第 2 章 先行研究および本研究の位置づけ
2.4 本研究の位置づけ
2.4.1 奥田(1962[1983])の再考
2.4.1.2 連語論の対象について
本節は、奥田の「に格の名詞と動詞とのくみあわせ」からやや離れるかもしれないが、
奥田(1962[1983])をもとにして、連語論で扱うべき対象について再検討したい。「連語 論の対象」として取り上げて対象とするか否かを検討するのは〔状況的なむすびつき〕と
「ガ格の名詞およびガ格の名詞と動詞とのくみあわせ」との2つで、以下はこの順番で述 べる。
Ⅰ、〔状況的なむすびつき〕の扱いについて
すでに見たように、ニ格の名詞と動詞とのくみあわせを、奥田(1962[1983])はまず〔対 象的なむすびつき〕、〔規定的なむすびつき〕、〔状況的なむすびつき〕の3つに大きく分け ている。これらについての説明をいま一度下に挙げる。
・対象的なむすびつき
動作(あるいは状態)とその動作(あるいは状態)の成立にくわわる対象との関係で ある。(p.282)(点線は引用者による。以下同様)
・規定的なむすびつき
かざり名詞でしめされる状態あるいは現象は、動作そのものの成立に直接に関係せず、
動作のもっているなんらかの側面を規定してかかる。(p.309)
・状況的なむすびつき
かざり名詞でしめされるものは、動作の成立に直接的にくわわってはおらず、それを
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そとがわからとりまくものにすぎない。(p.317)
何によってまずこの3つのカテゴリーに分けたかについて奥田ははっきり示していない が、上の説明から、動詞にとってニ格の名詞の存在が義務的か任意的か、言い換えれば、
ニ格の名詞と動詞とのむすびつきが強いか弱いかの差が読み取れる18。すなわち、〔対象的 なむすびつき〕においては、動詞はニ格の名詞の存在を義務とし、ニ格の名詞と動詞との むすびつきが固い。〔規定的なむすびつき〕では、動詞はニ格の名詞の存在を必ずしも義務 とするとは限らないものの、「動作のもっているなんらかの側面を規定してかかる」という 点では動詞とは無関係的ではない。ただし、ニ格の名詞と動詞とのむすびつきは比較的に 弱い。これらに対して、〔状況的なむすびつき〕になると、動詞にとってはニ格の名詞の存 在が任意であり、ニ格の名詞と動詞とのむすびつきもきわめて弱い。このことは奥田自身 の記述からも確認することができる。特に〔状況的なむすびつき〕について、上の説明に つづいて、奥田は下のようなことをも付け加えている。
「一般的にいえば、状況的なむすびつきは、動作にとっては外的な空間、時間、条件、
情勢などを表現している。このことから、この単語のくみあわせでは、かざりとかざられ との関係は、きわめてよわい。特殊なばあいをのぞけば、かざられ動詞の語彙的な意味に は限定がなく、むすびつきの性格はむしろ、かざり名詞の語彙的な意味と形態との特殊性 に依存している。」(奥田(同:317))
連語論の対象が構成要素である単語の間のむすびつき方である以上、かざりとかざられ との間に何らかの関係でむすびつけられていなければならないのである。これを考えると、
名詞と動詞との関係がきわめて弱い〔状況的なむすびつき〕を連語論の対象に入れるべき かどうかを検討し直す必要があるであろう。〔状況的なむすびつき〕の扱いについて、早く から仁田(1985:49)は「連語論の対象としては、少し問題になってくるのではないだろ うか」と疑問を呈し、「典型的な状況的なむすびつきは、その生起を動詞の語義的なあり方 に規定されることが極めて稀薄であるし、また、それが結びついているのは、動詞である というよりは、動詞に対象的なむすびつきを作る名詞などの結びついた出来事・事柄の核 に対してであろう。」と述べている。
〔状況的なむすびつき〕を連語論の対象に入れることに対して、鈴木康之氏も以下のよ うな反対の意見を述べている。
18 2.3.2節ですでに述べたが、松本(1979)(「に格の名詞と形容詞とのくみあわせ」)も、ニ格の名詞と
形容詞とのくみあわせを、まず〔対象的なむすびつき〕〔規定的なむすびつき〕〔状況的なむすびつき〕の 3つに大きく分けており、ニ格の名詞と形容詞との関係について以下のように述べている。「対象的なむ すびつきをあらわすくみあわせでは、かざりのに格名詞の存在が、かざられの形容詞の結合能力からみて、
だいたい義務的だが、規定的なむすびつき、状況的なむすびつきでは、一般に、義務的とはいえない。」
(p.204-205)。
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「(前略)名づけ的な意味の完結のための「単語のくみあわせ」としては、なによりも まず、「対象的なむすびつき」が研究対象となるのではないだろうか。つまり、「規定的な むすびつき」や「状況的なむすびつき」は、「対象的なむすびつき」とは同列にあつかえ ないはずだと感じている。とりわけ、状況的なむすびつきは、連語論の対象というよりも、
文の構造の問題としてあつかうべきではないだろうか。」(鈴木康之(2006b:228))
これに対して、鈴木重幸氏は次のように反論している。
「対象的なむすびつきのタイプは規定的なむすびつき、状況的なむすびつきと対立して 存在している。(中略)。連語の構造的なタイプのモデル化にとってむすびつきの3つのタ イプの位置づけはことなるだろう。つまり、構造のなかで状況のむすびつきにあるカザリ は、対象的なむすびつきにある連語とくらべて動詞とのむすびつきのかたさ、つよさがこ となるだろう。あるいは義務的か、任意的かという特徴などによってことなっているだろ う。」(鈴木重幸(2006b:12))
