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た一連の善書を総体的に取上げる必要がある︒ 私はこのや 5 な 問題の場面の特に心理的連関を辿って みたいので
例場 には
的究
明に て説根 、
が拠てく想
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四結 八樽 格 杜国持 ヵ侍者
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、
かれて にっきのの む例
標題のや う な問題を私は辿りたい︒
丁度都合の ょい 作業仮説を マサノ ウスキ l が提案して き る ︒それ
はか ぅ である 0 ﹁如何にもならぬ時の︑また︑極端な 危険や不安に
際しての︑人間の身振りや表現が呪術等の儀式の表現 と 近似してを
る ︒で社会的 博統 的な呪術の起源は︑人間の危機の状 況に 於ける
﹁自然発生的な﹂ 適 照の処置と同じ根源であら
こ
と い ふ のである︒機能主義の一方の代表者だつた彼の呪術や宗教に関 サ る 議論はよく 知られてを る 通りであるが︑数年前に出た彼の遺稿 集 では 謂 ゆる きき 日 e の一般的理論を明らかにしてを る ︒即ち﹁制度 的祀会 ﹂︐に 於
て 存在する生活体の基礎的 ニ ー ヅ ︑派生的ニー ヅ の 環 境 ︐マリノ
ウスキーによれば環境は即ち 0 白 き目のであるが そ の 環境に対す
る ada づ ︵ り ︵ @op といふ問題の場面を詳論し ︑ 且つ科学と 呪術及び宗教
をもつ て ニー ゾ を充足する際の統合的要件 却ぢかコ ︵の 窩 まぢ ︒ 俺 9 缶 田と
なし統一原理として︑夫々に位置づ けて を る ︒ 宗教でぼ︑三教室と名づける会堂を所在に持つて ゐて ︑一年の四季
には教徒を会して︑その修行の状態を査証し︑ 各堂所 属の代表教徒実際の場合には︑限界的な危機に 於て初めて宗教や呪術に入るの が 冬至に会合して︑ 衰了 凡の立命篇や蓮池大師の自知 鉄に臆 して︑ではなく︑社会的慣習的に定められ てな ろ 制度的な呪術や宗教に入
って呪術や宗教の生活を行 ふ のであるが︑宗教の意味 を 見るために & 徒の功過の判定をした︒
七四
た ︒ 各堂 によって異本功過格を所持して る たことは︑ その 堂 中心の 教化活動が徹底して る たことの証左である︒書堂では 善 挙を興すの
限界的状況に於ける宗教的 適礁
が 常である︒ 善 挙は慈善事業である︒
石津 照璽
又 ︑康煕年間に天津靱を中心に 博教 されてゐ た 白楊 教 の 一派の玄
もるが︑恰も今日の精神病学で機能的精神病とか機能 的 神経症とい
ほ れる観点も亦 た 革に心身の相関的な連関のみでなく 生活体のま 0 ︒ め 0 圧 主な行動の﹁ 場 ﹂を問題とし︑パースソの環境へ 0 通 礁 ︵ p& 甘 ︒
黒日のま︶といふ機能的関係に於ける︑ 行 ぎつまりや 要 求 阻止或は不 当 道礁 とか要求不能等のケースとして解釈し分析して を る︒
このことを私は レザイ ソの所論から辿ってみたの てあ
るがレ
ダ イソ も既に彼の所論がかかる問題領域に通じること をあげる 全体性を有する﹁ 場 ﹂としての﹁生活本間﹂即ち心理 学的 扶 呪の形 熊は︑ 適 礁の出来る範囲︑換言ずれ ば 可能的運動の範 囲を常に制約
してをるので︑その全体性に相関関係をもつてを ると ころのパ l ス
ソと 環境との関係即ち 適礁 といふことも非常に制限 せ られてみ る ︒ そこで 適 蕪しきれ れ 要求阻止︵ オ亀 甘 き @0 ロ ︶やその 複 雑 な形たる 相
