研
究
報
告
線の東側に於て特に近畿地方を申心 に儂 序であり︑東部 は朋河肝中
東南石城都を限る西方特に太平洋岸に分布してい
る 0 これは サ メバカ︑イケパカ等の死体埋葬地 とヒキ︐ ハカ︑マイリ バ そヵ ラム ジ 3 等の苑盆祭場とを別にするものであるが ︑第一大の埋 甜地 には墓碑を建てず︑
又嚢後殆
んど捨て ム 顧みな いで一種 め不薄地タブ @ 地 として恐れられ︑ 盆 ︑彼岸︑年忌法要等 の 墓参をすべ
て マイリバカに於て行 う 風俗であるが︑埋葬も革墓制 土葬に比して
著しく粗雑である点も ︑又かムる 観念を表出したもの と 見るべ き で
ある︒ 従 って両墓制の 背俺 には上代風葬の適 習 に土葬 形式が習合し
‑ た 面影が乱 く 感じられるのである︒この感じ ほ 火葬 慣行によって 一
くもなく︑両墓制地帯に受容された火葬遺骨は直ちに 参り基に納め
られ︑所謂 8 車墓制となるのであるが︑画定制の中に も 一定期間の
後 遺骨をマイリパカに改葬する例が一ケ 所 あり︑ 又ウ メ パヵの上や
牡に 安置する例を連関して考えて見ると︑火葬は元来 更に 湘麒に 於ける死骸を風化せしめて 洗脅 し︑これを 鹿 石を持つて来てマイリ バカ に 差 加える習俗を持つ地方
短時間に風化せしめる目的を持つものとも解されるか
あり︑骨壺に納めた遺骨の埋葬は第二次 葬 に当るもの が 第一次葬であり︑火葬の翌日の骨拾いは改葬又は洗
であるが︑手っ 文 ぎとしてほ純粋土葬の里墓制とは 異 もあること︑ 人工を加えて ら ︑死骸焼却
骨 の 甲間 葬で
なる様式と見 で︑形は革 墓 に 納めて 祭
なけれ ば ならない︒骨拾いをハカッ ミ ︑ハイダ レと呼 ぶ地方もある
が︑ 多く﹁ 骨 上げ﹂と称しているのも︑革に骨を拾い 上げるとの感
︶ 紐キ
3 二玉
付ろ 、 がし
授
いつ 剤 ふと斎くと
を︑ 新たに 別地 にお祭り申すことだらりかと考へる し 面角井正慶
と ︑このお 譚 私の論題は︑古典に 表 ほれたいぬかといがいに関する ︑古代祭祀 の 意義と 型 態とについて一考察でありま す 0 同じ漢字の﹁ 斎 しといふ文字を︑かく両様に使 ひ 分 け た 理由につ いては︑柳田圃 男 先生も間 題 になされて︑民俗学上の 解答を示され て る ます 0 先生のお考へでは︑﹁今まで 神 と言はなか つ たものを︑ 神として祭り始める時の潔斎だけが イハヒ であり︑ 第 二の 々プク は 勧請または御分霊の奉迎︑即ち既に堂々として大祀で おほ します 祀 は ︑信州や美濃地方の祓殿︵ イハヒデソ ︐ウェ デソサ マ ︶といふ ︑ 同族神に基 く御 論説で︵神道と民俗学︶ ︑ 既にか う い ふ
の 用語例でみると︑ さぅぼ かりもいへない︒結論を先 キま㌔ お 弘明ぶがあか マ Ⅰ リ
に 申すと︑ 対 すのに︑今更逆戻りしたのでは 申 あげないので サ が ︑ いはふ之 いふ 言葉の古典的な意味を考へると︑たしかに斎くとは 違 った ︑神事の
一つの方法と思 は れます︒ いい マ 体ふぶ ㌔ママ い つ いもいかを語根として出家 た 言葉と説か ね ︑精進 潔 斎の斎の字を用 ゐた 理由も肯かれますし︑致斎・散斎 など漢語その
8 Ⅰ 2
" で "" 門
四 四
杵
一四五 研究報告 一
忌み 籠 ってする神事に︑しきりに﹁いづの何 ヰ ﹂とい っ 0 名を冠し にするといった意味が考へられずには ゐ ません︒だか ら 嚴の眞 屋に
びとか︑何時も外敵の反抗が予想される場合に用 ゐて ゐる言葉で す ︒神功皇后の造られた小山田の斎宮とあるのも︑ い はひ の神事 の
為 でありませ う " だから︑ 餌欝相蕗ぎ絆弗授輔暁潮箆 ︑ さう い ふ御
