第四章 台湾米の海外輸出
第四節 台湾米の沖縄への輸出
(一)台湾米の沖縄への輸出条件―航路と運輸
周知のように、台湾と沖縄諸島は四面を海に囲まれているため、輸出のための唯一の交 通手段は海上航運であった。ここでは、台湾米がどのように沖縄に移出されたかについて 述べたい。
明治 29 年(1896)4 月に民政が施行されて日本人の自由渡航が許され、陸海軍御用船、
民間船が不定期に日本と台湾間を連絡したが、海運交通が不便であったため、同年 5 月に 大阪商船会社に補助金6万円が支給されて、1,000トン級の須磨丸、明石丸、舞鶴丸の3隻 による毎月 3 回の内台定期航路が開始された114。この日本と台湾との定期航路は、沖縄と 八重山(Yaeyama Islands)に寄港した。
明治10年(1877)に那覇港に近代的な港湾施設が築造された。日本本土と台湾との分岐
114台湾総督官房調査課『施政四十年の台湾』、272~273頁。
関東地方 関西地方 各年日本に
輸入総額
各年台湾米 生産総額 東京 横浜 合計 大阪 神戸 合計
1939年(昭和14) 1,262,106 221,942 1,484,048 440,310 725,815 1,166,125 4,106,712 9,151,740 1940年(昭和15) 724,706 46,620 771,326 679,716 391,727 1,071,443 2,825,931 7,901,492 1941年(昭和16) 610,601 23,100 633,701 395,868 287,851 683,719 1,948,588 8,393,040 1942年(昭和17) 382,670 145,741 528,411 378,006 265,060 643,066 1,865,838 8,198,271 1943年(昭和18) 167,660 65,801 233,461 447,253 338,836 786,089 1,809,441 7,880,624
総計 3,147,743 503,204 3,650,947 2,341,153 2,009,289 4,530,442 12,555,970 41,525,167
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点となり、沖縄における最も重要な輸移入港となった。大阪商船の定期航路は月 5 回、那 覇港を出港し、宮古、八重山、西表を経由して、台湾の基隆港との間を往復した。使用船 は基隆丸、宮古丸、八重山丸であった115。当時における台湾と沖縄とを連絡する唯一の直 行便であり、湖南丸116、慶運丸の2隻はともに1,000トン級の中型船であった。また沖縄・
基隆間は、先島諸島(Sakishima Islands)間の船客と、沖縄特産泡盛117の原料である輸入 外米が主要貨客であった118。台湾と沖縄航路が直結されたため、両地の貿易は急増し、台 湾の特産品が沖縄に移出されるようになった。
これに関する『台湾日日新報』の記事が二つあり、そこには台湾・沖縄間航路の一般的 な状況が見られる。
記事①『台湾日日新報』、第6506号、大正7年(1918)8月2日「島米沖縄移出 山 下汽船就航か」
沖縄にては戦前迄は盛んに外米を輸入しつヽありしも、最近二三箇年は外米の輸入全 然杜絶し主として本島米を輸入し居れるが、其の額頗る多額にして同地の消費米は一 箇年二五万袋に達し居る状況なれと、近年船腹不足の為め本島より直接同航路に就航 する船舶なく、故に本島米は一旦基隆より之を神戸に送り神戸より更に沖縄に転送し 居る有様にして其間多大の運賃、手数及び長時日を要し不便不利尠からず、旁々移出 米商は此機会を利用して沖縄に本島米の地盤を造るべく決心し居たるが、今回偶々山 下汽船の内藤氏一行の来台あり、内藤氏等は右の事情を聞き兎に角試験の為め、山下 汽船に依りて輸送すべき協議さへ纏りたる。...119
