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研究報告
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279
ウパニシャッドの中では︑一般に︑アイダレ l ヤ︵初期 ︶︐ブリ ハ
ッ ドアーラ スヤカと チャ l ソド l グヤ ︵第一期及び第一 一期︶︑カウ シ
|タキ ︑タイチリ ーヤ︑ケ 一々︵第三期︶などが︑ 古 代 のものと 認
められておる︒私は ︑ 鼓では︑この古代と言 う 意味を ︑学者によ つ て ︑ 佛陀 出世以前の資料と見られているものに限って ︑此等の資料 にあらわれた﹁般若﹂︵ 弔ヰ 古村︶の思想を研究して見た いと思 う ︒
一
古代ウパニシャッドの重要な思想は︑第一に ザヱ l ダ の 末期から 唯一絶対な 創浩 主にして不死・金管全能の神様として 崇拝されて 来 た梵 ︵車キ ヨ豊 ︶と︑ 此と 同等同質の内容を附興され るに至った 我
︵ 里ョ主 ︶とが︑不二であること︑ 即 ち雑載不二論を説 くこと︑第二 に ︑ 被 道者であり︑共に沈み︑輪廻 轄 生する苦キ個人 も ︑その学習 とヨ l ガの修行等によって ︑梵 となること梵に帰する ことが出来る こと︑第三︑其の学習修行の中︑﹁我は梵である﹂︵ 牛 笘 H 月サ れ Ⅰ ツギツ串 や 傍臣︶﹁それが汝である﹂ 2 粒 才りロ ︶ 勘 ︶の二大格 語 の 義を知るこ とが︑最も重大であり︑これによって ︑ 即ち﹁知るこ とは成ること である﹂の義を明すること等︑にあると言ってよいで あろ 50 斯の
一一一 古ク バ ニシャ グド に於ける﹁般若﹂の研究
義雄
西
一
如く︑ 梵 我の本質を知りて 梵 となれ ば︑吾 々は其の輪 廻から 解玲す ることが出来ると云われ︑不死なる 祀 となり︑一切な % り 一切とな
鞍 で︑私が問題にんたい点は︑﹁知ることは成ること であるしと 云われる︑この﹁知る・ことしとは︑如何に知れ ば︑梵 となるのか︑ という︑この﹁知る﹂ことの︑具体的の意義に就いて である︒﹁ 知 る ﹂ことが﹁成る﹂と言 う ﹁成る﹂の意味は ︑ 五ロ々
の 要請としては 吾 々が 梵 我の本質を知ることによって ︑ 梵の如く ︑絶 村老金管全能 的 支配者として︑﹁現に在る﹂ことに﹁なり﹂たい︑ と 言 う ことで
常識に於て ︑ 里に理解して知るとか︑弁別して知ると か ︑ 見 ・ 聞 ・ 思 ・知によって知るの﹁知る﹂とは︑ 異る 意義の・﹁ 知 る ﹂でなけれ ばならない︒﹁しかには非ずしかには非ず﹂と言われ るものである からである︒此の区別は︑多少︑ウパニシャッドの 思 想を学習する ものに取っては︑直ちに反省さるべ き 点であろ 5 ︒ 勿論︑それには︑ 吾 々個人中に存在する内側者︵ 豊寸 Ⅱ せ刈 Ⅰ ‑‑@ 臣 ︶ を 知るべしどか︑不滅︵ キゅ賎 じを知れとか︑最上の方 ョ ps ︶によって我を認 得 すべぎである︑即ち意を制して 法は︑意 ︵︒︒︒︒ 大我︵ ︐づ臣 5, ︵ ‑n 茸 ︶を知るべしとか︑意を制するに ヨ ーガ︵ 甘 ︒ 偲 ︶ の方法に よ る べし︑とか教えられてはいる︒其の外に︑ 梵 我の本質 の 知り方に就 いては︑既に学者によって種々説述されている︒然し 私が鼓で︑ 主 として注意したいのは︑原始 佛教 資料中にも︑無数に 説かれ︑且 つ
コ︐パ ‑ ︑ ・ り︐ ‑.‑". ﹂︑⁝・ ︑バ ・ ‑ :::・・・:・・⁝︒・ ︐ ‑. ︑ ・・・ ︑︐一一一一
ね ︑如何様に見られているがを︑検出して見たいと 思 ぅ のである︒
この般若の研究が︑やがて 亦 :﹁成る﹂ために﹁知る ﹂ことの︑
従来︑余り注意 さ ・れていなかつた一面をも明かにする であろうと 思
ちからである︒ 一 一 一
古代ウパニシャッドに於ける﹁般若﹂に関する記述は ︑ 決して 砂 しとしない︒実はその余りに種々 な 説述が存するので 一貫した
﹁般若﹂の意義を把握するのに︑困難を感ずる程であ る 0 しかし 又
それだげに︑此等の間に ︑ 何かの統一的意義を見出さ んとする強い
傾向も認められないこともない 0 鞍に ︑ウパ ニシャ ッド に於ける
﹁般若﹂研究の償値も存するのであると 思 5 ︒
古代ウパニシャッドに於ける﹁般若﹂に関する記述の 全体を ︑此
の 外報告で列挙し批判検討することは︑到底︑許され ない︒故に ︑
鞍 では︑其の注目すべ き 点を大体︑五種類 位 に分類し ︑その中の 一 三の例を︑綱要 文 ︑引証するに留めたいと 思 5 ︒ 即ぢ 第一︑﹁般若﹂を以て ︑吾 々の一般常識的見聞愚知 と 異 った作用︑
性質の有するものと晃モ即ち最高実在たる絶対者 梵 我 を認得して 梵 となるに必要な 窩 れた徳性・作用を︑綜合的に有す る 特殊 智と見 んとするもの︒ 第二︑明かに 梵我 の調律 と梵我に 成る ズ ︑不可欠のも のと見てい
るもの︒
280
第三︑凡ての認識及 び 活動の諸機能の全体を包み︑全体 を 導引し ︑
全体の支配 力的 主導力を有するものと見るもの︒
第四︑﹁般若﹂を﹁ 我 ﹂︵ 舘 : 苫 ︶と結合させ︑般若 我 ︵ せ ︒ ゑ齢 d.