殖宋 ︒ ヰ 六二品︶が起る 0 そして︑この際の重要な生理 心理的な連関
としサ ‑ 苦痛︑恐怖︑不安が 附 ぎま とひ ︑その三つが 重 博 して当面の 扶現 に村時してをるのである︒ところて︑このコソ プ リクト の形式 が 基本的には三%に介げられる︒彼のい ふ謂 ゆる ダァ レソス の関係 から︑ けづ 0 め ‑t@ つめ ・ づ 0% 安 蒸 ㈲ づ贋ヰ ︵ @40 ︒ 桶洩甑お 目せ 0 め ‑ 亜 ‑ づの @ コ の幅 りヒ ‑40 或は㏄ つつ Ⅱ 0 い り オ 一ヰ つつ Ⅱ 090 オ @ レミ 0 ︶ 宙リラ の 0 一 リづ 0‑ 宙 トロの タ 0 つで Ⅱ︒ ジり オー ヰづ 0" 臣ヰ臣り ︒
といふコンプリ クト の形式であるが︑就中︑この第三 の コンプリ ク
ト から不安の緊張が増大するといはれてを る ︒
で 最近精神病や神経症をも含めて ぢ臼 *p‑ 日の oh 緒邑や すめザいつ ‑0 Ⅰ も @ の 0 ︒ よ ︒のといはれる領域に於ても機能的な精神障害の 諸症はこのや
う な ケ 一スとして解釈され診断され︑また療治されて なるのである
研究報告
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確かさ﹂や﹁頼みなさ﹂と結ばれてをるのであるが ︑ 兎に 角今 申した 適礁 不能の場合には環境との実際的関係がない ので︑当の環 境は不確かさ見当のつかなさとして︑正に不安の毛 0 づ oH であり︑
そこから不安は高まって ︑ 時には幻想のみならず﹁ 幻 覚 ﹂を発した り ︑固定すると神経症や精神病の徴候を示すそうにも なるのであ る ︒ところで︑かかる 退聴 反騰に二種類ある︒一は 想 像や心像を現 前 の 状現 に当てがつて︑ 状呪 の 癖別 が出来﹁現実の始 末 のつく場合︑
他 はそれが出来ず︑依然として当の状 現 に対して実際 の アクチュア か な処置が出来ないので︑想像や空想は自己の領域に 伺 って再び 還 つて来る ︑さう い ふ 場合である︒ | @ 一体これらの 心 的 機能は自己 を 構成して︑ 更 らにその構成されたものから感動させ られるのであ
この後の場合のメカニズムに二つ 0 傾向がある︒ るが ー
ヒ
一は 現実に近く 副ひ 或は副はんとするものと︑他は現 実から乖離 して逃避せんとするものである︒前者は現実に対する 想像的或は奉 想 的解釈といふ連関をもつがー | 妄想とか強迫観念に よるティ ピカ か な 躁穆病等 :後者は幻覚乃至幻想的な牽強附会 をなし︑現実 を 逃避して白日夢をみる等︑ 謂 ゆる安安︒ 巳斗 @0 ョにょ つて別世界に 住 むので ‑ ある1 l 人がかかる心的反騰に退行し︑ここ に 固定すると
分裂症の症状を呈し精神錯乱に陥る
このや う に主体にとって︑見当がつき見込みの立つ範囲 を 超えた︑
仕 すますことの出来る範囲を超えた限界的なプラスト レーショ ソや コソ ブリクト に於て ︑ 持ち合せの 適礁 方法が無くなり ︑ 当の状現に
封 ずる実際の焼別や認識等の反騰が田 束 なくなった と き ︑生活体に 七六
や 恐怖でいつぽいの筈である︒宗教的 適礁 といふこと 置 はなく︑﹁ 退轄 ﹂反騰に於て空想と想像の領域をもつ づ ねようとして︑これをナック テ な人間存在の眞 相に た様な問題性11つまり︑現象的事実の奥に於ける 宗 処 には不確かさ︑不可測さ ︑績 みなさが目の前に迫っ 外 はない︒ 其
附して き か う も 最初に申し 教の意味をた てなり︑不安 残された高適礁の道は代用的な想像や奉 想 による反騰 の 外はない︒
