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3層   2層

ドキュメント内 東北大学埋蔵文化財調査年報18 (ページ 47-55)

56号3号3号15 58号

  14号

  1号

A層 1号暗渠 6号塀

 

ピット498ピウト10

53号62号 DC a b

一     6 2 m 一     的 一

一     6 2 m 一     6 . m 一

鯵磯錢2層 ⅢⅢⅢⅢ 3層 醸鰯靱4層上部 僻ti●

44層

下部 ‐5層 膨務羽地山

︱ ︱ ︱ 耕

拭Aみ効

13 

二の丸第17地点外周壁断面図(1) Fign3 CrOss sections of excavation at Nl17(1)

C ピット201断面でのみ確認 1号溝 │ピット90

63 d′63m 62m 61m

2層

ⅢⅢ ⅢⅢ  3層

饉饉鰯4層上部 隆!可4層下部 ‐5層 彦彪阿地山 図

14 

二の丸第17地点外周壁断面図(2) Fign4 Cross secdons of excavation at NM17(2)

う点では共通 していると考えられるため、これ以上の細分は行なわなかった。そのため以下では、Ⅲ期 とⅣ期を 細分 した基準について記述する。個々の遺構 をどの時期に帰属させたかの詳細については、第 Ⅱ章

4.の

それぞ れの遺構の記述の中で説明する。

② Ⅲ

a期

とⅢ

b期

の区分

Ⅲ期 とした

4層

上部上面の遺構 は、中区を中心に多数の遺構が重なり合っている。それらの中で最 も古い段階 には、平行する溝状の遺構が中区と南区に並んでいる。平行する溝は、中区は南北方向、南区では東西方向で、

溝の幅や断面形状が異なるという違いはあるものの、いずれも黒色から黒褐色の比較的均質な埋上である。この ような埋土は、他の段階の遺構埋土にはほとんど見 られない。また、このような並行する溝が展開するのは、他 の時期には見 られない、極めて特徴的なものである。このように遺構の展開状況が前後の時期 とは大 きく異なる ことか ら、独 自の一つの段階と判断し、Ⅲ期の他の遺構から分離 して、Ⅲ

a期

として区分 した。これ以降のもの は、Ⅲ

b期

としてまとめた上で、 さらに細分するという方法を取った。

③ Ⅲ

b期

の細分

b期

は、遺構の切 り合い関係や展開状況から、Ⅲ

bl〜 4期

に区分 した。Ⅲ

b期

の細分にあたって基準 とし た、主な切 り合い関係 を整理 して示す と、以下のようになる。

bl期  │

70号溝

  │

b2期  I   

b3期     │

1 19号

柱列

      │

│  

   17号

柱列

 │

b4期

6号

溝―

‑4号

土坑

2号

=3号

│        !

69ii町

32〒

;育

18i;柱

41   1

::珠1孔 上整 地 :を 発建 江」

│        │      │

│        │

23号柱列

+3号

木樋 ―十

‑43号

   │

24号柱列

 │

b期

の細分 にあたっては、中区か ら北 区にかけて延びる32号溝 と、それに接続す る

9号

溝 を主要な基準 とし たが、切 り合い関係だけで、細分段 階を確定す ることは不可能であった。同 じ段階に存在 して矛盾がないか どう か も、主要 な判断基準 とした。32号溝 ・

9号

溝 と併存 して矛盾 の無い遺構群 を抽出 してⅢ

b2期

とし、それ よ り 古い と考 えた方が良い遺構群 をⅢ

bl期

、新 しい と考 えた方が良い ものをⅢ

b3期

とした。 さらに、 Ⅲ

b期

で も 最 も新 しい段 階には、 Ⅲ

b3期

の遺構 を大 きく壊 して造 られている

2号

溝が存在す る。 この

2号

溝 と併存 して矛 盾 のない遺構群 を抽 出 したが、 Ⅲ

bl〜 3期

の遺構 の展 開状況 とは大 きく異 なっている。柱列 な どの区画施設 な

どが見 られず、簡素な石組溝 などが展開するだけで、 この区域が Ⅲ

bl〜

3期と同様 に使 われていた と考 えるの は困難である。む しろ、文化元年の火災直後の片づ けの際 に、一時的に排水 などのために造 られた遺構群 と考 え るのが妥当であろう。そのため、 この段階をⅢ

b4期

として区分 した。

この ような形でⅢ

b期

を細分 したが、異なる遺構が同時 に存在 したか否かについては、判断の難 しい場合 もあ る。今回の調査で検 出 した柱列のほとんどは、塀であった と考 えられる。塀 の ような区画施設 と溝 については、

