• 検索結果がありません。

農田水利の建設

ドキュメント内 Microsoft Word - 表紙 (ページ 70-78)

第二章 台湾米生産近代化の基礎

第二節 農田水利の建設

日本の殖民地になる前の台湾移墾社会においては、すでに農田水利の秩序と運用方式が あったが、当時の水利灌漑施設(いわゆる埤圳26)は、主に民間の富紳や地主階級などの投 資による私人の営利事業、あるいは農村の農戸が共同開発して共有財産となったものであ った。日本の殖民統治初期、農村社会の治安が悪くなったことより、総督府による農田水 利の管理と建設を直ちに行うことは極めて困難であった。そのため、1895年から 1901 年 にかけては、総督府は積極的に権威を樹立しながら、経済面において財政計画を推進する にとどまった。そして、1898年に児玉・後藤コンビ管理下の台湾土地調査局によって大規 模な土地調査事業が実施され、地形、河川、農田、埤圳など様々な項目が調査された。

台湾の土地と気候は主に亜熱帯気候に属し、土壌や気候に適した農作物を耕作する適地 適作としては、サトウキビおよび米が栽培された。児玉総督時代以後、日本の経済発展に 歩調を合わせるため、経済改革およびインフラ整備が展開された。その中でも、農業を発 展させるためには、まず水利建設事業の改善と完備が重要な課題であった。1898年に総督 府は総督府官房を設置し、また民政部(四局、一署三部)が設置された27。民政部管理下の 土木局では、埤圳、河川等の水利事項に関することが担当され、喫緊の課題である農業生 産の根本問題の解決が期待された。日本の殖民統治期では、米、砂糖の生産および経済発 展を推進するため、農田水利に関する事業が重視された。

24竹越與三郎『台湾統治志』(博文館、1905年)、南天書局、1997年12月二刷、214頁。

25矢内原忠雄『日本帝国主義下の台湾』、23頁。

26埤(称陂)とは、渓水をせき止めて大量の水を貯めた建物。圳は、灌漑などのために水を引く 目的で造られた水路。

27「台湾総督府官制」(明治30年10月発布)第十七条の規定によると、民政部に財務局、通信 局、殖産局、土木局、警察本署、地方部、法務部及び学務部を設置。東郷実・佐藤四郎『台湾植 民発達史』、南天書局、1996年8月二刷、38~39頁。

60

(一) 水利組織の改革と変遷

清朝時代、台湾の農地開拓は迅速に行われたが、農地を耕作するためには、良好な水質 や豊富な水資源が必要である。しかし、清政府はこの問題に関してあまり重視しなかった。

1898年に台湾総督府が土地調査を実施してまもなく、台湾各地の埤圳の状況も調査された。

そして、水源、建造時間、出資方式、灌漑甲数、毎年の水費、官理方式などの事項を記載 した埤圳台帳が作成された。その後、総督府は農田水利事業を有効に管理するため、法規 と組織を改革した。台湾水利組織の改革と変遷は、以下のようである。

第一次公共埤圳時期

明治34年(1901)7月4日に台湾総督府は律令第六号「台湾共同埤圳規則」(計16条)

を発布した。これは台湾史上初の法律条例による民間水利組織の合法的地位の確立であっ た。また同年9月1日に、府令「台湾共同埤圳規則施行規則」(計28条)が公布された。

明治37年(1904)2月19日には、府令第十三号の施行細則も発布された。こうした規定 により共同利害にかかわる民営埤圳は地方官庁に登記すべき公共埤圳となり、その性質は 公共財となった。またこれらの規定では、公共埤圳の利害関係者(埤主あるいは圳主と呼 ばれる)とその委員(5 名~20 名)らは、相談の上、公共埤圳組合を設立することができ た。その過程は、まず、彼らはその組合内部の規約を定め、収支予算書を交付し、総督府 から認可を受けるというものである。公共埤圳組合の構成員は、管理人、理事、技師、書 記、技手、監督員などからなり、彼らによって日常の管理作業が行われる28。基本的に、公 共埤圳組合は法人組織であり、水費を徴収することができ、また銀行からお金を借りて埤 圳建設の資本金とすることもできた29。1901年頃には、総督府認定の公共埤圳は21ヶ所、

