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その後天台などでも小乗の﹁さとり﹂を﹁ 友身滅智 ﹂ と 許したこ
とについて︑これを﹁阿毘達磨文学しの観点から見る とぎ は ︑即 ち 部 派の説いた﹁さとり﹂といふ観点から見ると ぎ は ︑ 当ってみない のである︒何故かと言へぼ︑阿毘達磨文学は︑原始 佛 教の精髄であ る 八聖道のこころを 受 げついで︑その﹁さとり﹂を説く に 当つても︑
八聖道の正見︵ 紹 日日 掠 Ⅰ 温窩 ︶によって示さんとした ものを見道 ︵ し貰悶豊毘 ︶ 柑ャ窒 ︶といふ言葉によってあらはすのが 阿 毘蓮磨 文学の はじめの煮合であり︑またそれを充分あらはして るた からである︒
このことは阿毘達磨文学を平面的に取扱ふかはりに︑
︐ ﹂仰文学が数 世紀に 亘 つて生成繁茂した跡を︑発達の過程に於て 見 るなら ぼ 首肯 し 得るのである︒ 極めて大づかみであるが︑少くとも阿毘達磨文学を三 期 に分けて 見るなら ぼ ︑第一期の花のは法難定論︑集異聞 足論 ︑︵ づ @ ヴす ㏄ か ㏄ よ Dha 日日 9 ものり 申 @ ︒の外に舎利弗 阿毘 暴論をも加へてよ いであら う ︶ であり︑第二期では 発智論 ︵ 婆沙 ︐品類 足論 はこの内 に入るであら ぅ ︶であり︑最後に第三期のものとして︑ 阿毘 憂心 読 系 ︵ 心 論︑心 講経︑ 娃 心読︶があって︑倶舎論もこの内に数へられ る ︒ さてこの第三期のものに於て︑その﹁さとり﹂の内容 が ﹁ 友身滅 智 ﹂と批評せられたとしても︑その以前の阿毘達磨に とって︑また 阿毘達磨の発達途上に於て ︑かぅ した理想に向つて 進 んで めたと 言 ふことはできない︒何故なら ぼ ︑河鹿建暦 は 阿舎の 諸
要素を分析
し ︑研究し︑総合するために︑実在論的傾向をその 上 場 とするや 5な 傾きも見られはするが︑経の説くところの教へを 実 践に う つしそ
研究報告
れによって ︑ ﹁さとり﹂といふ究極の目的を見失って はゐな かつたからである︒即ち原始 佛教の ﹁さとり﹂を如何にして 実現するかと い ふことが第一の目的であった 0 そのことは︑第一期 ︑第二期の論 書を見れ ば 直ちにわかることである︒ 即 ち第一期の論 書が ﹁学地﹂
を 第一に取り上げてゐる点と︑第二期の論書が﹁さと り ﹂に入る直 前の ﹁ 世 第一法﹂に重点を置 き ︑この研究を最初にし てゐる点︑ こ ね らから見て︑見道といふ やう な聖者の位に入ること に︑ 最も カ が 注がれてゐたことがわかる︒たまたま第三期に於て論 0 組織といふ ことが重規せられるに至って︑以前の意 企 をかくす や う になったこ
とは否定し得ないにしても︒ 一 一 一
そこで阿毘達磨文学が﹁さとり﹂の過程として提出して るるのは︑
すでに第二期に於て確定した見道・修道・無学道とい ふ︑い はゆる 三道である︒八聖道を説くこと極めてまれな阿毘達磨 は ︑八聖道と いふ 言葉を取り上げる代りに︑その内容も八聖道とい ふ 言葉ではな く ︑三道といふ名前で説くや う になってめたのである 0 如何にして さう いふことが言はれるかと言へぼ︑原始 佛教と︑更 にさかの ぼっ
て釈賛 在世時代のことを想起すれ ば よい︒
四
根本 佛数 に於ける﹁さとり﹂とは如何なるものであ っ たであら 5 か ︒これをつづめて言へぼ︑四諦の理解と言っても 誤 りではないで
あらう︒四諦の理解とは何かと言へぼ︑八聖道の実践 と 言って大抵
はないと思はれる 0 そこで八聖道の実践となると︑ 新 八 者と 永 く 教
九九 26
面 で修養を重ねたものとに﹁ひら ぎ しがあることを 認 め れば なるま
い 0. だが釈尊と新入の弟子との間に於て︑また釈尊 と 最高位の弟子
との間に於ても︑ い づれも八聖道の実践といふ﹁ ラチ ﹂の外にある
といふことは 言ひ 得ない︒新入の弟子も︑最高位の弟 子も ︑ 師たる
釈尊も︑八聖道の実践といふ ︐ 点に於ては変りほない︒ しかもその実
貿に ﹁ひら ぎ しがあることも認めれ ば なるまい︒ここ で 正見だけを
