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言を聞いたのは︑モ l セだけである﹂と ︐ 且つ﹁預言 者 とは︑幻の 中に於て︑天使が語りかけるのを見た人である﹂と︒ ェゼキエ ル書を読むときに︑預言 ロと幻 とが︑一つに
成 つているの
を 見出すが︑之は預言者として異状な境地に到達した 存在ではなく
七二
中国民衆の倫理 吉
﹁ 功適格﹂について
吉岡 義豊
明大の高僧蓮池大師 株 宏は功過格を善退路とも自知 録 LL も甘口 つ十 Ⅰ
み る ︒功は善であり︑過は悪であるから︑ 功適 格 は善 悪絡 であり︑
善悪行馬の自知 鉄 である︒
中園では 陽法陰 律の語で示されるや 5 に︑ 陽法は 農政 者によって
ゑ認 設定せられた所謂法律であり︑ 陰 律は個人の道徳 的 生活を規定
する修身持戒のための戒律で︑これが 即 ち 功適 格であ る ︒即ち陰徳
あれ ば 陽報ありといふ場合の陰徳を規定するものが 功 適格であるっ
故に 呂祀 十戒功適格 序 には︑
陽 律は多く述を論ずるが故に甚だ 疎 なり︑
陰律 はただ心を論ずるが故に甚だ密なり︑
など ム 説明して︑劫濁格の根木精神を明示してある︒
一 一
道蔵 洞眞部 に収録されてゐる﹁太織佃君功過 格 ﹂は ︑ 現存功過格
類書中最古の文献である︒その序文によると︑金大宅 十一年︵一一
七一︶に 夢告 によって作られたことになってゐる︒ そ の 著作場所が
金の統治地域であったことは 言ふ までもない a ヒれ が 太一教者流の
手に出づるものではあるまいかといふことは︑その内 容 より類推さ 手 @
340
Ⅰ @ な
れることである︒ 道 蔵 本に次ぐものは雲谷 譚師 の博大である︒雲谷 譚師 は 万暦二年 ぎい ︒功過格が眞に民衆の倫理 書 として考へられるの は ︑この二人
を 起点として︑その以後のものについて言へることで あらう︒これ は又 万暦以後の中國の政治思想や社会経済界とも表裏 相即の関係に 於て考へるべ き ことで︑了見︑ 件 宏の個人的能力のみ を 一方的に過 大許慎することほ 肖 らない︒ 功 適格は清初に於て完全なまでに整理分類されたも のが出現し た ︒ 先づ ︑康煕十年︵一六七一︶に尾山庫主潮 振安か 編輯した﹁ 彙 編 功過格﹂は ︑担ひ 手を一般民衆において作った最初 の 最も完備し たものである 0 康煕八年に着手して稿を改めること 十 受 ︑三年を費 して同十年に完成︑完成後四年にして始めて板に起し て 刊行した︒
最初は宝 礁欺 ︵江蘇 省 ︶の 隠 直堂 に 板木を置いて印施 した︒次に 雲
研究報
苫
間妊義
格 分類 「立命 (一七二 「功過 作成地 出来な 諸本中斎
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初学
所 名 の 等の功 大功過 夫々の 初の彙よい。
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241
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た一連の善書を総体的に取上げる必要がある︒ 私はこのや 5 な 問題の場面の特に心理的連関を辿って みたいので
例場 には
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標題のや う な問題を私は辿りたい︒
丁度都合の ょい 作業仮説を マサノ ウスキ l が提案して き る ︒それ
はか ぅ である 0 ﹁如何にもならぬ時の︑また︑極端な 危険や不安に
際しての︑人間の身振りや表現が呪術等の儀式の表現 と 近似してを
る ︒で社会的 博統 的な呪術の起源は︑人間の危機の状 況に 於ける
﹁自然発生的な﹂ 適 照の処置と同じ根源であら
こ
と い ふ のである︒機能主義の一方の代表者だつた彼の呪術や宗教に関 サ る 議論はよく 知られてを る 通りであるが︑数年前に出た彼の遺稿 集 では 謂 ゆる きき 日 e の一般的理論を明らかにしてを る ︒即ち﹁制度 的祀会 ﹂︐に 於
て 存在する生活体の基礎的 ニ ー ヅ ︑派生的ニー ヅ の 環 境 ︐マリノ
ウスキーによれば環境は即ち 0 白 き目のであるが そ の 環境に対す
る ada づ ︵ り ︵ @op といふ問題の場面を詳論し ︑ 且つ科学と 呪術及び宗教
をもつ て ニー ゾ を充足する際の統合的要件 却ぢかコ ︵の 窩 まぢ ︒ 俺 9 缶 田と
なし統一原理として︑夫々に位置づ けて を る ︒ 宗教でぼ︑三教室と名づける会堂を所在に持つて ゐて ︑一年の四季
には教徒を会して︑その修行の状態を査証し︑ 各堂所 属の代表教徒実際の場合には︑限界的な危機に 於て初めて宗教や呪術に入るの が 冬至に会合して︑ 衰了 凡の立命篇や蓮池大師の自知 鉄に臆 して︑ではなく︑社会的慣習的に定められ てな ろ 制度的な呪術や宗教に入
って呪術や宗教の生活を行 ふ のであるが︑宗教の意味 を 見るために & 徒の功過の判定をした︒
七四
た ︒ 各堂 によって異本功過格を所持して る たことは︑ その 堂 中心の 教化活動が徹底して る たことの証左である︒書堂では 善 挙を興すの
限界的状況に於ける宗教的 適礁
が 常である︒ 善 挙は慈善事業である︒