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第一章 井筒の歴史的方法論

第一節 『コーラン』研究における井筒の方法論

井筒の第一のグループの著作の主題と内容は、方法論の観点から、言語に関する研究と イスラーム思想史、イスラーム神学、『コーラン』の和訳、および、『コーラン』の概念と

32 第三部で筆者は、井筒の比較哲学とイラン革命との関係について詳しく論じるつもりで ある。

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意味に関する研究、近代ロシア文学史、古代ギリシア思想史である。神秘主義の思惟(特 にイスラームの神秘主義)についての研究は、一九四三年(井筒、二九歳)までほとんど なかったと言える。井筒は一九四三年に「回教神秘主義哲学者 イブヌ・ル・アラビーの 存在論」という論文を書くことによって、業績上、イスラームの神秘主義の研究に入った ことが確認できる。一九四三年まで井筒は合わせて八つの論文と一冊の本を出版したよう である。これらの八つの著作のテーマは言語学、アラビアの文化、アラビア語、イスラー ムの神学と法学である。残りの一冊は『アラビア思想史』と題され、それは一九四一年に 出版された。

『アラビア思想史』は井筒の最初の本であり、イスラーム思想に関する歴史的叙述であ る。ここで筆者の目的は『アラビア思想史』の内容の分析ではなく、「アラビア思想史」と いうタイトルがオリエンタリズムについて論じる本論文の第三部と密接に関係することを 指摘することである。

井筒は一九六六年までに、様々な論文と本を書いて出版したが、第二部の主題と関係す るのは次の三冊である。

① 『コーランにおける倫理概念の構造――意味論研究(The Structure of the Ethical Terms in the Koran: A Study in Semantics)』: この英語の本は一九五九年に慶應義 塾大学の出版社によって出版された。井筒はマギル大学イスラーム研究所の所長で あった、チャールズ・アダムズ(Charles J. Adams; 1927‐2011)の提案の下に、

この著作を改訂した。改訂版の英語の題はEtico-Religious Concepts in the Qurʾān であり、一九六六年に出版された。井筒の弟子であり、『コーラン』の世界観につい て詳しく研究した牧野信也(1930‐2014)はこの著作を英語から和訳(『意味の構 造――コーランにおける宗教道徳概念の分析』新泉社、1972)し、井筒俊彦著作集の 第四巻(中央公論社、1992)として出版された。

② 『コーランにおける神と人間(God and Man in the koran:Semantics of the Koranic Weltanschauung)』:井筒は一九六二年の春にマギル大学の学長であった、

ウィルフレッド・スミス(Wilfred Cantwell Smith;1916‐2000)の提案の下に、

『コーラン』の構造と概念についていくつかの講演を行った。『コーランにおける神 と人間』はそれらの講演の産物であり、一九六四年に出版された。

③ 『イスラーム神学における信仰の概念(The Concept of Belief in Islamic Theology:

A semantic Analysis of IMĀN and ISLĀM)』:この著作は井筒が一九六四年にアダ ムズの提案の下に講演したもので、一九六五年に出版された。

この三つの著作の内容・目的・対象は『コーラン』とイスラーム神学の意味論に関す る研究である。それぞれの著作の方法論は共通しており、井筒は『コーラン』とイスラ ーム神学に関する言語学的な解釈を提示する。それぞれの著作を分析することは、本論 文の目的とテーマではない。従って筆者は以下の二つの理由で『意味と構造』を選択し、

それにおける井筒の方法論について論じる。

第一の理由

『意味と構造』は比較哲学に関する井筒の最初の著作である『スーフィズムとタオイズ ム』に先行するものである。それゆえこの本における井筒の方法論を提示し、後続する著

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作との差異や変更を明らかにすることが必須である。

第二の理由

上に言及した三冊の著作の中で、『意味の構造』のみが日本語へ翻訳されたものである。

しかも、この和訳は、井筒の了承のもと、The Structure of the Ethical Terms in the Koran:

A Study in SemanticsとEtico-Religious Concepts in the Qurʾānとが適宜取捨選択され ている。そして、一九九二年に著作集に収められたものは、序章が晩年の井筒本人によっ て再度書き直されている。それゆえ筆者はこの版に基づいて論述する。『意味の構造』にお ける井筒の方法論を筆者は次の三つの主題で分析しようと思う。

第一の主題

『意味の構造』における井筒の目的は『コーラン』の意味分析であり、客観的な方法を 目指している。彼は自分の目的について次のように述べている。

『コーラン』はひとつの自立的な全体統合体、つまり無数の向内的クロッス・レフ ェランスの全体的統一体系として分析される。より簡単化して言うなら、『コーラン』

の諸概念を、ひたすら『コーラン』自身によって、他のいかなるテクストにも依処 することなく、解釈するということ。いわば『コーラン』を構成する鍵概念を、『コ ーラン』自身に解き明かさせる、ということなのである。この種の意味分析的操作 の方法論的効力は、本書の論述の進行とともに、次第に明らかになっていくであろ う[井筒、1992、第四巻:11頁]。