記事②『台湾日日新報』、第13633号、昭和13年(1938)3月5日「那覇基隆線一航海 二日を短縮」
大阪商船の那覇基隆定期は、現行十四日間に往復一航海のところ沖縄県当局よりの要 望もあり、沖縄台湾間の物貨輸送の円滑を図る為め、荷物輻湊期たる十二月より六月 に至る七ヶ月間に限り、那覇、基隆両地二泊一航海往復十二日間に短縮し、三月九日 両地発より実施することとなった。発着日時、寄港地日割は次の通りである。
往 那覇 第一日 後四・三〇発 宮古 第二日 午前着午後発
復 基隆 第七日 後四時発 西表 第八日 午前着
115柴山愛蔵編『台湾之交通』(1925年刊本)、成文出版社、2010年6月、428頁。
116湖南丸は、大正4年(1915)大阪商船の貨客船として大阪鉄工で製造された。1943年12月 21日、米軍水艦グレイバックの魚雷攻撃を受け、口永良部島西方約十浬地点で沈没した。湖南 丸遭難については、保坂廣志「平和研究ノート-戦時下の沖縄定期航路船舶遭難に関わる実相」、
『琉球大学法文学部紀要. 地域・社会科学系篇』(三)、1997年3月、38~43頁、を参照。
117泡盛は沖縄を代表する蒸留酒である。沖縄産の泡盛と外米の輸入については、宮田敏之「泡 盛とタイ米の経済史」、西川潤、松島泰勝、本浜秀彦編『島嶼沖縄の内発的発展』、藤原書店、
2010年所収、140~162頁、を参照。
118日本経営史研究所編『創業百年史』、大阪商船三井船舶、1985年、152頁。
119『台湾日日新報』影印本(69)、第6506号、大正7年(1918)8月2日「島米沖縄移出 山下 汽船就航か」、五南図書、1994年、248頁。
177 航
八重山 第三日 午前着 第四日 午後発 西表 第四日 午前着 午後発 基隆 第五日 午前着
航
第九日 午前発 八重山 同上 午前着
午後発 宮古 第十日 午前着 午後発 那覇 第十一日午前着120
記事①は、第一次世界大戦の影響が直接海運界に波及し、世界における深刻な船舶不足 と積載貨物の増加によって、運賃が暴騰したという内容である。日本の場合は、大正 7 年 (1918)に入ると船舶がますます不足し、日台航路経営の三社である大阪商船、日本郵船、三 井物産の経営は難航し、ついには有力社外船主に協力を求めるようになった。山下汽船は 大正8年 (1919)1月、初めて日台定期航路経営に進出した121。その後、大正10年(1921)
からこの山下汽船は沖縄航路にも参入し、内台航路の途中港として那覇港に月 2 回の寄航 を実施した。記事②によれば、沖縄当局の要求により、荷物輻輳時期において沖縄・台湾 間の航海時間が大幅に短縮され、もとは往復14日の航程が12日になったとのことである。
以上のような沖縄・台湾航路の開設によって、両地の貿易が促進され、台湾米の販売はさ らに活発化した。
(二)沖縄県における米消費の推移
沖縄県における県民の米消費の変遷については、『台湾米穀移出商同業組合月報』第 33 号、大正8年(1919)9月10日付の「沖縄県那覇食糧消費変遷」に、明治から大正初期の ものが記されている。この期間は三段階に分けられる。
一、 明治元年より同三十年(1868~1897)頃迄の消費状況の変遷
明治元年頃は那覇市街地に於ては上流階級、中産階級にのみ米食を為すに止り、中 産階級以下に至りては一般甘藷を常食とせり…明治十二年(1879)廃藩置県122後政 府の官吏派遣に伴ひ、内地米の移入の途開かれ、漸次一般米食の風を生じ、日清戦 後より三十年頃に至りては米食は著しく増加せり。
二、 明治三十年頃より大正元年(1897~1912)迄の消費状況の変遷
社会の進歩と共に甘藷食より米食に向上するもの多く、特に日露戦役に於て経済界 の異常なる好況により、生活の向上を促し外国米、台湾米、朝鮮米の輸入盛んに行 はれ…
