第二章 台湾米生産近代化の基礎
第一節 土地調査
(一) 日本の殖民地になる前の土地制度とその問題
日本の領台以前、すでに福建や広東からの移民が台湾を開墾しており、そこには移民開
1①井出季和太『台湾治績志』、台湾日日新報社、昭和12年(1937)2月、323頁。②鶴見祐輔
『(決定版)正伝後藤新平(3)台湾時代』、藤原書店、2005年2月、305頁。③北岡伸一『後 藤新平・外交とヴイジョン』、中央公論社、2007年3月五版、47頁、を参考。
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墾社会であった当時の農業社会に存在していた特殊な問題がいくつかある。康熙二十三年
(1683)に清朝が台湾統治した後、大陸沿岸の福建の漢人が続々と台湾海峡を渡って台湾 の南部に上陸した。彼らによる開墾の足跡は、南部から北部まで広く見られ、当時の漢人 はいわゆる「無主」(実際には台湾原住民が所有)とされた広い荒地を開墾し、この開発の 過程において特殊な「墾佃制度」2が始まった。
まず、富豪や地主士紳が台湾地方官府に官地(無主地は官府所轄であった)の開墾許可 書を申請することで、官方の「墾照」(開発許可証)が取得され、その土地の所有権が認め られる。こうした富豪や地主士紳は、「墾首」あるいは「業主」と呼ばれ、彼らは清朝統治 下における台湾荘園の豪族であった。そして、土地の所有権を取得した墾首は、佃戸を募 って未墾地を開墾させ、開墾耕作が始まるのである。通常、墾首は佃戸に三年以内に未墾 地を開発することを要求し、また四年目から毎年、若干石(1石=1.80391 公石)の定額租
(主に稲穀)を納付することが必要とされた。事実上、佃戸と墾首の間には契約関係が成 立しており、墾首から土地の耕作が与えられる。しかしながら、時間の経過や世代の変遷 によって、墾首とその土地との間の直接的な関係が薄くなると、佃戸には「大租権」が与 えられる権利が残されるのみとなった。佃戸の安全は墾首に保護されるが、佃戸の生活に 余裕が出てくると、耕地を他の現耕佃人(佃農)に譲ることが多くなり、佃戸は「小租戸」
となった。こうして佃戸は新しい業主という立場で、他の佃農から小作料を徴収するよう になった。いわゆる小租権である3。
上述した状況では、同じ耕地に二つの収租権が現われている。佃農は、小租戸に一定比 例の小作料(収穫量の約 40%)を納めるが、これは「小租」と呼ばれた。そして小租戸は 大租戸に地租(約10%)を納める。これが「大租」である4。また、熟番(台湾平埔族)の 土地の開墾権は大租戸の手に落ちていったが、お互いに契約を結んだ場合には、毎年、熟 番業主(蕃社の族長など)に若干石の番租(番大租)を納めなければならなかった5。当然、
2「墾佃制度」という土地制度は、台湾の移民開墾史において一般富豪や地主士紳または有力者 が政府に荒地を申請し、佃戸を招いて土地耕作させたものといわれている。①王益滔『光復前台 湾之土地制度與土地政策』、台湾研究叢刊第90種、台湾経済研究室、1966年9月、61~62頁。
②呉田泉『台湾農業史』、台北自立晩報文化出版部、1993年4月、252~253頁、を参見。
3①東嘉生『台湾経済史研究』、南天書局、1995年、70~72、255~257頁。②東嘉生著、周憲 文訳『台湾経済史概説』、帕米爾書店、1985年8月、40~42、150~151頁。③井出季和太『台 湾治績志』(昭和12年版)、371~372頁。④戴炎輝「清代台湾之大小租業」、『台北文献』
第4期、台北市文献委員会編印、1963年6月、8~24頁。⑤黄富三「清代台湾的土地問題」、
『食貨月刊』復刊第4巻 第3期、1974年6月1日、81~82頁、を参照。
4 清道光以前の小租額について、上田は一甲約32石、中田は24石、下田は16であった。大租 額では、上田は約8石、中田は6石、下田は4田であった。清朝における台湾大租と小租の租 額問題に関する先行研究としては、①陳金田訳『臨時台湾旧慣調査会第一部調査第三回報告書:
台湾私法(第一巻)』、台湾省文献委員会、1990年、178頁、187頁。②東嘉生『台湾経済史 研究』(昭和19年初版)、72~76頁、259~267頁。③王益滔『光復前台湾之土地制度與土地 政策』、63~65頁、がある。
5清雍正三年(1725)以降の番大租の租率はほぼ漢人と同じである。すなわち上田は約8石、上 園は約4石であった。但し、乾隆三十年(1765)以後、番大租の租率は約60%を減って、上田は
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大租戸は漢人の佃戸を募って番地を開墾させた。この租佃関係と一般によく見られた官地 の墾佃関係はほぼ同じものであり、大きな差異はない。しかし、台湾官府は番人の生存す る権利を守るために、番人業主の地租の納付を免除した6。
表1 道光以前の田園当たりの大租戸所得(単位:石)
上田 中田 下田 上園 中園 下園
大租額 8.00 6.00 4.00 6.00 4.00 2.00
正供額 2.74 2.08 1.758 2.08 1.758 1.716
差引所得 5.26 3.92 2.254 3.92 2.242 2.84 出典:①臨時台湾土地調査局編『清賦一斑』(明治33年版)、南天書局、1990年、7~8頁。
②東嘉生『台湾経済史研究』(東都書籍株式会社台北支店発行、昭和19年初版)、南天 書局、1995年影印本、261頁。
