いた『新石頭記』の再検討を試みた。
4)胡適との関係
論者は偶々『胡適之日記』を眺めていて、彼が
1910
年に生前の呉趼人を訪問し面談した 記述を見つけた*64。この発見により当時、呉趼人が胡適らと交流をもち、その周辺にいる上 海の革命派青年と接触していたことが明らかになった。その事実は、「上海遊驂録 」への否 定評価に対する反証となると思われる。3)と4)の新事実に拠って検討することで、思想面において解放後に徹底して批判され
た二篇の小説「上海遊驂録 」及び『新石頭記』についての再考が可能となった。論者は、従来、呉趼人の失意に伴う‘厭世’から陥った思想的‘落伍’の表れと評されてきた二作品 の“政治的、思想的”再検討を試みた。
註
1山西人民出版社(1981.6)
2百花洲文芸出版社(200.4)
3 最も著名な刊行物は1857年発刊の『六合叢談』である。1868年9月5日、週刊『中国教会新報』となり、さら に『教会新報』と改名、第301巻まで発行された。1874年月刊『万国公報』と改名、広学界機関報として1907 年12月まで続き、第750巻第237冊を出して停刊した。
4『清末小説』第13号(清末小説研究会1990.12.1)
5「清末民初小説のふたこぶラクダ」『野草』42号 中国文芸研究会1988.8.1 p32-33)。
6中村忠行には8編の論稿が認められる。樽本照雄には『初期商務印書館員研究』(清末小説研究会2004.5.1)『商 務印書館員研究論集』(清末小説研究会2006.12.15)の専著がある。
7「商務印書館と夏瑞芳」『清末小説研究』第4号1980.12.1 p474)
8張元済(1867-1959)、字菊生。浙江省海鹽の人。1892年進士に合格。1892年通芸学堂を設立。1898年光緒帝に謁 見、上書建議したが戊戌政変により罷免、学堂は閉鎖される。上海で「南洋公学」訳書院院長を務め『外交報』
を創刊。1901年より商務印書館の経営に参画する。(『張元済年譜長編』2011.1上海交通大学出版社)
9蔡元培(1868-1940)、字鶴卿。浙江省紹興の人。1890年進士に合格。1892年翰林院庶吉士。1894年編集に任じ られた。1898年変法維新運動に共感し、1901年辛丑条約締結後は革命思想に傾注し、章炳麟らと共に「中国教
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育会」、「愛国学社」を設立運営した。1904年「光復会」を組織、中国革命同盟会に入会した。1907年ドイツに 留学し哲学、心理学を学んだ。辛亥革命後は教育総長に任じられ、教育関係、国民党関係の要職を歴任した。(孫 常煒編著『蔡元培先生年譜伝記』国史舘 中華民国 74 年 6 月)
10厳復(1854-1921)福建省候官の人。福州船政学堂に学ぶ。1877年英国に留学。1897年天津『国聞報』創刊、変 法を唱える。1902年、京師大学堂編訳局総弁。1905年馬相伯とともに復旦公学を開学。『天演論』、『原富』等を 翻訳、商務印書館より『厳訳名著叢刊』を刊行した。
11鄭孝胥(1860-1938)福建省閔侯県人。字、蘇戡。号太夷、海蔵。1882年挙人に合格。1891年日本東京副領事、
1893年神戸、大阪領事。日清戦争で帰国、張之洞の幕下に入る。京漢鉄道總弁を勤める。
12蔣維喬(1843-1958)、字竹庄。江蘇省武進の貧窮文人家庭出身。父親は弱年で学業を中断し肉体労働で一家を養 った。独学で秀才に合格、郷試に受からなかったが、成績優秀で南菁書院に入り古典を習得した。1901年、高等 学堂に改組した同書院で新学を学び、革命思想に心酔した。1903年、蔡元培の要請で章炳麟とともに「中国教育 会」、「愛国学社」に参加した。辛亥以後は教育部や大学で教育事業に携わりながら、仏教研究に傾倒した。(『民 国人物誌』第5巻)
13中村忠行「清末文学研究時評」『中国文芸研究会会報』第54号1985.7.30 p4-6
)