井筒が『コーラン』の「意味論的分析」と呼ぶものは、イスラームの伝統では全く新し いものではない。昔からムスリムの『コーラン』の解釈者たちはそれを行ってきた。この 方法論をムスリムの『コーラン』の解釈者は、「『コーラン』による『コーラン』の解釈」

(ペルシア語で:tafsīr-e Qurʾān ba Qurʾān)と呼んでいる33。このような『コーラン』

解釈の伝統を井筒が意識しなかったはずのないことは、引用された注釈書からもあきらか である。井筒は、しかし、そのような伝統を指摘することなく、「『コーラン』のことばを

『コーラン』自体から学びとろう」(井筒、1992、第四巻:26頁)と述べている。

但し、井筒のアプローチとムスリムの解釈者のアプローチの間には大きな差異がある。

ムスリムの解釈者はイスラームの伝統のフレームワークにおいて『コーラン』を解釈する が、彼らの方法に対して、井筒は『コーラン』の解釈とその「意味論的分析」のために、

言語学者(具体的に西洋の言語学者)の言語論を使用する。井筒は、伝統的な『コーラン』

解釈学をいわば近代化したともいえる。井筒のこのアプローチは、ムスリムの解釈者にと って新しいものであった。ゆえに、上に言及した三冊の著作がペルシア語へ翻訳され出版 された時、一部のイラン人の『コーラン』の研究者は、すぐに、それらの著作の方法論を 受容し、使用した34

33 このことについて、[タバータバーイー、2007:92頁]を参照。

34 われわれはこのことについて一つの重要な点に注意しなければならない。井筒が提案す る方法論はイランの一部の研究者によって賛同を得て使用された。しかし、井筒の方法論

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井筒は『意味の構造』の序章で、自分の理論を詳しく解説している。この序章で述べら れていることのうちの一つの点が、筆者が本論文の第二部で追う目的と密接に関係する。

それは、「人間生活の具体的現実」と「歴史的相対論」として井筒によって表現された事柄 である。この問題点は、井筒が比較哲学の分野に入ってから変化する。彼は序章で「歴史 的相対論」とそれに関する自分の意見について、「私は極端な歴史的相対論者ではないのだ」

[井筒、1992、第四巻、14 頁]と述べている。そして、世界を通じて共通である「道徳 律における原理の主要な点」に関して、ノーウエル・スミス(P. H. Nowell-Smith;1914‐

2006)の意見を引用して、次のように述べる。

彼のこの意見は確かに正しいと私は思う。具体的事実に由来する考え方の相違を 離れて、抽象的原理としての道徳律を問題にするかぎり、彼に反論する余地はない だろう。このような高度の抽象的思惟の段階においては、おそらく人間性は世界中、

どこでも同一であろうし、私もこういう全ての人間の共通な、普遍的な幾つかの道 徳の原理が立てられるであろうことを否定はしない[井筒、1992、第四巻:15頁]。 そして井筒は自分の方法論とアプローチを次のように定義する。

しかし先にも一言したとおり、問題は、このような抽象的道徳律の次元に達する 以前に、我々は、まず、もっと濃密な言語文化的パラダイムの領野を通過しなけれ ばならないというところにある。そしてそのような領野においてこそ、道徳の真に 基礎的な思想が展開されなければならないのである。

言い換えるなら、言語コミューニティごとの人間生活の具体的現実の只中にお いてこそ、個々の理論的また道徳的キータームの意味は形成される、ということだ。

もし善をなすということの具体的意味が、言語コミューニティごとに違うとすれば、

「善」という語の意味構造そのものが、それぞれの場合で、どうしても異らなけれ ばならない。

無論、例えば英語において最も曖昧かつ漠然たる語のひとつである good に、

意味の上でもまた用法の上でも多小なりとも対応する語がどの言語にもあるのでは ないかということが推測される。だが英語以外、例えば我々の母国語の意味構造上 の特性を、英語の語彙の意味内容に投影させることを避けるためには、このような 確実な推定はしない方よい、ということになるのである。

いずれにしても、言語文化的パラダイムの存在を重要視する私としては、何が 善であり何が悪であるか、また何が正しく何が不正かということについて、人間の 考えは時間により、また場所によって異なるのであって、一元的な人類文化の発展 の段階における程度の差として抽象的に説明されるようなものではないと考える。

そこに見られる差違は、個々の言語習慣に深く根ざした、より根源的な文化パラダ イム的相違として説明されなければならない、という多元説を、私は強く支持する

[井筒、1992、第四巻:15頁以下]。

は、イスラームのシーア派伝統の中核であるイランのマドラサ(神学校)に受容された形 跡はほとんどみられない。第三部の中でこのことについて論じる。