注:一石=日本6.38斗
表2 道光以前の田園当たりの小租戸所得(単位:石)
上田 中田 下田 上園 中園 下園
小租額 32 24 16 24 16 8
大租額 8 6 4 6 4 2
純所得 24 18 12 18 12 6
出典:東嘉生『台湾経済史研究』(東都書籍株式会社台北支店発行、昭和19年初版)、南天書 局、1995年影印本、266頁。
上述したような特殊な土地制度の下、墾首と佃戸との関係は本質的に一定程度の封建的 性格を持つ。矢内原忠雄(1893~1961年)の『帝国主義下の台湾』には、以下のように述 べられている。
かくの如く清国時代に於ける台湾土地制度は封建的性質を有したるものであつた。而 して大租権は土地と直接の関係なく、ただ大租収納の権利となるに至り、従つて大租 権小租権は別々に譲渡せられたるにより、同一の土地につき何人が大租戸たり小租戸 たるや互に相知らざるものあり、土地に関する権利関係は紛乱を免れなかつた7。 清朝統治下における墾佃制度は、大租戸、小租戸および現耕佃人(小作人)との三者間の
一甲3.2石となり、上園は1.6となった。その原因は、番人業主が租賦(地租)を免除されたた めである。①伊能嘉矩『台湾文化志』(中国語翻訳版)、台湾省文献委員会、1991年6月、下 巻、343頁。②東嘉生『台湾経済史研究』、221~222頁、を参照。
6陳金田訳『臨時台湾旧慣調査会第一部調査第三回報告書:台湾私法(第一巻)』、198~199 頁。
7矢内原忠雄『帝国主義下の台湾』(岩波書店、昭和4年10月)、南天書局、1997年12月、
19頁。
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租佃関係にあり、その契約関係の変遷を東嘉生(台北帝大文政学部助教授)は二段階に分 けた。第一段階は初期封建時期で、康煕、雍正から乾隆(1684~1795年)年間に墾首豪族
(大租戸)が土地を所有し、彼らの荘園が急速に拡大していった時期である。第二段階は 後期封建時期で、嘉慶から光緒初年(1796~1875年)にかけて、台湾土地の租佃関係が普 通の三級関係になったため、大租戸の勢力が急激に衰退し、小租戸が勢力を漸く増した時 期である8。そしてこの第二段階の時期は、台湾墾佃制度の最盛期でもあった。
台湾地方官府は毎年、土地業主から地租(賦や正供)を徴収しており、大租戸は直接府 県に納めなければならなかった。土地の税率は毎一甲田あるいは園の等級によって決めら れ、収穫された穀物が一定の割合で徴収されるものであった9。しかし、当時各地で大小租 権が転売や譲渡されたり、侵略される状況がよく見られ、ついに土地権の変動はますます 複雑になっていた。とりわけ、土地開発の過程においては、諸多の土地権に隠された耕作 地(いわゆる隠田)が存在し、税金を支払わずに耕作されているということがあった10。こ うしたことは、台湾官府の税金の賦課に大きな影響を与えた。租税の実質収入を増加させ ることができず、財政の困難に陥ってしまったのである。
清光緒十二年(1886)に、台湾初代巡府劉銘伝(1836~1896)は、土地問題などの欠点 を改革するため、「清賦」という事業を行った11。その目的は、台湾の財政収入を確保し、
本格的に近代化施設の建設に着手することを可能にするためであった。同年夏、劉銘伝は 台北府および台南府に清賦総局を設置し、また各庁県に分局を建て、そして「清丈章程」
を公布した。当時、改革の方法には二つがあった。まず、農地の測量と精査を実施して土 地図冊を作成した後、土地業主に「丈単」を交付して土地所有権の確認書類とする一方、
隠田の整理を行うことである。そして、土地業主権の最終帰属を確立すること、つまり、
大租戸の大租権を取り消し、小租戸を土地所有権の唯一業主とし、納税の義務を負わせる ことである。しかし、劉銘伝が提出したこの改革は、各地の大租戸から反対の声が相次い
8①東嘉生『台湾経済史研究』、225頁。②王益滔『光復前台湾之土地制度與土地政策』、63頁。
9清雍正七年(1729)以前、一甲の田や園の地租標準は、上田8.8石、中田7.4石、下田5.5石 となり、上園5石、中園4石、下園2.4石となったが、乾隆九年(1744)以後、地租の標準は 毎甲上田2.74石までに減って、中田2.08石、下田1.75石となり、上園2.08石、中園1.758
石、下園1.716石となった。清朝統治以後(1683年)、台湾の地租は納穀制による徴収となっ
たが、道光二十二年(1843)以後は納銀制となった。当時、穀物一石は約メキシコ銀二円の価 値があった。①伊能嘉矩『台湾文化志』(中国語翻訳版)、中巻、308頁。②東嘉生『台湾経済 史研究』(昭和19年初版)、74~76頁、203~204頁。③連横『台湾通史』、衆文図書、1979 年、上冊、巻八田賦志、190~191頁。③程家穎『台湾土地制度考査報告』、台銀経済研究室、
1963年11月、4~6頁。④周憲文編著『台湾経済史』、開明書店、1980年5月、347頁、を参 照。
10井出季和太『台湾治績志』、371~372頁。
11「清賦」の資料は、①臨時台湾土地調査局編『清賦一斑』(明治33年刊本)、南天書局、1990 年。②伊能嘉矩『台湾文化志』(中国語翻訳版)、中巻、314~318頁。③郭海鳴「清賦」『文 献専刊』第四巻、第一、二合期劉銘伝特輯、台湾省文献委員会、1953年8月、31~48頁、を参 見。