塀が溝 をまた ぐ場合があったことが想定 される。その際、石組溝の掘 り方 を塀 の柱穴が一部切 ってい るような場 合 には、両者が同時存在す ることは可能である。 また、溝 をまた ぐ部分だけ、柱間間隔がずれる場合 も想定 して おかなければな らず、溝 と柱列 との同時存在の可否 を判断す ることは、容易ではない。 Ⅲ

b期

では、16・ 17・ 18 号柱列 と32号溝が交差する。16・ 17号柱列 については、交差す る部分の柱 間間隔がずれていた場合 には、32号溝 をまた ぐことも不可能ではない。 しか し18号柱列 と32号溝 の関係では、18号柱列の柱

6が

、溝の石組 を完全 に破 壊 してお り、 この場合 は同時存在 は不可能である。そのため、32号溝 と18号柱列 は別な時期 とし、18号柱列 と同 様 に展開す る16。 17・ 19号柱列 も、同 じⅢ

b3期

に含 めた。 しか し、18号柱列 より古い19号柱列、あるいは18号 柱列 との前後関係が判明 しない17号柱列 については、一つ前のⅢ

b2期

に遡 る可能性 も残 されている。

このように、細部 においては確実でない部分 も残 されている。 また、各細分時期の中で も、 さらに新 旧の関係 が含 まれてお り、 これ らの遺構が、厳密 に同時存在か どうかを確定す ることは難 しい。 また、帰属 させた時期以 外 に動 く可能性が残 されている遺構 も多 く存在する。それ らについては、個 々の記載の中で指摘す る。 この よう

な問題は残 されているが、 Ⅲ

b期

の中での変化の動向 としては、大過 ない もの と考えられる。

④ Ⅳ期の細分

Ⅳ期 とした3層上面掘 り込みの遺構の中で、切 り合い関係か ら最 も古い段階には、中区か ら南 区の大部分 に規 模 の大 きな礎石建物が展開 し、北区の東半分 にも礎石建物が存在す る。 この ような建物が造 られるのは、他の時 期 には見 られない。続 く時期 には、塀が屈 曲 して展 開 し、北区の東半部 を除 くと礎石建物 は造 られず、遺構 の配 置状況は一変す る。そのため、 この段階をⅣ

a期

として区分 した。3層が文化元年の火災 に伴 う整地層 と考え ら れることか ら、Ⅳa期は火災直後の時期 と推定 される。文化元年の火災では、二の丸がほぼ全焼 した ことが記録 に残 ってお り、二の丸建物群全体の再建が直 ちになされた とは考 え難い。全ての建物が再建 されるまで、一定の 期 間を要 した と考えるのが 自然である。Ⅳ

a期

の建物群 は、 この復興の過程で、一時的に造 られた もの と考 える のが妥当であろう。

a期

に続 く時期 には、溝の中に柱 を立てた塀が、屈 曲 しなが ら南北 に延 びてい く。中区 と南 区では、塀の西 側 にはほとん ど遺構が存在 しないことか ら、中奥西端 を区画す る塀 と考え られる。 この塀以外の遺構 は、北区東 半部 に礎石建物が存在す る以外 は、塀 と連接す るな ど一連の区画施設 と考 えられる柱列や、塀の改修 に関わる可 能性 のある柱列がほ とん どを占めている。 この ような遺構 の配置状況は、Ⅳ

a期

とは全 く異 なってお り、Ⅳ

b期

として区分 した。

Ⅳ期の遺構 の中で、切 り合い関係か ら新 しい と判断で きる遺構 には、 グリッ ドラインに近い方向で造 られた も のが多数存在す る。 これ までの川内南地区の調査事例か ら、二の九期の遺構 は、北で約25度西偏す る方向で造 ら れていることが判明 している。今回の調査 において も、 Ⅱ期か らⅣ

b期

までの遺構 は、一部異 なる もの も存在す るが、基本的にこの方向に基づいて造 られている。 グ リッ ドの方向は、北で約17.5度西偏 していることか ら、二 の九期の遺構 は、 グリッ ドか ら

7度

程度 さらに西 に傾 く。 しか し、Ⅳ期の最 も新 しい段階で、異 なる方向の遺構 が出現す る。遺構の方向が異 なることは、この区域の使 われ方が大 きく変化 していったことを示 している。また、

遺構 の配置状況 も前段階か ら大 きく変化す る。そのため、 この段 階をⅣ

c期

として区分 した。明治時代 に入 り、

二の丸地区の使 われ方が大 きく変化 したことを反映するもの と考えて良いだろう。なお、出土遺物 などか ら、明

治初頭以後に下ることが明らかな遺構 も、Ⅳ c期 に含めている。

(3)各期の推定時期

今回の調査では、上述 したように、大別

4段

階、細別10期に遺構の変遷段階を区分 した。次に、それぞれの段 階が、 どのような時期に相当すると考えられるかについて、概略を述べておきたい。順序は逆になるが、より推 定が確実な新 しい段階から遡 らせる形で記述する。