三、 大正元年以降現在に至る間(1912~1919)の消費状況の変遷
120『台湾日日新報』影印本(175)、第13633号、昭和13年(1938)3月5日「那覇基隆線 一 航海二日を短縮」、五南図書、1994年、56頁。
121山下新日本汽船株式会社社史編集委員会編『社史合併より十五年』、1980年、410頁。
122廃藩置県については、西里喜行著・胡連成等訳『清末中琉日関係史研究』、社会化学文献出 版社、2010年4月、上冊、280~291頁、に詳しい。
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米食即ち外米食は漸次下層階級にも普及しつヽあるに際し、県当局の糖業奨励に全 力を傾注せる結果、藷作より蔗作に移るもの多く、…昨年(一九一八)五月頃より 米価の大暴騰に伴ひて、上流一部の外米を混用若くは単用するに至り、他府県の如 く甘藷、麦、粟其他雑穀類を混用常食とするもの稀にして、衛生上又は祭礼用とし て臨時に混食するに止まるのみ。123
従来、沖縄において、県民は甘藷を常食としているとされていた。明治初期には沖縄の 上中産階級のみが米を食べ、明治末期に至って日露戦争により日本の全国的な好景気に伴 って一般庶民の生活水準も向上し、米の需給が大幅に増えた。しかしながら、沖縄産米量 は市場の需要を充たせず、その不足分は外国や台湾から輸移入されていた。外国米とはす なわち暹羅米(シャム米)や仏領インド産米であった。大正に入ると、外国米は中下層階 級の家庭にまで普及し、一般県民の米の消費高が急激に増加し、米が主要な食糧となった。
また『台湾米穀移出商同業組合月報』第21号、大正7年(1918)9月10日付の「那覇 港移輸入米状況」には、台湾米を必要とする理由として以下のように記されている。
去る四月外米管理令の発布以来迄に輸入された外米丈でも六万袋以上に達してる、而 して一般県民の米の消費高は急激の勢ひで増加しつヽ…其原因は人口の増加や甘藷の 缺乏等にも因るが…県民一般の生活程度の向上に因るものと思ふ、即ち以前は中下の 家庭にては甘藷を以て日常生活の主食物として居たのが、近年は都鄙を通じて大てい の家庭では外国米を主食物として居る状態である…124
大正7年(1918)4月の外米管理令の発布以来、輸入された外国米は6万袋以上に達した。
県民の米の消費高が急激に増加したのは、県人口の増加や甘藷の缺乏などが直接的な原因 であった。また日本国内における米価の大暴騰、米騒動という間接的な原因もあった。こ の頃の沖縄では、米価高騰の影響で、上流階層の一部の県民も外国米を混ぜて用いていた ようである。
大正初期の沖縄県における食糧消費状況は『台湾米穀移出商同業組合月報』第36号、大 正8年(1919)12月10日付の「沖縄県と食糧」に記録されている。
同県下に於ける主要食糧品 最近の調査に係る同県の総人口は五八万余人にして 今や六十万に垂々の有様なる…125
これによると、沖縄県民60万人中、僅かに3分の1が米を食べていたという。その内訳は、
内地米を食用している人口が7万人、外米を食用している人口が13万人であった。残りの 40 万人は、甘藷を主食としていた。沖縄の食糧消費に関する状況は次のように書かれてい る。
123「沖縄県那覇食糧消費変遷」、『台湾米穀移出商同業組合月報』第33号、大正8年(1919)
9月10日、台湾米穀移出商同業組合事務所編輯、9~10頁。
124「那覇港移輸入米状況」、『台湾米穀移出商同業組合月報』第 21号、大正 7 年(1918)9 月 10日、台湾米穀移出商同業組合事務所編輯、13頁。
125「沖縄県と食糧」、『台湾米穀移出商同業組合月報』第36号、大正8年(1919)12月10日、
台湾米穀移出商同業組合事務所、13~14頁。