14『繍像小説』第1期(1903)から72期(1906)に連載。第39回まで李伯元、40-42回を呉趼人、43回を欧陽鉅元が 続作し中断)
15生卒年未詳。 “上海で酒色に溺れ落魄し性病で客死”という通説がある。樽本照雄「欧陽鉅源の落魄伝説」(『清 末小説』第16号清末小説研究会1993.12.1)によると(1882?-1907?)。本名欧陽淦、鉅源は字、鉅元、巨元 とも記す。筆名茂苑惜秋生。落魄の通説は誤りであるという。
16「『繍像小説』の刊行時期」『中国文芸研究会会報』第55号1985.9.30 p6
)
17『繍像小説』第6期―20期に連載、未完。
18生卒年未詳、筆名は憂患余生。
19郭長海「呉趼人雑爼」『清末小説』第16号清末小説研究会1993.12.1) 20「商務印書館と夏瑞芳」『清末小説研究』第4号1980.12.1 p118)
21曾少卿あて書信は1905年7月15日を最初に全三通残っている。『呉趼人全集』第8巻所収。
22中国社会科学院経済研究所主編 上海市工商行政管理局 上海市工商行政管理局 上海市第一機電工業局 機器工業史料組編『上海民族機器工業』(中華書局1966年2月)
23「近十年之怪現状」(20回未完)は別名を<最近社会齷齪史>という。1909 (宣統元)年から『中外日報』に不定
期で連載。1910 (宣統二) 年単行本で出版。『呉趼人全集』第三巻版を使用。
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24 拙稿「小説家呉趼人の出発点」(関西大学『中国文学紀要』第15号 1994年3月)に同記事を発見として引用、
紹介した。しかし発表後に王立興が、「呉趼人与『漢口日報』―対新発現的一組呉趼人材料的探討」(『中国近代文 学考論』1992.11 南京大学出版社)にすでに紹介していたことを知った。内容は異なるので、発見の謂いと記事 引用部分のみ削除して収録した。『蘇報』記事は、中国国民党中央委員会党史史料編纂委員会藏本『蘇報』中華民 国 57 年 9 月 1 日影印初版中央文物供応社版による。2015年3月改稿
25張之洞(1837-1909)字孝達。直隷南皮(現河北省)の人。15歳で挙人に合格。1853年より十年間、貴州知府の父 や河南巡撫の従兄に随い太平軍、捻軍鎮圧に加わる。1863年進士に合格、翰林院編修。1881年山西巡撫、英国 伝教師李提摩太Richard,Timothy)を顧問に科学技術の知識を得、洋務局を設立して人材を求め、外国兵器を買 い軍備を整えた。1884年兩広総督。中法戦争を機に洋務色を強めた。湖広総督、両江総督を歴任し、1907年軍 機大臣。湖北に二十数年余、新政を敷き、鉄鋼業殖産、新式軍隊養成、新式学堂創設に勤めた。
26汪康年(1860-1911)。字穣卿。浙江省銭塘の人。光緒18年の進士。張之洞と懇意で洋務官僚の庇護下に新聞事 業に携わった。『強学報』から始まり『事務報』、『昌言報』、『中外日報』、『趨言報』等を創刊経営した。1897年 譚嗣同、梁啓超らと「戒纏足会」を発起する。1901年、1903年に「張園拒俄演説会」を招集する。(汪詒年編『汪 穣卿(康年)先生伝記・遺文』(文海出版社 民国27年7月)/沈雲龍『現代政治人物述評』「梁啓超与汪康年」
(文海出版社 民国27年7月)
27梁啓超(1873-1929)、字卓如、号任公。広東省新会出身。1895年より康有為とともに政治改良運動に携わった。
戊戌政変以後、『新小説』を創刊し小説界革命を主唱した。
28章炳麟(1869-1936)、号太炎。浙江省余杭県出身。兪越の門下に学び経学、史学、文学、音韻学の造詣深い国学 者として知られた。反清民族主義思想を醸成し、1896年『事務報』創刊。戊戌政変以後台湾、日本に逃れ孫文と 知り合う。1903年「愛国学社」教員、『蘇報』論客となる。(王雲五主編 章炳麟撰『民国章太炎先生炳麟自訂年 譜』(台湾商務印書館中華民国69年7月)
29黄遵憲(1848-1905)、字公度。広東省嘉應州の人。光緒2(187 6)年の挙人。1877年10月駐日本外交師団で来日。
