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神的なものと社会的なものの間の争議――超歴史における伝統を探求して

第三章 「歴史を超える対話」とは何か――アンリ・コルバンの比較哲学のモデルに基づ

第三部 神的なものと社会的なものの間の争議――超歴史における伝統を探求して

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第三部 神的なものと社会的なものの間の争議――超歴史における伝統を探求

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んに見つめると、日本の思想が出ていて、なるべくしてそうなっているはずなんだ よ」といわれていたそうである[司馬、1993:46頁以下]。

ここで確認できるのは、井筒が政治的・社会的問題に無関心であったというよりは、そ のような日常的具体的世界を形成する非顕現態に関心を向け、それを課題としていたとい うことである。

これに加え、われわれは井筒の保守的な人物像を、イラン革命という出来事への彼の向 き合い方にも確認することができる。メフディー・モハッゲグが言うように、井筒は非常 にイランに興味を持っていたにもかかわらず、イラン革命の発生の後に彼がイランを離れ たので、大変不快に感じたという[筆者とモハッゲグとの対談]。しかし、ここでわれわれ は次のことを問うことができる。井筒はイランに非常に興味があり、また、彼の「東洋哲 学」(=比較哲学)はイランのイスラーム哲学に根本があったにもかかわらず、なぜイラン 革命以降にイランに戻ることがなかったのだろうか。この問いに答えることは非常に難し く、研究者によっても意見は一致していない。しかし、それにもかかわらず、以下に引用 する文中には、イラン革命に関する井筒の保守的な人物像が描き出されているように思わ れる。

井筒の弟子で、イラン哲学アカデミーの元所長であるゴラームレザー・アーヴァーニー

(Gholāmrezā Āvānī;1942-)は、なぜイラン革命以降にイランに戻ることがなかったの だろうかという筆者の問いに対して次のように答えている。

残念ながら、イラン革命の発生の後に、イラクがすぐにイランに侵攻して、イラン・

イラク戦争は八年間続いた。イランの戦争的な状態は井筒先生のために研究的な状 態を準備することができなかったことは確かだ。さらに、イランの戦争が井筒先生 に命の危険をもたらす可能性もあった。従って、井筒先生はイランにもう戻らない ことを決めたと私は思っている[筆者とアワーニーとの対談]。

また、メへディー・モハッゲグはこの同じ問いに対して次のように述べている。

かつて、私はテヘラン国際ブックフェアに行き、テヘラン大学出版社の展示室にあ った諸々の本を見ていた。いきなり、〔イラン・イスラーム共和国の第二代最高指導 者である〕ハーメネイー師(Sayyed Alī Hosseini Khāmene’ī;1939-)がブックフ ェアにいらっしゃり、視察していることに気付いた。ハーメネイー師がテヘラン大 学出版社の展示室に至った時、井筒が書き、テヘラン大学出版社によって出版され た『サブザワーリーのヒクマ(叡智)の基礎』を彼は見た。そして、彼は私に、な ぜ井筒氏はイランに戻らないのかと聞いた。私は、井筒氏をもう一度イランに招待 するつもりであると、彼に答えた。数か月後私は「都市と都市化の比較文明学」と いうシンポジウムに招待され、東京に行った。東京で井筒氏に電話し、ハーメネイ ー師の話を伝えたうえで、井筒氏をイランに招待したい旨を伝えた。しかし、彼は イランに非常に興味があるものの、残念ながら、心臓の病気の理由で旅行すること ができないこと、そして彼は今日病院から自宅に戻って来たばかりであることを答

103 えた」[筆者とモハッゲグとの対談]。

以上のような、アーヴァーニーとモハッゲグの意見に対して、松本耿郎と元駐日イラン 大使、現在はイランの世界宗教センター所長であるアブドッラヒーム・ギャヴァーヒー

(Abd al-raḥīm Gavāhī;1944-)は、他の意見を述べている。松本耿郎は次のように述べ ている。

井筒先生は何年間も、イラン王立哲学アカデミー〔つまり、パフラヴィー朝

(1925-79)の女王であったファラー・パフラヴィー(Farāh Pahlavī;1938-)に よって支持された研究所〕の研究者として働いていた。従って、井筒先生はイラン に戻ることに、つねに心配と恐れを抱いていた。なぜならば、革命を起こした人々 によって逮捕され、裁判されることを恐れたからだと思う[筆者と松本との対談、

1392/2013, p.147]。

松本の意見は、これから引用するギャヴァーヒーの意見と密接に関係する。ギャヴァー ヒーは一九八二年から八七年まで、日本における駐日イラン大使であった。彼はイラン大 使として、黒田壽郎のような井筒の弟子たちと良い関係を築くことができた。その関係は、