日田︶として説述するもの︒
第五︑﹁般若﹂を其の他の認機能と共に︑ 祀格 として 見 んとする
もの︒ である︒
第一の︒﹁般若﹂を以て︑ 梵我 を認得し 梵 我と成るに 必要な理性 及び行学の綜合 待 として 見 んとするものに就いてほ ︑ ブリ ハソ ドア
@ ラ スヤカ ・ ウパ ニシャツ ド四︑ ︵ 四| 十︶に︑ヤ l ヂ 二ヤ ダ ルルノ Ⅱ
ヤ 仙がジ ャナヵ 王に説く頸丈と長行文の申に ︑
﹁若し彼が自我を知るを得て︑われは 是 ぬなり︑︵ り Ⅱ り︐ コり 口占 p ︶ と する人なら ぼ︑ 何を求めんとて︑又︑何を愛せんとて ︑肉体︵ 糾︐
出 ra ︶にあくせくすることがあろ ちか ︒︵十二︶
︵肉体中に︶潔く 藏 くされ︑中に安住している自我を徹 見し︵ 費 ・
口づ @ 夢ご 自覚したもの︵ 憶善 ぎ目 ぎ ︶ ︑ 彼は︑浩一切者︵ づ @ ﹁ め ︒ り下 ︵の 雙 ︶
である︒何となれば︑彼は一切の作者てあり︑諸の世 界は彼のも
のであり︑彼は世界そのものである︵︵ 田遥 ‑o ガ ah ︒宮口 ‑0 カ リ ゅづ笘 ︶︒
︵十三︶
正しく 比 世に存在しながら︑省︑苦ヰ は︑ 此を知り得 る ︵ ゃプ りぎり
ぬ費 ︵ 0+ ︵ ゴいつ @p ロ ︶ 漣 dp& ︶︒⁝⁝正に比自我を知る人々 は ︑不死であ
る ︒これ以外に於ては︑彼等は苦︵ 音コカダリ ︶に行くのみ ︒︵十四︶
生気の生気︑眼の眼︑耳の耳︑意の意を知れるもの︑ 彼は太初の
研究報告
一一一一一梵を観察したものである︒⁝⁝︵十八︶ 比 自我は唯一にして不可量︵ り笘胃ミ燵 ︶ 常恒 ︵ ロ ゴⅠ 宙 ︒ ら であり︑ 虚 室外にあり︑離垢
?ぎ甘 ︶不生︵ と り︶偉大︵ ョ ︶ りゴ卸 ︶ であり︑ 常
建立せんと する︒多くの諸声︵ 絆 在り︶を 随慮 するこどからでは ない︒ 多屯叫 ︵一一十一︶ はた 丈 その疲労を招くのみであるから この自我は偉大官あり︑不生であるが︑こは 此 生気︵ 唱曲 寒 ︶の中 では︑ 識所或 ︵ 立窩 ぎり ョ雙 ︶ ジ ︶であり︑こは心臓の塞 間の内部に あって︑ 某 中に安息し︑一切の自律者︵㏄ 銭 ︒己 で ︶であり︑
一切の支配者︵ 廣 : 巴潟紛昆 ︶︑一切の主宰者︵の弟鼓 冶 ︐ナ 如才 @ つ め ま ︶ である︒彼は善業によっても偉大とならず悪業によ つ ても 劣小と ならない︒・一切の自在 主 ︵の年 4 し な埠り ︶である︒ こは 有情の主宰 者︑有情の保護者であり︑こは 又 ︑此等 無 統合なる 世 界の制約 保
︵自我︶を つて︑知ら ︑ んと欲する︵ 4@ づ @ 宙 @ めり ロ d@ ︶︒正に此を知って ︑ 彼は牟尼 ︵ コ ︶ 目 @ ︶ と なるのである・・・⁝︒ 此 自我は︑ 唯 ︑さに非ずさに非ず ︵ 臣 0 ヰ @ 臣め珪 @ ︶ であり︑不可得である⁝⁝︒︵二十二︶﹂と︒ 以上︑引用文中︑長行文では︑一般パラ モソ の修行方 法 である ゴ l ダ修習や乃至︑断食等によって自我を知ろ 5 ︑とす る 旨を説いて