ベル文学賞を受賞した作家莫言は、「ノーベル賞授賞式講演」で亡き母の凛々しく貧しく苦 しい人生について語った。1922年生れという莫言の母は解放後の農村で密かに落ち穂拾い をして見張りに見つかり、纏足のため逃げられず捕まって殴り倒されたという。纏足が平和 な時代にも女性の生存を脅かしていたことに驚かされる。一世代上で
1905
年生れの呉錚錚 が日本軍の侵略、国共内戦、文革の動乱を生き延びるのにどれほど天足の恩恵に浴したか想 像に難くない。天足と教育(呉錚錚の受け得た教育は明らかでないが、呉趼人は生前に小学 校を創設している)は先ずその娘の人生に効用を現したといえる。呉趼人は薛錦琴を目撃した原体験に基づき、救国への助勢という観点から、行動力と学識 定見ある女性を称揚して作品中に反映させた。さらに女性の愛情開放と自己実現との相関に 着目した。それは、当時“文明(開明)”を標榜する男性の中であってさへ稀有の主張であ ったに違いない。彼は《写情小説》において、愛情を自覚した女性が自らの意思で人生を選 択する姿を描いた。愛情に基づく結婚をはじめ、自身の志を貫き自立した女性が救国を担う ことを期待して、作品中で女子教育、天足を訴え、男性の意識変革を求めた。その意義と功 績は高く評価されるべきであろう。
註
1夏暁紅『晩清社会与文化』(湖北教育出版社2001.3)
2[張竹君]生卒年不詳。広東省出身。夏葛女医学堂に就学、1900年卒業。徐宗漢の援助で広州に医院を開き、演説会 を開いて維新思想を鼓吹し、馬君武らに求婚されたが独身主義を貫いた。後に伍廷芳夫人、哈同夫人羅伽陵らの 援助で上海に数カ所の医院を開き、さらに女子に就業の必要性を説き自立手工学校を開いた。(馮自由『革命逸 史』二集「女医師張竹君」(民国54年10月台湾商務印書館)
3[秋瑾](1874-1907)浙江省紹興出身。1904年婚家を出て日本に留学。翌年帰国し光復会に参加、『中国女報』を 発刊。1907年、紹興大通学堂督弁の時、光復軍の組織を謀り、逮捕処刑される。(馮自由『革命逸史』二集「鑑 湖女侠秋瑾」)
4[徐宗漢](1876-1944)広東省香山県出身。家塾で学び、一度嫁ぐが死別。1907年中国革命同盟会に参加。黄花崗 役で負傷した黄興と夫婦を装い脱出、結婚する。赴仏勤工倹学を援助、貧困児童教育に勉めた。(馮自由『革命 逸史』三集「徐宗漢女士事略」)
187
5[向警予](1895-1928)湖南省出身。湖南第一女子師範などに就学。1918年、南方桂系軍閥周則範の求婚を斥ける。
翌年留仏し蔡和森と結婚する。21年に中共入党、28年、逮捕処刑される。(戴緒恭『向警予伝』(1981.5人民出 版社)
6[郭隆真](1894-1931)回族。河北省出身。1913年に天津直隷第一女子師範に入学。17年、親が無理に嫁がせるが 挙式の席で婚姻の自由を演説して破談にする。20年、勤工倹学で留仏。23年に中共入党、地下党活動に従事。31 年逮捕処刑される。(戴偉『中国婚姻性愛史稿』十章1992.11東方出版社)
7 筑摩書房1993.5.30 p267
8夏暁紅『晩清社会と文化』湖北教育出版社2001.3 p259 9南武静観自得齋主人『中国之女銅像』(改良小説者1909)
10馮自由『革命逸史』第二集「鑑湖女侠秋瑾」(台湾商務印書館1943年)
11哈同(サイラス・ア-ロン・ハルド-ンSilas-Aaron-Hardoon 1849-1931)。ユダヤ人富商。清末民国期、上 海で威勢を誇った。洋行職員だったが1886年中佛混血児とか鹹水妹とか噂される出自不明の女傑羅伽陵を妻とし 哈同洋行を起こした。常に妻の助言を仰いで阿片売買と金融業、不動産業で巨万の財を成し、以後半世紀近く上 海に伝説と化すほどの栄華を誇った。羅伽陵は仏教を信仰し、烏目山僧黄宗仰に『大蔵経』の校訂刊行を依頼し た。1902年、革命団体『中国教育会』会員であった黄宗仰の要請に従い愛国学社及び愛国女学に資金提供した。