取り出して見る︒此の場合︑ A 新入弟子︑ B 高弟︑ C 師の三者につ いて事実上の差があることは︑何人にも首肯 し 得られる ほ ずである︒
但しいづれの場合に於ても﹁さとり﹂に通ずるものが 含まれてゐる ことに於ては一様である︒ただそれが具体的に完全に 達してゐる か ど ど 5 5 かに問題があるわけである︒阿毘達磨はこの点を かに於て ︑即 ち日常のすべてのことがらに 行 ぎわ
道 ・修道・無学道の三とする必要に迫られたのに外な らない︒
かぐ 見るとぎ阿毘達磨が後に﹁ 友身滅智 ﹂と批評され た 如 き︑か
や 5 な方向をめあてに出発したのではなかつたことは 擬 ひないので
ある︒
五
かくして部派 佛教 としてほ﹁さとり﹂の系譜を守った 憶 ずであ っ た ︒ここで先に八聖道を阿 毘津 磨は説かなかつたと 言 つ たが︑﹁ 皿か 漏行 あると ぎほ 道諦なり﹂︵大正蔵二八・八二七 申 ・ 八六一正︑九 三六丁︶などと 言ふ 句が見えるのは︑ 部派佛教 の 眞意 を 5 かがふ に
足る志のと言へる︒
何見達磨の三道が上記のやちな道に於て成立したとす れば︑ぃは
ほできない︒声聞道として︑後に大乗から区別する 立 場からほ ︑後 者から批難される対象となってみ る ︒しかしその本質 を 検討すると き
︑
佛 教本来の眞意を受げつぎ︑実質的には︑次の時 代に 栄えた 菩 薩道 の一部に 括寂 されて︑大乗の中に生命を保つこと になったので ある︒その道こそ﹁正見の道しであった︒大乗 佛教の 中に 博 へられた 正統の血液は上座部等の脈管を通 適 しないで現れた ものでほ な く︑ 更に阿毘達磨に 参 興した 楡 他行者の努力が︑大乗 佛教 のために
も︑ 決して無益でたかつたことが知られるのである︒ 一 OO
/・ 、 1V
方丈記の宗教性について 若山俊抜
方丈記 は 普通に宗教文学と考えられているが事実そこ には佛教思 想 が著るしく見られる︒しかし︑それらの思想を長明 は 如何様に観 臆 していたかを探ってみたい︒ 長明の生涯に就いての資料は断片的で詳らかにし難い が ︑文献に よ れ ば 父祖 は 代々 鴨祀 の 癩宣 として仕えたが︵ 鴨懸 主家 伝 ︶ ︑ 彼は早
家集︶︒然し ︑ いろ ノ Ⅹ慰める師友︵賀茂軸元︑中原 有要︶もあっ て ︑やがて和歌に精進しては和歌所寄人ともなり︑ 新 古今集にも 勅 撰される程であった︵士官︶︒彼が 藝 道の才能 は 歌道 は かりでなく︑
音楽にも優れた才能を持つていた︵文机 談 ︶︒それだけ に人のそね み も 多く︑一時の座興にも非難され︵所謂秘曲︐事件1 @ 文 机談 ︶ ︑或い ほ又後鳥忽 上皇の禰宜推挙の御忌 召 にも︑従兄 弗兼に 邪魔されるの であった︵家長日記︶︒されば 鰯宣 推挙の内示に涙をこ ぽ さん ぼ かり に 喜んだ長明の失望は大ぎく ︑ ﹁いづくにありとも ぎ こへで世にか くれし︵家長日記︶たのである︒方丈記に﹁を り ⅠⅠの たがひ めにお の う から 短ぎ 蓮をさとりぬ﹂と述べているのは恐らく 之 等の事件を
指したものであろう︒長明の隠遁の原因はか ムる 世俗 曲事件に拠る 研究報告 ものであったろ う ︒而してか ムる ﹁ たが ひめ﹂は 畢寛 ﹁身のおとろ へ ﹂に基因するものであった︒長明が﹁身のおとろ へ ﹂に因って 隠
遇 しているのは︑浮世の日常的なものに心引かれて いたからであ る ︒而して賛しぎ人の心の悩み︑貧しき人の世の住み 難さは︐ かム るものからの回避として隠遁したのである︒長明はそ の 隠遁生活の ノ 有様を述べるに当つて︑﹁すべてかや 5 な事︑楽しく 富める人に対
してい ふ にあらず﹂と自らことわっているのは富める 人への反感を 示すものである︒更にほ ︑ ﹁ た やわが身一つぼとりて 昔 と今とをた くらぶる ぽ かりなり﹂と云い︑或いは一間の方丈を俘 世の佳いと 対 比している事︑住まずして誰かさとらむ﹂と隠遁生活 を 心から礼讃 している処に隠遁生活の不純さがある︒この事は念々 の 思いの中に 浮世があった事を意味し︑浮世に強い執着をもつてい た 事を示して いる︒ かムる 浮世に執着する人間長明には︑冒頭に 云 う ﹁行く川の 水 ほたえずして︑しかももとの水にあらず︑淀みに 洋 ぶ う たかたは かつ 溜 えかつ結びて久しく止まる事なし︑世の中にも る 人と住家 と またかくの如し﹂或いは 又 ﹁その主人と住家と無常を 争ひ去るさま
