイズム』の第三部の中で中心的に比較されるのは、「存在」(wujūd)の 概念と「道」(tao)の概念である。

ここでイスラーム哲学における「存在」の分別に関して論じる。だが、まず、「存在」の 一つの分割に関して論じておく必要がある。イスラーム哲学者にとって、「存在」は知性的・

論理的な分析の下に、二つの水準あるいは次元に分別される。それらは①実在の水準ある いは次元と、②概念の水準あるいは次元である。

「存在」の実在の水準あるいは次元とは、実在界に存在するものを意味する。つまり、

すべての存在者である。実在の水準あるいは次元に対して、「存在」の概念の水準あるいは 次元がある。すなわち、「存在」の概念とは、知的・精神的にとらえられるものである。

「存在」の実在は明白な事柄である。われわれは日常生活のうちに様々なもの(=存在 者)と直面し、直接にそれらの「存在」を理解する。つまり、「存在」の概念はすべての概 念の基礎である。われわれは存在の概念によって、他のすべての概念を理解できる。さら

36 筆者が松本耿郎教授から直接聞いたところによると、『存在認識の道』からのコルバン のフランス語訳は井筒の和訳に非常に影響を与えている。事実、筆者が理解している限り、

『存在認識の道』に関する井筒の解説はコルバンの解説に類似している。

37 井筒は具体的にいつからコルバンの思想と直面することになったか、いつコルバンに会 ったかという事実を実証する資料を筆者は見つけることができなかった。しかし、モハッ ゲグ教授が筆者のインタヴューに答えたところによると、一九六八年には井筒はモハッゲ グと共に、テヘランにあったコルバンの自宅に行ったとのことである。