『日本国志』完成。1882年米国カリフォルニア総領事。華工の待遇改善に尽力。1895年『事務報』創刊。
30「上海強学会章程」(『強学報』創刊号1896年1月12日)
「『強学報』影印説明」(『強学会・事務報』中華書局影印版1991年9月)
31『事務報』1896年8月創刊。発起人は黄遵憲、汪康年、梁啓超らで、変法維新を鼓吹した。
32その具体的情況は、北岡正子「留学期魯迅関連史料探索」十四~二十回(『中国文芸研究会 会報』82~84、92、
95~97号)に詳しい。その中で張之洞は‘清末政治史上における「中体西用論の立場に立つ開明派」(18回)’
と位置付けられている。(中国文芸研究会1988.8-10、1989.6、1989.9-10)
33「『昌言報』影印説明」(中華書局影印版『昌言報』)
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34『清議報』1898年12月日本横浜で創刊出版。梁啓超主編。戊戌政変後、保皇会を設立した康有為とともに君主
立憲を宣伝した。1901年12月停刊。
35『中外日報』1898年5月創刊。汪康年が洋務派官僚の支持下に刊行。
36端方(1861-1911)1901年湖北巡撫、1903年湖広総督代行、張之洞と共に梁鼎芬の後ろ盾となる。張之洞の意を 受けて、小学校や師範学校を設立、湖北に中国最初の幼稚園や図書館を作った(『清史稿』列伝259<端方>)。
37李鴻章(1823-1901)安徽省合把の人。1839 年の進士。曾国藩の幕下に入り軍務に携わる。1870 年直隷総督、北 洋大臣。(『清史稿』列伝198<李鴻章>)。
38郭廷以編著『近代中国史事日誌』(中華書局1987.5)
39『蘇報』1903年5月6日
40「<各省記事・湖北>彙記梁鼎芬近状」(『蘇報』1903年5月21日)
「革除排俄学生」「一門奴隷」(『国民日日報』1903年7月)
「梁鼎芬未載之梁鼎芬」(『蘇報』1903年7月6日)
「湖北学生之危機」(『国民日日報』1903年9月29日)
41『蘇報』の論客鄒容(1885-1905)が1903年5月革命宣伝冊子「革命軍」を出版、『蘇報』は誌面に紹介し該書を
宣伝した。6月官憲は、章炳麟と趨容を逮捕拘留し『蘇報』館を封鎖した。『蘇報』事件
42光緒28(1902)年、蔡元培、葉瀚、蔣維喬、鐘観光、黄宗迎らは教科書、叢報を刊行し文字による革命を鼓吹
しようと、「中国教育会」を結成した。章炳麟、黄宗迎、蔡元培、呉敬恒らはさらに学校を自主運営する目的で「愛 国学社」を創立した。(孫常煒編著『蔡元培先生年譜伝記』国史館 1985年)/方漢奇『中国近代報刊史』(人民出 版社 1981年6月)p233/湯志鈞編『章太炎年譜長編』(中華書局1979年10月)/馮自由「中国教育会及愛国学 社」(『革命逸史』二集所収 台湾商務印書館 1943年所収)
43柳亜子らを中心に民族精神発揚を意図して結成された文芸組織。1910年詩文雑誌『南社』出版。辛亥革命前に4 期出版。辛亥後22期出版。社友の多くは「中国革命同盟会」会員であった。
44周桂笙(1873-1926)、上海の人。名は樹奎、字桂笙、号新庵、莘庵。筆名知新室主人。幼時、上海広方言館で 学んだ後、上海中法学堂に学び、フランス語を専攻し、英語も学んだ。卒業後、天津電報局、上海英商怡太輪船 公司に勤めながら、西欧小説を翻訳し、『采風報』、『寓言報』、『新小説』、『月月小説』等に発表した。外国小説 翻訳草創期からの翻訳者で、社会貢献、原作からの翻訳、原典の明記、白話での翻訳等を主唱した(鄭逸梅『南社 叢談』上海人民出版社1981年2月 p78)。
楊世驥は「周桂笙」で以下のように証言している
わが国に初めて西洋文学を紹介した人を話題にすると人はみな林紓だと言い、周桂笙が林紓より早かったとは 夢にも思わない。それが今となってはもはや記憶する者もいない。周桂笙の翻訳は質量では林紓に及ばないが、