一方で、皇太后と義女の誼を結び、民国期には軍閥要人と交流を深めた。
烏目山人著『海上大観園』<62回未完>(上海東亜書局1924年。1934年10月上海中央書店から重印。1991年5月 上海古籍出版社から再版(重印版を底本とし呉桂龍<前言>を附す)は、羅伽陵(1864―1941)の存命中に書 かれた伝記小説である。作者は羅伽陵と雇用関係にある人物といわれている。そのため羅伽陵像は多分に美化さ れている。(拙稿「羅伽陵と『海上大観園』に描かれた螺螄―婚姻観の変化につれて」『野草』第62号 1998年
8月)
12王国維は1916年上海に来て羅伽陵に雇われた。小説『海上大観園』では王清如の名で登場する。彼は舅の羅振 玉にあてた書信に‘名誉すこぶる芳しからず…下等の人物’と書いている(『王国維全集』<書信>中華書局1984)。
13夏暁紅『晩清文人婦女観』(作家出版社1995.8)
14黄錦珠『晩清小説中の「新女性」研究』<文史哲大系186>文津出版社有限公司2005年1月)
15『吴趼人全集』第9卷p231
16(王俊年「呉趼人年譜」『呉趼人全集』第10巻p9、p61)
17『呉趼人全集』第7巻p306
18週刊『婦女新聞』58号(明治34.6.17)森井生「清国の小女傑」による 19秦孝儀主編『革命人物誌』第18集1978(民国67)年6月中央文物供応社
188
20馮自由『革命逸史』第三集「烏目山僧黄宗仰」1965(民国54)年10月台湾商務印書館
21上海図書館編『中国近代期刊篇目彙録』(以下『彙録』)(上海人民出版社1965.12)所載『中華婦女界』一巻五 期(1915.5.25民国4年5月25日)に「<図画>薛錦琴女士(美国芝哥大学畢業生)」とある
22週刊『婦女新聞』53号(明治34.5.13)景山事福田英「薛錦琴女に与ふるの書」内容紹介の但し書きによる 23蒋維喬「中国教育界の回憶」上海通社編『上海研究資料続集』(民62.6.25)中国出版社所収
24『蘇報』(1903.5.20光緒29.4.24)<學界風潮>
25『漢聲』[湖北学生界第七八月号合冊](黄帝紀元4394年6月朔日)<雑俎>[奴痛]「記薛女士」
26『時事新報』(明治34.4.4)(『新聞集成明治編年史』巻11所収)
27「少女の慷慨演説」週刊『婦女新聞』49号(明治34.4.15)に翻訳登載。
28同18
29週刊『婦女新聞』68号(明治34.8.26)「薛錦錦に与へたる書」春浦生
30景山英事福田英「薛錦琴に与ふるの書」(一)週刊『婦女新聞』53号(明治34年5月13日)、「薛錦琴に与ふる書」
(つづき)同誌54号(明治34年5月20日)
31『清議報』82(1901.6.16)(日)福田英子「致薛錦琴書」『女学報』第二年一期(1903.2.27光緒29.2朔日)「日 本女士福田英子致薛錦琴書」
32福田英子(1865―1927)岡山県出身。自由民権運動に参加、入獄。社会主義者となり「平民社」と交流、田中 正造と谷中村を支援。「社会主義同志婦人会」を発起し、雑誌『世界婦人』を発行した。中国革命同盟会機関誌
『民報』発刊にも尽力した。1904年『妾の半生涯』出版。(村田静子『福田英子-婦人解放運動の先駆者』岩波 新書1959年4月)
33『彙録』所載『留美学生年報』庚戌一期(1911.7)に「論徳育之必要」薛錦琴とある
34『彙録』所載『神州女報』月刊第二号(1913.4民国2年4月)に「図画教育部正長薛錦琴君肖影」掲載。
35『彙録』所載『中華婦女界』第二巻五期(1916.5.25民国5年5月25日)に「社会罪悪問題実地研究 狄波拉之
家族(未完)」(美)戈達徳著 香山薛錦琴女士訳、同第二年六期(1916.6.25民国5年6月25日)に同(続)
掲載
36孫元「南洋中学最早的女生」2013.2.16閲覧
