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第三章 「歴史を超える対話」とは何か――アンリ・コルバンの比較哲学のモデルに基づ

第二部 の結び

筆者は、第二部で、井筒の思想の進捗の段階について論じつつ、彼の比較哲学の基礎と 意義――つまり「歴史を超える対話」――を検討し、その立場を多角的に検討し、その意義 を解説することを試みた。されらに、コルバンの哲学・スフラワルディー哲学・シーア派 思想が、井筒の比較哲学に具体的にどのように影響を与えたかを明らかにすることも筆者 は試みた。

しかし、これからの第三部で詳しく論じるように、比較哲学を構築する井筒とコルバン の目的には、政治的・社会的な背景や条件が不可分に含まれてもいる。事実、第一部の中 で論じたように、比較哲学は基本的に政治的・社会的な状態の産物である。井筒とコルバ ンの比較哲学も、第二次世界大戦以降の出来事とイスラーム世界の状態、イスラーム学の 産物、イスラーム哲学の再発見という諸条件なくしては成立し得なかった。井筒とコルバ ンにとって、世俗主義とニヒリズムの危機は、全世界を包み込んでおり、それを克服する 道を、両者は神秘主義の思想、あるいは、グノーシスの思想の復興に見出したのであった。

そのような関心から、コルバンと井筒がイラン・イスラーム哲学の複雑なテクストに入り 込み、それらを読み直したことが理解できる。このような再発見された古典の読み直しに よって、そこに記された神秘主義の思想、あるいは、グノーシスの思想の復興を彼らは、

現代哲学(比較哲学や解釈学的現象学)の形で試みた。

しかし、それにもかからず、井筒とコルバンには、彼らの比較哲学において、根本的に 重要な問題点が見逃されていると言わざるを得ない。たしかに井筒とコルバンの目的は現 実世界(B領域)の問題と危機を超えることである。しかし、二人は解決方法を非顕現の 領域(M領域)で探求している。M領域は単に神秘体験によって得られるものであり、神 秘主義者、あるいは修行者のみがM領域において現象をヴィジョン化して「理解」(つま り「解釈」)することができる。すなわち、一般者はそれを決してヴィジョン化して「理解」

することができないことになるのではないだろうか。さらに、M領域における「理解」は、

端的に個人的、主観的なものではないだろうか。すなわちは、神秘主義者は個人として隠 れたものをヴィジョン化して非対象化的思惟により「理解」する。この「理解」は完全に その神秘主義者に属する。確かに、個人的、主観的、あるいは内在的な現象の「理解」に 基づいて、哲学的議論の形式をとることはできるのかもしれない。事実、そのような学派 も成立し、哲学を構築してきたともいえる。だが、現実と関わるはずのこの「理解」は、

政治的・社会的な問題と危機を克服のために、いかなる寄与をなすのだろうか。政治的・

社会的な問題と危機はB領域に属するものであるから、それの解決方法もまたB領域で探 求しなければならいのではないだろうか。コルバンや井筒にとって、「分節化Ⅱ」における 現象理解が現在化され、現代的に読み直され、本来の働きを示すものなら、B領域におけ る政治的・社会的な問題と危機も解決法も、もはや単なる「分節化Ⅰ」のそれではなく、

「分節化Ⅱ」に基づく解決法であらねばならない。

上記の点に加え、井筒とコルバンの比較哲学は、論理的・哲学的に、大きな問題と直面 している。井筒とコルバンの比較哲学はB領域を仮構(iʿtibārī)の世界として想定する。

真の領域はA とM領域である。この見方は、われわれがそこに住んでいる世界は仮構の ものに過ぎないことを意味することになりはしないだろうか。この見方が結果するのは、

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実在界である「人間生活の具体的現実」と歴史的な真実の否定ではないか。

第二部における検討の最後に、「分節化Ⅰ→A領域→分節化Ⅱ」という井筒の(そしてコ ルバンにも共通する)図式を提示しつつ、筆者がこれまで議論してきた部分を井筒思想の 基本構造に沿うようにまとめた。仮構すなわち概念的に構成されたに過ぎず、現実の生き 生きした働きを実体化して固定化する思惟を、無限性の段階(A領域)に引き戻すことが、