老で荒御魂が発動せられた︒斎ひによって 嚴 なる強大 な御魂 をはじ め ︑あの場合殊に 奉 ずべ き 神の発見につとめられたと 考 へられます︒
第一一例の精霊の反抗を封じて︑服従
せしめるに あるので︑その手段としてその霊力の源たる︑いつを末マ
Ⅰ︐ 恕 せしめる 呪術 があったと思ひます︒祓詞の一種類たる鎮護 詞は︑
・ ﹂の系統に立 つもの︒大殿祭の如く︑斎部の所管てあるのも︑斎部 が 元来さ うし た 祝詞を担当した為でありませ う ︒斎部なる名称も ︑ 祭りに 参興 する家なる 放 とするなら︑独りこの家に限らない 0 さ ぅ した祝詞 呪 力 を掌る聖職から︑五件 緒 の祖神の 一桂 太玉命以来の 関係を語って るるのだと思ひます︒尤も斎の用語例は ︑ 敢へてその 呪術に出たも め ぼかりではない︒ 婬 國などの場合︑神聖な場所を意 抹 した用法に 過ぎない︒﹁素瓶を斎ひ堀り 据ゑ しの如き︑祭具や行 動に 漢字の斎 を用ゐた仁 過ぎないものも 歩 くありません︒其はおな じ 神武天皇紀 の中でも﹁神祇を 祀繁 しするとか﹁ 倣柴 するしとか︑ また 思斎を説
明して﹁ 弗 自ら斎戒して 諸 紳を祭りたま ふ ﹂といふ や 6 な漢文的 表 M 現 ︑同時に文那の聖賢の道に説くどころの祭祀観念が 軍 ヰ表はれて 3
田 ︒
すが︑果してさ百かっ私はことによると嚴が語根とな つて活き︑ 更 マ マ マママ Ⅰ マ ⅠⅠ にいつくしといふ形容︑いつくしむといふ言葉︑これ は 恵む 簗 する これ等の歌について一首 づ虫 検討してみる時間はあり ません︒ 斎 く と 殆ど同じ意味で用 ゐ てゐるものとも 云 へますが︑ や ほり 何処か 違
武 天皇紀に﹁大来皇女を天照大神に侍らしめんと欲し
宮を五十鈴川上に興 っ ﹂とある斎宮を ︑イハヒ の 宮と
る 最高の神女の称となったのは︑その常に住まれた 居 ほ 既に混同の生じた時代の訓でありませ う ︒いつぎの つた 感覚があります︒併しか 5 なると︑柳田先生のお
訓 んでるるの 説 に生かして 華仁 紀に﹁ 斉
宮 が神宮を祭
所の称で︑ 天
て 泊瀬斎宮に
て 後の精進 荘
いつくの語義は忌みつくの 意 だと﹁大言海しはじめ 謂 いてを りま
㌔ 甘︐ ︒︒ 且 ︑・ ︐ : ︑︐ : ︐ ・ ‑ : ︐︐︐ ・Ⅱ ‑‑ るるのですが︑以上申したや 5 な例には少くとも呪法 としての キひ が 考へられます︒また芙によって祭るべ き 神の出現を 期して ゐ たこ とも︑神功皇后妃に表はされた信仰現示に見られる 訳 です︒平安朝 イ Ⅰ の神楽歌の中にも ママⅠ 0 楓葉に木綿とり垂で 亙 ︑誰が世にか紳のみ わ ろ とい はひそ
め けむ 神は祭りつ︒明日よりは組の緒しで て︑ 遊べ大刀 0 奥 つぎに皇神たちをいは ひ 来し︑心は今 ぞ たの しかりげ ろ
キ ・ @
がついた襄がいたします︒
な ほいはふもいつくも共に食物を供へ 行俺掛 内容とし
て るな かつた︒祭りとい
曹
葉に於てはじめてⅡへの ゑ 事と韓 と八との共立が考へられるのではないか
息ひ
ます︒
死
者 祭 記
の
型
態
一四七
︵ 蛙異記申 ︑第二四︑第二五参照︶と・霊鬼 舐転 の 咀 僻
められた種々の物を陳べ︑或は之を用いて︑霊鬼を追 6% 穣ヒの要
素 との コ つを含むといい得る︒
さて本論の目的は︑この ニ 要素が死者祭祀に︑如何な る 係りを 持 つかとい 5 点にあり︑ こム にいろ死者祭祀とは︑屍体 ゑび 苑 者の億
魂 についての祭祀即ち 濱 葬及び 年 終の荷前︑魂祭及び 孟蘭 盆会を指
す ︒
まず 濱葬 について二三の資料を挙げよ 5 ︒
け 朱墨万年九月
辛弗
甲南庭︒︵中略︶嘉日肇造 貧 ︒ ︵日本書紀第十九︶
面 供奉 ㈲遊部者︒︵中略︶九天皇崩持者︒比目安和気等 英事 ︒
破取