文化的・研究的な関係のフレームワークからも基礎づけられる基礎もっているものである。

しかし、ギャヴァーヒーは決して井筒に会うことがかなわなかった。彼はその理由を次の ように述べている。

私が日本でイランの大使だった時、何回も井筒氏に連絡し、彼をイラン大使館へ 招待した。しかし井筒氏は毎回、「私は大変忙しい。そして私は夜から朝まで勉強し て仕事するので、午後まで寝て休んでいる」と答えた。井筒氏が私の願いを受け入 れなかったので、私は自分の方から井筒氏のご自宅に赴いて彼に会うことを提案し た。しかしながら、井筒氏はこの提案も受けなかった。私は、井筒氏がイランの新 政府と関係し、協力することを望まなかったのだと思う[筆者とギャヴァーヒーと の対談]。

松本氏も筆者との対談におけるギャヴァーヒー氏の意見を認めた[筆者と松本との対談、

1392/2013:147]。今まで引用した様々な意見には、井筒の保守的な人物像が描き出され ている。実際のところ井筒の保守的な特性は、井筒の哲学にもおのずと影響を与え、一見 すると非政治的な哲学を構築したように思われる。しかし、それは見せかけの非政治性で あることが、最終的に示されるであろう。

第二の根拠

第二の根拠は井筒の思想の構造と密接に関係する。本論文の第二部で論じたように、井 筒の思想は、新プラトン主義の思想に基づく東洋の諸伝統の読み直しと比較である。井筒 の思想の構造において中心的なテーマを形成するのは、新プラトン主義の思想に基づく「顕 現しないもの」と世界の開現性の「理解」と分析である。確かに、一見したところ、東洋

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の諸伝統における「顕現しないもの」と世界の開現性の「理解」と比較は、政治的なもの や社会的なものと具体的には関係がないと思われるかもしれない。従って、井筒の思想の 構造は政治的・社会的な課題とは関係しないのではないかと、推察することはできよう。

だが、世界の根本、世界そのものが現実世界と関わりがないとは、いかなることであろう か。井筒が新プラトン的思想構造を基礎に据えること、それを選択することは、非政治性 の現れであり、この現れが隠す井筒の本質、それと表裏一体の思想的問題に迫らなければ、

井筒思想、井筒哲学、井筒の比較哲学の可能性も意義も問題性も明確にはならない。

第三の根拠

第三の根拠は、井筒の思想の本質に関する日本人の研究者たちや学者たちの見解と関係 する。この第三の根拠は、これからそのことについて論じるように、第一の根拠と第二の 根拠よりは曖昧であるように見えるであろう。というのも、日本人の研究者たちや学者た ちの見解が、必ずしも一致してはいないからである。

筆者の知る限り、井筒の比較哲学における政治的・社会的な本質に関する研究は非常に 少ない。今までイラン人研究者・学者たちは、このことについてまったく研究していない。

日本人の研究者たちや学者たちも、井筒と大川周明(1886-1957)との関係のみを研究の 目標にしている。その研究も、おもに二つの主題に集中している。それらは、①大川の東 亜経済調査局と井筒との協力の原因、②大川の大アジア主義のテーゼ45と井筒の「東洋哲 学」との関係――つまり、井筒の「東洋哲学」は大川の大アジア主義のテーゼに根本があ る――という主題である。

大川と井筒との協力の理由について、研究の観点からは大きな問題はない。井筒は司馬 遼太郎との対談(「二十世紀末の闇と光」)で、大川との協力の理由を明確に表現している。

井筒は司馬に次のように述べている。

大川周明が私に近づいてきて、私自身も彼に興味をもったのは、彼がイスラーム に対して本当に主体的な興味をもった人だったからなんです。知り合いになった頃、

これからの日本はイスラームをやらなきゃ話にならない、その便宜をはかるために 自分は何でもすると、私にいっていました。それで、オランダから『イスラミカ』

という大叢書と、『アラビアカ』という大叢書、つまり、アラビア語の基礎テクスト 全部と、イスラーム研究の手に入る限りの文献は全部集めて、それをものすごいお 金で買ったんです。それを、東亜経済調査局の図書室に入れておいた。ところが誰 も使う人がいないし、アラビア語のテクストを整理する人がいない。私に「やって くれないか」というありがたい話で、アラビア語の本なんてあの頃は買えませんか ら、倉庫に入り込んで毎日のように、「整理」と称して自分で読んでいたんです。

それなのに、大川周明のほうでは私をすっかり信用してくれて、私はすべて任せ てもらったんです。で、私の役目はカタログをつくることだったんです…[司馬、

2004:296頁以下]。

45アジア主義、あるいは、汎アジア主義とは、日本と他のアジア諸邦の関係や、アジアの 在り方についての思想ないし運動の総称である。一九世紀後半に活発となった欧米列強の アジア侵出に対抗する方策として展開された。