求められていた。これにより、私物と化した現実世界に、本来の躍動性、生動性、概念化 から漏れ落ちる生命性や働きの場を、「人間生活の具体的現実」、すなわち、歴史的な真実 に再度与える、再現させる、見出すということであった。

だが、これが、歴史的な真実の否定とならないようにするには、「分節化Ⅱ」で起きたこ とが、経験として、分節化Iからの前進であると理解できなければならない。あるいは、

「分節化Ⅱ」で現実化したことが、まったく意味不明ではなく、つまり、どこかで少数の 人が、あるいはさらに望まれるのは、場合によっては多くの人が、「分節化Ⅰ」から「分節 化Ⅱ」への転換を理解可能になるような、通約可能性がなければならない。すなわち、「分 節化Ⅰ」から「分節化Ⅱ」を横断するような、「日常的理解のネットワーク」とでも呼ぶべ き一種のネットワークがなければならない。

確かに、井筒は、慎重にも、「分節化Ⅰ」から「分節化Ⅱ」へのこの転換は、日常言語の、

非概念的用法によって、提示可能であると、随所で物語る。すなわち、「山は山、川は川」

という概念的本質規定によって実体視された対象世界が、「山は流れる」というような表現 で示される非概念的思惟によって、生き生きとした現実へ還元される。とはいえ、この生 き生きとした現実は、このように目指されることによりイデオロギー化され、決して到達 のできない何かへと転換されている。というのも、「分節化Ⅰ→A領域→分節化Ⅱ」という 無限に続けざるをえない運動がもつ不可避的なイデオロギー性が、この運動を語る言葉で は語られることがないからではないだろうか。

この運動のイデオロギー性の傍らを無批判に通り過ぎるのではなく、「分節化Ⅰ→A領域

→分節化Ⅱ」を語る「日常的理解のネットワーク」が求められる。この探求は、コルバン や井筒の図式からは見えてこないし、そこでは語られていない。井筒の分節理論も、この ような批判的「日常的理解のネットワーク」を提示することはしていないと思われる。井 筒の分節理論が提示しているのは、仮構の虚妄性を乗り越えるための方策としての「分節 化Ⅰ→A領域→分節化Ⅱ」という運動のみである。

「日常的理解のネットワーク」は、この運動の内部から内在的に、あるいは、この運動か ら超出して、いわば経験している人ではない人にも可能な方法論として、展開可能かもし れない。ただ、筆者は、これがどのような実現化によって達成されるにせよ、政治的・社 会的な基本と結果、さらに認識論的問題を取り扱わなければ、到達不可能であろうと思わ れる。

何よりも、コルバンや井筒は、自らの時代的、社会的な制約としての認識や関心を語る 言葉を十分には展開しなかった。彼らが論じる無限性が、その論じ方によって、不可避的 に特異化され他者化されることをも論じなかった。すなわち、彼らが無限性を当然ながら 超歴史性・超地域性において論じるとき、逆に言えば超歴史性・超地域性において無限性 を論じるとき、見かけにおいて個々の社会的・時代的・政治的制約を超え出てしまうとい うという、裏返された政治性の出現について、彼らは語る言葉を持たなかった。

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そこで、筆者は、このような「日常的理解のネットワーク」が、いかにして構築可能で あるかを検討するために、第三部において、井筒とコルバンの比較哲学の政治的・社会的 な基本と結果、さらに認識論的問題が、いかなる現実にいきつくのかを論じようと思う。

なぜなら、社会的、政治的出来事は、B領域だけではなく、また、「分節化Ⅱ」における非 概念的思惟とその経験世界だけでもなく、この運動全てを語るための「日常的理解のネッ トワーク」にかかわっているからである。無限性、超歴史性、超地域性を語る行為が、語 りと同時に隠してしまう、その語りの政治性を暴き出すことが、筆者が、ここで考えてい る「日常的理解のネットワーク」形成のための必須な様相の一つであるからである。

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第三部 神的なものと社会的なものの間の争議――超歴史における伝統を探求