某氏二人名︒ 称繭 議会 比也 ︒両義者︒ 焦 刀 ︒ 拉持あ ︒余地者︒ 持幣餌 ︒ 井貫 か︒封入内供奉 也 ︒︵中略︶ 後笈 於
長谷天皇崩 時 ︒ 而藁 比目交和気︒七日七夜不幸御食︒ OO
豆偏 多荻 比較︒︵中略︶供奉兵事︒俊和平 給也 ︒︵喪葬 令集解 所
引 古記︶
㊧︵土師氏の職掌に就いて︶ 其濱宮 御膳︒ 課 人長︒ 年
使者︒︵類聚三代格︑延暦十六年四月十三日大政官符 応 佳士
㈲仁和三年九月二日︵中略︶内膳司等洪大行天皇立御 枯
宮 ︒ 是 日華光孝天皇 於 小松山陵︒︵ 甘 本紀 略 前 億 二十︶ 18 め凡 親王一品︒方相宿車︒云々︵喪葬 令 ︶
二 " ユ キ f"@fli""w"",@ ‥ T" 二
古記 は 天平年間に成立︶ ㈹天安二年九月六日夜義太行天皇 於 田畠山陵︒ 舛葬 之祀 ︒ ‑ 如 仁明天皇故事︒ 但 右方相氏︒︵文徳実録第十︶ け ㈲㈲㈲の資料によって御膳を奉ること︑即ち﹁ 饗目 の 要素を指 し 得ると共に ︑ ㈲によってその不可欠なることが認め られる︒ 吹 ㈲によって 刀 ︑戊が㈲㈹㈲によって方相氏が︑ 追離と 同様に用い れたことが知られる︒更に 聞 ︒ 人疲 精魂帰天︒雨空有家 墓 ︒鬼神恩 焉 ︒綾乃 戻崇 ︵ 続 日本
類によ れ ば とい 6 記事︑又 眞 々見られる山陵の崇等を思い合わせ ると︑屍体 集り来る霊鬼を牽 ぅ 戻のものと考えることが出来る︒ 荷前は職員令諸陵正の職掌の﹁ 祭陵霊 ﹂の義解に﹁ 十 二月華荷前 前 使は陵墓に到り︑帯剣者は剣を解いて幣を焼くを 作 法 とした︒ れによって剣が陵墓の霊の馬に禁忌されていることが 示された ︑これは 追 雛祭文に﹁大宮内 鰻祀祇官 宮主能伊波 比奉 里敬奏 音大 % 諸 御許 等 渡手人旅大地 窩伊痂佐布倍 志しとあり︑ 又 追灘 そのも が 中陰の間禁忌されたことと︵権記長保三竿十二月二 十九日︑ そ 他 ︶共に同様の趣旨に出たものと認め得る︒ 又 ﹁例貢 立物 閾怠 ﹂ る扁 ︑山陵が崇を窟した︵続日本後紀承和八年五月十 二日︶多く 事例は奉幣の重要なるを示している︒
のせ のの他がこ 荷幣
に後子
らで 摘今寺 等 万金 の 言 英之︒霊鬼に対する祭祀の二つの要素は死者祭祀に 於 て︑
け円荻 目は不可欠なものとして︑
る ︒
㊧ある時は︑ 又之が 死者に対して禁忌される︒
本論に於て 両 種の祭祀の先後関係︑二種の要素の起源 に 就いては 及 しないが︑霊鬼︑死者に就いての観念内容に︑かく の 如く共通
某底 のあることは指摘し得たと思 う ︒
ト部︑陰陽師の携わる祭祀として︑前掲の他︑鎮火祭 ︵ト部︶︒ 毎
朔日忌火︑庭火祭︵宮主︶︒庭火 並 平野 毎 神祭︒御本命 祭 ︵陰陽師︶
が式 その他に見られるが︑これら ほ 霊鬼の懐 祭 とほ 異 なるものと
えるので︑その説明 は 省く︒
あ前 奉幣について︒前掲 続 日本後記承和七年五月の条 に ﹁ 歳覚分 魂祭︑ 孟蘭 盆会に於ても︑食膳を捧げることが重要な 一 要素とな
つている︒︵魂 祭 Ⅱ枕草子第三十八段︒霊異記 下 ︑第 十二 0 丁︑第 3 二十七︒権記寛弘八年十二月二十九日等︒ 孟蘭 盆会Ⅱ 大膳 式 ︒年中 行事 秘抄等 ︶しかもこの際︑禁忌の 一 として﹁ 蒜 ﹂ が 挙げられる︒
︵ 長 私記大治四年七月二十二日︒ムロ 記 久安六年七万十 由 八日等︶これ
は 景行天皇紀︑本朝食鑑拳玉菜 部 ︑賞 辛類蒜條 等に 見られる 如 く ︑ 僻 邪 の力能 ありと考えられたもので︑従って禁忌 されたのであ
ろ 5 ︒ 一四八
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臣 Ⅱ
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