①文化元年の火災 とⅣ期の推定時期

先述の ように、基本層序の3層が、文化元年 (1804年

)の

火災後の再建工事 に伴 う整地層 と考 えられることか ら、 Ⅲ期が文化元年以前、Ⅳ期が文化元年以降の可能性が高い もの と考 えた。 このⅣ期の中で もⅣ

a期

は、復興 時 に一時的に造 られた遺構群 と考 え られる。文化元年の火災では、二の九建物群 はほぼ全焼 している。F伊達治 家記録』 には、文化

6年

(1809年

)4月

に、「仙台城二丸落成」 とい う記載があることか ら、再建 まで

5年

近 く 要 した もの と思われる。Ⅳ

a期

の建物群が使用 された時期が、 この

5年

間の全てに渡 るのか、あるいは もっと短 期 間なのかは、再建工事の進み方 に左右 される もの と考 え られ るが、巌密 に比定す ることは難 しい。そのため、

a期

は、文化元年か ら文化

6年

頃の時期 と考 えてお きたい。

なお、 Ⅲ

b4期

の遺構 も、 Ⅲ

bl〜 3期

とは様相が異 なっている。それ までの柱列 な どの区画施設などが見 ら れず、簡素 な石組溝 な どが展 開するだけ となっている。 この区域が、 Ⅲ

bl〜 3期

と同様 に使 われていた と考 え るのは困難である。む しろ、文化元年の火災直後の片づけの際 に、一時的につ1水などのために造 られた遺構群 と 考 えるのが妥当であろう。その後、

 3層

の整地が行われ、大規模 な再建工事が開始 され、その工事の間の暫定的 な施設 として、Ⅳ

a期

の建物群が造 られた と理解 してお きたい。

一方 Ⅳ

c期

は、基準方位がずれることなどか ら、明治 に入 って二の九の使 われ方が変わって以降の もの と考え られる。明治維新後、明治

2年

(1869年

)の

版籍奉還、

 4年

(1871年

)の

廃藩置県 な ど、めま ぐる しく制度改変 が続 く。そのため、Ⅳ

c期

の開始が、厳密 に どの時期かを確定す ることは難 しいが、ほぼ明治初年頃 と考 えてお きたい。 したが ってⅣ

b期

は、文化

6年

(1809年

)頃

か ら、明治初年 (1868年

)頃

、Ⅳ

c期

は明治初年頃か ら明 治15年 (1882年

)の

火災 まで と考 え られる。

② Ⅲ

a期

の遺構 と元禄年間の二の丸大改造

I・ Ⅱ・ Ⅲ

a期

については、出土遺物が僅少で、遺物の年代観か ら確実 な年代 を推定することは難 しい。 Ⅲ期 以前の年代 を考 えるにあたって重要 なのは、 Ⅲ

a期

である。 Ⅲ

a期

には、並行する溝状の遺構が並 び、建物や塀 な どは見 られず、他の時期 と全 く様相が異 なる。 これ らの溝か ら出土 した遺物で詳細 な年代 を明 らかにで きるも のは少ないが、陶磁器 は18世紀初頭 頃の ものが主体 を占めると考 え られる。遺物の量が ご く少数 なため、出土遺 物か ら確定的な年代 を絞 り込むことは困難であるが、18世紀初頭以上 に遡 らせ ることは難 しい。

a期

の遺構 は、

 4層

上部の整地が行 われた直後 に造 られている。 この ような遺物の年代観か ら、整地 を伴 う 工事が行 われた可能性があるもの として、元禄年間の二の丸大改造があげ られる。『伊達治家記録』には、貞享

4年

(1667年

)に

御座 間の普請などの記事が見 え、翌元禄元年 (1668年

)以

降、元禄年 間の前半 を中心 に、表向 きの建物 に一連の工事が行 われている (佐藤巧1967・ 1979)。 中奥 については、元禄3・

4年

に も記事が見 える が、元禄13年 (1700年

)に

奥方普請の記事があ り、同年 9月 に「奥方造営落成」 との記載がある。 この ように元 禄年間の二の九大改造 は、相当長期間に渡 って、順次工事が進め られた と考 え られ、中奥の工事 はそのなかで も 最後 に進め られた もの と思われる。

この元禄年間の大改造 を示す もの としては、第

5地

点の調査 において、大規模 な整地層が確認 されている (年

ドキュメント内 東北大学埋蔵文化財調査年報18 (ページ 47-55)

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