しかしながら、〔状況的なむすびつき〕と名づけられているものの、奥田(同:317)が「こ の種の単語のくみあわせが文にはいるばあいは、かざり名詞は、容易に状況語として動詞 との直接的な関係を失っていく」と指摘しているように、それは名づけ的な単位として文 の中で働くとは考えられないし、また「かざられの語彙的な意味をかざりがいっそう具体 化してみせるという関係」も読み取れず、単に「単語のくみあわせ」だけである。そのよ うな単語のくみあわせでは、構造的なタイプを規定することができず、むすびつきが実現 されているとも考えにくい。
Ⅱ、「ガ格の名詞」および「ガ格の名詞と動詞とのくみあわせ」の扱いについて 周知の通り、奥田の連語論はガ格の名詞を考察の対象に含んでいない。
言語学研究会(編)(1983)の「編集にあたって」では、ガ格の名詞と動詞とのくみあ わせは、〔従属的なむすびつき〕ではなく、〔陳述的なむすびつき〕をなし、「modality と
temporality とからきりはなされたところでは成立しない」(p.6)として、連語の対象と
して扱わないとしている。
連語論においてガ格の名詞と動詞とのくみあわせを排除することに関しては、当初から 反論があった。仁田(1985)は「ガ格名詞と動詞との結びつきは、果して本当に連語論的 な研究の対象外なのだろうか」(p.48-49)と問いかけ、主語―述語の関係は「名づけ的な レベル、事柄的な意味のレベルでの関係のあり方をも担っており、その上に機能的な関係 のあり方が被ってくるのであろう」(p.49)と述べている。さらにいくつかの言語事実を提 出している。例えば、「くるみを割る」という連語が「太郎がくるみを割るのに熱中してい
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る。」という文の構成要素になっているように、「僕は太郎が来るのを見た。」においても、
ガ格の名詞と動詞とのくみあわせ「太郎が来る」が構成要素になっていて、排除されるも のではない。「春が来て、暖かくなった。」のように、ムード形式をもテンス形式をも持ち えない文的度合いの低い節にも、ガ格の名詞と動詞との組み合わせは存在する。」(p.49)。 また、「庭におおきなびわの木があった」のような例において、「庭に」は「ある」に対し てというより「おおきなびわの木(が)」の「ありか」であり、「「ある」をセンターとして
「おおきなびわの木が」との関係において「ありか」なのである」(p.48)。
仁田(1985)の疑問と同様に、宮島(2005b)は「わたしも、ガ格には主語という主格 補語的な面があること、すくなくとも部分的には連語論であつかっていいのではないか、
とおもう。19」(p.21)(点線は引用者による)と主張し、ガ格を連語論に入れる根拠とし て、「「馬がいななく/鳥がさえずる/動物がなく」の差や、「人が/手が~をつかまえる」「人 が/足が~をふむ」などの表現の差は、なにが動作の主体になるかという意味の問題でもあ るが、どのようなガ格名詞が動詞とむすびつくか、という連語の問題でもある。」(p.21)
というのを挙げている20。
連語論におけるガ格の扱いをめぐって、鈴木康之氏と鈴木重幸氏の両氏の間にも異なる 見解が見られる。鈴木康之氏は「主述の関係にあるような単語のくみあわせでも連語論の 対象になるものがある」と主張し(鈴木康之(1983)・鈴木康之(2005)・鈴木康之(2006a))、
「汚水が流れる」「電車が動く」のようなくみあわせを取り上げている。これは自他対応を 有する動詞の、他動詞の目的語と自動詞の主語との対応に関する観点からであり、例えば、
「汚水を流す」「電車を動かす」という連語において、「汚水を」「電車を」は「流す」「動 かす」の動作としての名づけ的な意味を具体化するとすれば、それに対応するものとして、
「汚水が流れる」「電車が動く」における「汚水が」「電車が」もまた、「流れる」「動く」
の現象としての実体を具体化するものとして要求されるとしている。また、「汚水が流れる」
「電車が動く」のような連語は、動詞が名詞に転成することによって、「汚水の流れ」「電 車の動き」というような名詞を核とする連語(ノ格の名詞と名詞とのくみあわせ)に移行 する事実からも、「汚水が流れる」「電車が動く」というようなくみあわせを名づけ的な単 位として考えられ、連語論の対象にするべきだと指摘している。また、自他対応は持たな くとも、例えば「月が昇る」「太陽が昇る」のような連語における「月が」「太陽が」は、
やはり「昇る」という動詞の意味的な完結のために必須であるとしている。
これに対して、鈴木重幸(2006a)は、「汚水が流れる」「電車が動く」のような単語の くみあわせは、「奥田のたてた基準から、主語と述語とのくみあわせになる特徴をそなえて
19 宮島(2005b)の「注3」に、「根本[1965]は、連語論と名のっていないし、言語学研究会の成果であ るかどうかも、はっきりしないが、ガ格と形容詞のくみあわせを連語論的に記述している。」(p.31)とが ある。
20 この論文が掲載される前に、同じ題名で連語論特別研究会で発表された資料宮島(2005a)では、ガ格 を連語論に入れる根拠として、デ格の道具名詞が主体になりうるかどうかの例(例えば、「そろばんで計 算をした」と「コンピューターで計算をした」において、「そろばんが計算をした」という言い換えは難 しいが「コンピューターが計算をした」は可能)が挙げられている。