灌漑面積は18,034甲だけであったが、表4に挙げたように、公共埤圳の数は次第に増加し ていった。

表4 公共埤圳の数と灌漑面積

時間(年度) 数量 灌漑面積(単位:甲)

明治34年(1901) 21 18,034 明治36年(1903) 69 40,395 大正5年(1916) 175 155,922 大正11年(1922) 115 227,302

出典:①東郷実、佐藤四郎『台湾植民発達史』、214頁。②大園市蔵『現代台湾史』、357 頁。③台湾総督府官房調査課編『施政四十年の台湾』、168頁。④大園市蔵『台『台 湾事情』(昭和11年版)、湾始政四十年史』、357頁。⑤台湾総督府編『台湾事情』

28①徐世大纂修『台湾省通志稿巻四経済志水利篇』、台湾省文献委員会、1955年3月、128頁。

②鄭雅方『台湾南部農田水利事業経営之研究』、国立成功大学歴史研究所碩士論文、2003年1 月、69~70頁。③李軒志『台湾北部水利開発與経済発展関係之研究』、国立成功大学歴史研究 所碩士論文、2003年6月、90頁、を参照。

29陳鴻圖『台湾水利史』、五南図書、2009年11月、221頁、を参照。

61

(昭和15年版)、467頁。

第二次官設埤圳時期

明治41年(1908)2月19日、総督府は律令第四号「官設埤圳規則」(計9条)を発布し、

翌年3月18日に、府令第十一号「官設埤圳施行規則」(計19条)が公布された。このよう な法令規則の発布は、総督府が農田水利をしっかりと整理し、建設しようという決意を示 している。実は、大規模な農業灌漑の建設は、民間や地方官府にとっては大きすぎる負担 であるため、総督府が直接水利事業に投資してその経営を行った。これがすなわち官設埤 圳である。もちろん官設埤圳の受益者は水費を支払わなければならず、その水費は税金と して国税徴収の規則が適用された。以前、総督府が提出した十六箇年継績事業の計画では、

その予算は 3 千万円であった30。また、水利工事および水利発電の開発を促すため、明治 43年(1910)4月1日に府令第二十五号「官設埤圳水利組合規則」が発布された。その主 な内容は、原則として官設埤圳の区域において 1 ヶ所の水利組合を設置し、その区域内の 土地所有権者や佃戸などが組合員となり、水利組合が直接総督府土木局長や地方庁長から 指示を受け、その組合の行動を管理するというものである。

明治41年(1908)から大正14年(1925)にかけて、総督府は、台中州莿子埤圳、高雄 州獅子埤圳、台中州后里圳、新竹桃園大圳などの重要な官設埤圳が続々と完成された(表5 を参照)。そして、台南州における非常に大規模な嘉南大圳建設のため、総督府は大正9年

(1920)8 月に官設埤圳の計画が取り消され、民間に近い性質を有する「公共埤圳官佃渓 埤圳組合」となった。その目的は、この埤圳区域内の民間組合が大部分の工事費用を負担 することで、財政支出を減少させるためであった。なお、大正10年(1921)に、この官佃 渓埤圳が起工されてまもなく、「公共埤圳嘉南大圳組合」に改称されている 31

また、民間経営の小型埤圳も、総督府の認可が必要であったが、基本的に経営の自由は 認められず、一括りに「認定外埤圳」(私設埤圳)と称された。大正5年(1916)の認定外 埤圳の数は11,811箇所であり、その灌漑面積には72,941甲であった32。昭和14年(1939)

3月には、その数は13,102箇所、灌漑面積117,864甲にまで増加した33

表5 1908年~1925年間の官設埤圳工事

工事 起工時間 完成時間 工事費(円) 灌漑面積と発電馬力数 台中州荊子埤圳頭 1910 1911 42,628 3,923甲 高雄州獅子頭圳 1908 1911 743,906 4,332甲