http://www.nygz.xhedu.sh.cn/Dangan/printpage.asp?ArticleID=697 37呉礼権『中国言情小説史』(1995年 台湾商務印書館)
38清沈復『浮生六記』。自叙伝。六記中四記のみ現存。岩波文庫版(昭和13年)訳者佐藤春夫の解説にによると、
1877(光緒三)年楊引傳が蘇州の露天で作者手稿本を発見、上梓した。1923年樸社が愈平白の校点により復刻、
1980年7月人民文学出版社が愈平白校点本を復刻した。
189
39拙稿「恋愛描写と男女のあり方―清末民初の短編小説から」『一海・太田退休記念中国学論集』(2001年4月 30日 翠書房)所収
40民国に入ると『遊戯雑誌』(月刊。1913(民国2)年11月30日創刊。全19期を発行)、『礼拝六』(週間、1914(民 国3)年6月6日創刊。1916年4月29日まで100期を発行して停刊。1922年9月復刊。1923年まで100期を 発行、全200期で終巻)、『小説叢報』(月刊。1914(民国3)年5月25日創刊。1918年8月まで全44期を発 行)など、大衆的娯楽雑誌が相次いで発刊され、鴛鴦蝴蝶派と総称された。資産や詩文書画の技で生計を立てる 旧文人と異なり、新制学堂を卒業して勤め人となる新知識人庶民を読者層とした。
41樽本照雄「呉趼人「電術奇談」の原作」(『中国文芸研究会会報』第54号1985年7月)、「呉趼人訳「電術奇談」
余話」上、下(『清末小説から』第41号1996年4月、第42号1996年7月)
42 拙稿「呉趼人「情変」の原作について」(『清末小説から』第 62 号 清末小説研究会 2001.7.1)
原作は宣鼎『夜雨秋灯録』巻三「秦二官」。宣鼎(1832-1880?)は字子久、号痩梅。安徽省天長の人。
光緒三年(1877)、上海申報館より『夜雨秋灯録』出版。光緒六年(1880)、『夜雨秋灯続録』を死後に出版。清末、
広く流布し多数回にわたり翻刻された。『筆記小説大観』版は「秦二官」を未収。清・宣鼎著、項純文校点『夜 雨秋灯録』(1995.9)黄山書社版に収録
43呉趼人「説小説」『月月小説』第一年第八号「雑説」(趼)1907年5月(光緒三十三年四月望日)
‘吾前著《恨海》,仅十日而稿脱,…………。 然其中之言论理想,大都皆陈腐常谈,殊无新趣,良用自歉。所全书虽 是写情,犹未脱道德范围或不到为大君子所唾弃耳。’『呉趼人全集』第 8 巻p220
44婉貞の夢に現れる陳耕伯:
一个少年郎君骑着一匹白马,按辔缓行而来,打从婉贞身边掠过,对着婉贞定眼一看道:“咦!朱家表妹,为何一人在 此?”婉贞也定眼一看时,不是别人,正是自己朝夕纪念,名分已定的未婚丈夫陈耕伯。不觉心中又惊,又喜,又羞耻,又 惶恐,一句话也答不出来。耕伯早已翻身落马,又鞠躬问到:“端的表妹为甚一人在此?”婉贞此时心中梦如乱丝,觉得 有许多话要说,却又没有一句说得出的,好容易把一句话提到嘴唇边来,却不知怎样又缩了下去。便不由自主的扑簌簌 滚下泪来,犹如断线珍珠般,要收也收不住。耕伯道:“表妹想是受了委屈了。我这里左右有空轿子,就请表妹登轿, 先到我家再说。”说时便有仆人招呼,把一乘空轿子抬过来。婉贞此时身不由主,恍恍忽忽,便坐在轿中,轿夫抬起便 行。只见耕伯依然骑马在前先导。回视两旁,却又不是荒野之地,六街三市,异常热闹。婉贞坐在轿中,也自莫名其妙, 暗想:“我今番回来,父亲脾气向来是古执的,一时动气不理我,也不足怪。只是公公、婆婆,何以也不理我起来?公 公且不必说他,至于我婆婆,从前名分未定,一老亲称呼时,便十分疼我,一见了,便侄女长,侄女短,何等亲热!方才见 了我,就犹如没有看见一般,可见得从前亲热,都是假的。只有耕伯见了我,便那等小心怜爱,足见到底是夫妻情重,与 别人又自不同,也不枉我一向出生入死的代他苦守。等一会到了,少不得要把我一身所经的细诉与他,还不知他怎生 怜惜我呢。”一路上胡思乱想,耳边厢忽听得一阵鼓乐喧闻。自顾身上,穿的是凤冠霞阗。抬头看见轿前的耕伯,也是