すると危機や限界伏兎 に 於ける宗教的 適膝 といふこと は ︑空想や
幻想に よ る非現実的な ︑ 里に主観の願望の投影に外な ら ぬそうな 反
志 なのであらうか︒
たしかに危機や限界的な状 呪に 於ては︑ 状呪に 対する 積極的な処
といふ問題性からいふと︑かかる状況に於ける 斯 る 反騰の領域
に 近接して成立する反騰といふところで細してみ・ なげ ればならな
い ︒しかし︑注意すべ き ことは︑宗教的反騰或は適 態 は ︑状況や環
境 との実際的関係をもたぬ 軍 なる現実逃避や自己満足 ではないとい
ふことである︒宗教的反 蕪に 於ては︑その想像や空想 の 領域と現実
の 状況や環境との間が断ち切られては 砺 ない︒正しく ︑それは当の
現実への アクヱ︐ュア ルな実際的関係なのである︒但し その通底の 桂
質 が日常のそれとは質的に違 ふ ︒見当のつかぬ不可測 な︑沸 へや 5 のない領域 即 ち現前の﹁状況﹂を ︑ 正にその通りに︑ 即ち 癖 へや ぅ 0 な い ︑見当が ヴ かないといふことを︒その通りに 辮別 笘 あの ト @ しピヰ笘巨の する︒ここに現実への実際の適 照 がある︒たしかに 宗 数 には想像 や 空想によって産み出されたものを現実に反映させてを る 点はある︒
しかしそれが宗教の本質ではないのであって︑究極的 な 見地からい
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それは現実に対 ふ 実際の適 蕪 である︒・もつとも︑それ は 自然的合 産 的な適礁の際のやちな実質的な処理ではない︒だか ら ︑その限り
そこで最後にここの連関であるが︑ そ 九では宗教的
適 想の本質に
於て究極的には何に向 ふ のか︑今の連関からいへぼ
正 しく不安の
40 づ 01 は何かといふ問題と撰するのであるが︑一体 不 安 等の現象を
抑圧から 轄 成したものだといふ︒最近の新フロイド
学 者達はこの
ド
まく環境の凡てが︑何でもが不安のもとである︑とく に 対人関係に 不安のもとがあるといふ︒そこに於ける不可測さやと くに 超 みなさ ま 手套 ヨ 窃のが不安のもとであるといふ 0 従って ︑さ ぎの問題にあ てはめて︑・これを宗教的 適礁 の 対 ふところとしてい
研究報告
七七へ ぼ ︑各自の状
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況 のかかる在り方への︑その通りのつまり 韻 みな さを頼みなさ のとほりの 辮 へといふことになるのであるが︑有名な 神経学の ゴ @ ルドシュタイン︵ 内 ・の︒目の te@n ︶は環境や対人関係とい ふところから 更 らに突きこんで︑﹁不確かさしと不安は人間の生 と存 在 との基本的 な 構造にその淵源をもっものであるといふ︒精神病者 はこれの虜に
なって自由な人格的な決意或は態度をとる︐﹂とが出来 ぬ い︒人格的
な 自失の状態にを る ︒ところが︑ここに自由な自己の 決意や態度を とるといふこと︑それは正に 宗 放り事とするところで あるといつ て る るが︑ここまで申して来ると︑彼の言葉でいへぼ ‑ フ イァ の構造に 其 はる ョ 0+ まョ 窄めののといふことが 俘び 出て来る︒それ が 人間存在の 裸 の 底 だとすると︑そこをその通りに 辮 へ︑態度をと るといふとこ
今に︑人間存在の当相に間はれた宗教の意味が答へら れて来るので
ほ だから ぅか ︒ ご ねから先は哲学的な存在の構造論に なるわけであ
るが︑それは別に 叙 べたから此処ではおく︒