30①台湾総督府編『台湾事情』(昭和11年版)、383頁。『台湾事情』(昭和15年版)、463 頁。②台湾総督官房調査課編『施政四十年の台湾』(昭和10年8月発行)、168頁。③惜遺『台 湾之水利問題』、台湾銀行金融研究室、1950年、13頁、を参照。

31陳鴻圖『台湾水利史』、224頁。徐世大纂修『台湾省通志稿巻四経済志水利篇』、202頁。

32東郷実・佐藤四郎『台湾植民発達史』、215頁。

33 ①台湾総督府編『台湾事情』(昭和15年版)、468頁。②『台湾総督府臨時情報部報』、第 8巻、第90号(昭和15年3月1日発行)、ゆまに書房、2005年11月、217~218(7~8)頁。

62

台中州后里圳 1909 1913 995,563 3,246甲 下淡水渓護岸工事 1911 1913 703,265 ― 新竹州桃園大圳 1916 1925 7,744,221 22,000甲 獅子頭電気工事 1908 1913 981,466 2,000馬力 大甲電気工事 1910 1912 379,513 1,200馬力 二層行渓電気工事 1912 1918 3,204,921 4,000馬力 出典:①台湾総督府編『台湾事情』(昭和15年12月発行)、466頁。②『台湾総督府臨

時情報部部報』、第8巻第90号(昭和15年3月1日発行)、ゆまに書房、2005年 11月、217~218頁。③武内貞義『台湾(改訂版、上)』(新高堂書店、昭和3年1月 3版)、南天書局、1996年8月、216~217頁。

第三次水利組合時期

大正10年(1921)12月28日に律令第十号「台湾水利組合令」(計42条)が、翌年5月22 日に府令第百二十三号「水利組合施行規則」(計6章67条)が、また同年11月に訓令「水 利組合規約準則」(計6章 42条)が公布された。そしてまもなく、総督府は官設埤圳を共 同埤圳へと変更させ、その水利管理の責任はすべて地方州庁や民間組合に移った。水利組 合においては、地方知事や庁長から直接任命された組合長一人が置かれた。組合長の任期 は四年であり、その仕事は水利組合の内部事務である34。この水利組合は、日本殖民期にお いて相当程度以上組織化された、最も完備した水利組織であった。この時期には、運営効 率の向上のみならず、組合員の配置転換においても公共埤圳時期を超過した。地方州庁の 監督下、水利組合は農業灌漑の整備および水害予防などといった役割を十分に果たすこと ができた。

「台湾水利組合令」が発布された三年後(1924 年)には、全島で 95 組合の水利組合が あり、その内訳は台北州34、新竹州16、台中州20、台南州6、高雄州15で、また台湾東 部の台東・花蓮港両庁には4組合あった35。このうち、もともと官設埤圳に属していた新竹 州桃園大圳は、大正8年(1919)8月に公共埤圳組合になったが、昭和5年(1930)10月 に至って民間組織性の団体である水利組合になった。大園市蔵『台湾始政四十年史』の第 四篇に記載されている「水利組合一覧表」(361~363 頁)によれば、昭和 8 年(1933)3 月の全島の水利組合は99組合であり、台北州34、新竹州17、台中州27、台南州7、高雄

州19、台湾東部の台東・花蓮港両庁5とのことである36。以上をみると、台中州の水利組

合の増加が最も多い。これは、台中州が米とバナナの産地に関わっているからである。1941 年の太平洋戦争勃発後、総督府は管理および経費を考量し、水利組合106から38組合へと

34徐世大纂修『台湾省通志稿巻四経済志水利篇』、133~134頁。

35呉田泉『台湾農業史』、304頁。

36大園市蔵『現代台湾』、日本植民地批判社、1934年、361~363頁。

ドキュメント内 Microsoft Word - 表紙 (ページ 70-78)