事は 彼の無常観が﹁ 世 ﹂それ自体 に 対してでなく︑﹁ 世の中にある ものしに対して無常を観んじているからである︒ 世の中にあるものに無常を観んずる浮世的な入間にほ 日常的物質 的な衣食 佳 のみが問題とされて︑入間の本来的な問題 である精神的
一 O 一
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㏄
な 苦悩は何等問題とされなかつたのである︒隠遁生活 は ﹁ た盤 静か
なるを望みとし︑愁ひなきを楽しみしと サ るものであ つた ︐それ 故
に 来世的性格をもつ佛の道は ︑ 即ち往生要集︑西方 浄 上意佛は長明
にとって重要な意義を与えるものではなかった︒
ス にか上る佛の道は隠遁生活に如何なる位置を占める ものであろ
ぅか ︒
隠遁するとは世をそむく事であり︑独り 住 む 事 てあ る 0 それは
﹁淋しきものしとして︑社会的存在たる人間は全く社会 から離れて
孤独に生活するは苦痛である︒それ故にその淋しき 心を支えるも
の ︑心慰めるものとして︑詩歌︑管絃の藝 道 が求めら ね ︑一方宗教
的 渇望として︑金椀読経が求められた︒然して来世的 性格をもつ 念
佛 読経は前述の如く長明に何等の満足を興えなかつた ︒然るに一方
墾道 は︑ ﹁ひとり調べ︑ひとり詠じても づ から心を養 ふ なり﹂と 云
5 は︑その淋しき生活を慰め得るものであった︒ 某れ は 決して﹁ 人
の 耳を よる こぼしめる﹂ものではないがれども・草に 心慰めるもの
であれ ば 形式だけを 仮 りさえすれ ば よい︒必ずしも 博 統の美を必要
としない︒然し隠遁生活に包む閑寂をより深め︑より よく生活を豊
かぼする為に︑ 博 統の詩歌管絃に憧れたのである︒ 和 敵 に満 沙潮の
風情をぬすみ︑琵琶に源都督の流れをくみ︑松の音に 秋風の楽をた
ぐえ︑ 水の音に流泉の曲を操ったのである︒かく 博統
る 事は ︑最む 床しく 好 まん く 浮世に繋がるものである ︒殊に日常的 の 繁道けし憧れ
人間として全く浮世に繋がらずに佳み通す事は出来な い ︒長明は博
統 の 藝道 をもち︑更には峯にのぽり故郷を眺め︑石山 を 拝し︑ある 一 O 二
いは櫻 狩り︑紅葉を求める事によって︑浮世に繋がろ ぅ としたもの
と 見る事が出来る︒それ故に浮世に執着する人間とし て ︑来世的 桂 格の佛の道とり︑浮世に繋がり得る ︑即 ち 心 楽しむ 藝 道 がより好ま
しくあった︒歌集にある﹁西に向はんと思へども月ま つ 程はえこそ
対 はね﹂の一 百が 示す様に ︑ 佛の道 は 墾道 よ り下位に 位置する事を 表している︒
それでは方丈生活に満足を典えないのみならず︑更に 繁道より 下
位 にある佛の道は︑如何なる関係に 拾 いて隠遁生活に 導 き 入れられ たのであろうか︐
隠遁生活に 拾 いて︑﹁山中の景色 折 につげて 轟 くる 事 なし﹂と 云
い︑或いは 又 ﹁生涯ののぞみはを
りノ
Ⅰの美景にのこ れり ﹂と云 っているのは︑ 博 統の美に憧れる者として自然の美的 観 照の立場に立 つものである︒
淋しき心を自然の美に陶酔せしめている事︑平家の都 遷りに 刻 し
い 憤りを示している事︑更には平氏の横暴を﹁世の乱 る 上端相しと
嘆 んじている事︑養和二年の飢鐘を濁世と 慨 いている 事等は ︑長明
が 貴族 曲 な性格を持っていたからである︒それ故にそ の 隠遁は﹁ 山
里は物の寂しきことこそあれ︑世の憂ぎよりは住みよ かりげ り ﹂
︵ 古 仝 集 ︑不知請人︶と古今集の一百 が 示すよちな平安 朝 的な心情 に捲 いて︑あったものである︒
然し時代は自然的災害︑戦乱がもたら サ 社会的清僧 と ︑それより
おこる厭離磯 土 ︑欣求浄土の爽 性 的 佛教が 世に風擁し つム あった︒
長明は現世的人間として︑日常的な事にのみ拘泥しそ の 現実を徹底
ぢ 70
穏