• 検索結果がありません。

台湾米生産の条件と状況

ドキュメント内 Microsoft Word - 表紙 (ページ 118-147)

第三章 台湾米の生産

第二節 台湾米生産の条件と状況

(一) 生産の条件

台湾米の生産条件は自然条件、文化社会と生産技術条件の二つに分けられる。

(1)自然条件

台湾本島は南北の長さが97里(1里=3.927メートル)で東西の幅は広い所で36里、面 積は附属の島嶼を合わせて2,332方里ある31。全台湾の面積は日本の総面積の約9.40%とな り32、日本の約10分の1である。台湾を縦走する五つの山脈が、島の総面積の半分近くを 占める。中央山脈は台湾の脊稜をなし、そのほかの主な地勢に、休火山、丘陵、台地、高 台、沿岸平野、盆地などがある。可耕地は、島の面積の30%にすぎない。そしてその可耕 地は主に台湾西部の海岸内陸に集中している。嘉南平原は台南市や嘉義市を含む台湾最大 の平原であり、長さが180キロメートル、東西の幅が43キロメートル、面積は4,550平方 キロメートルである。それに次ぐ面積の平原は屏東平原であり、その面積は約 1,160 平方 キロメートルである。このほか、台湾中部の台中盆地(370 平方キロメートル)、台湾北部 の台北盆地(200 平方キロメートル)、宜蘭平原(320平方キロメートル)も主な稲作地帯 である33

台湾において稲作が盛んになった背景には、一般的に言って、様々な自然的条件と稲作 栽培の環境との適合が大きく影響している。台湾のほぼ中央部(嘉義と花蓮)を北回帰線 が通っており、北は亜熱帯気候、南は熱帯モンスーン気候下にあり、日本と比べると年間 を通して温暖な気候である。年平均気温は台北の21.7度(摂氏)と恆春の24.4度の間にあ る34。台湾の平均年間降水量は 2,442mm(ミリ)と豊かな降水量に恵まれ、高山では平地 より降水量が多く、阿里山の平均年間降水量は3,943 mmである35。西部平原の一年の日照 時数は2,000時間以上、年間日照時数の多いのは台南の2,615時間、少ないのは基隆の1,489

31武内貞義『台湾』(1915年初版、1928年第三版)、南天書局、1996年8月、上冊、4頁。

32台湾総督府殖産編『台湾の農業』(昭和13年版)、1頁。

33台湾省文献委員会編『台湾省通志稿巻四 経済志農業篇』、台湾省文献委員会、1954年6月、

144~145頁。

34武内貞義『台湾』、上冊、25~27頁。『台湾の農業』(昭和13年版)、9~10頁。

35武内貞義『台湾』、上冊、27~30頁。『台湾の農業』(昭和13年版)、10~11頁。

108

時間であり、東部の花蓮港は1,642時間、台東では1,926時間である36

このような条件下で発達した台湾の稲作において、最初に栽培されたのは籼稲品種(在 来米)で、これは年平均気温17度の熱帯地域に適合し、亜熱帯北部より南部の熱帯地域に 至るまで栽培が分布している37。台湾における粳稲品種(日本稲種)の栽培は長期的な育種 戦略がとられ、ついに1922年に選抜、交配を繰り返すことによって優れた新品種「蓬莱米」

の栽培に成功した。

台湾の自然環境の中で、台風による稲作へのダメージである。台風が台湾に来襲して影 響を与える時期は7~9月が中心で、1897年~1925年の二十八年間に67個の台風の脅威 に襲われ、毎年の平均は2.4個であったが38、1907年と1916年に台風や豪雨に襲われなか った。日本統治初期(1897年)から昭和10年(1935年)までの三十八年間で、計92 個 の台風が襲い、毎年平均は同じ2.4個であった39。台湾は台風によって給水の多くの部分を 賄っているが、同時に家屋の損壊、洪水、土石流などの災害も発生した。

1897年から1946年までの間に27個の強い台風が襲来した。とりわけ、1940年8月30 日に襲った巨大台風は、風速がおよそ 30m/s 以上、最大瞬間風速がおよそ 50m/s 以上で、

降水量1,164ミリであった。1897年から1946年にかけての27個の巨大台風による災害は、

死者1,205人、土石流によって流された民家510,129棟で、田地の損害は210,524ヘクタ ール以上であった。この五十年間、台風によって台湾各地の稲田は甚大な受け、1912年 8 月28~29日の台風では19,725ヘクタールが大きな被害を受けた。また1934年7月19日 の台風では148,762ヘクタール、1940年8月30日の台風では13,573ヘクタール、同年9

月30日では3,838ヘクタールの被害を受けた。中でも、1940年8月末と9月末の台風で

は、死者計75人、流された民家計18,746棟で、田地の損害は計17,411ヘクタールに達し た40。この1940年の台風は連続で通りすぎたため、第二期稲作を破壊し、その結果、全島 の収穫量は僅か367石のみとなった。この数字は前年(1939年)の第二期収穫量(512万 石)より、145万石の減、比率にして28%の減少で、非常に大きな損害であった41。また、

1944年の台湾総督府殖産局の調査報告によると、1919年から1942年までの台湾における 災害(暴風雨)による生産損失は、毎年平均82,927甲で、その玄米収穫量の損失は184,530 石、価格にして約413万円以上の損失であったという42

(2)文化社会条件と生産技術条件

36台湾省文献委員会編『台湾省通志稿巻四 経済志農業篇』、147頁。『台湾の農業』、1938年版、

13頁。

37游修齢・曽雄生著『中国稲作文化史』、上海人民出版社、2010年4月、52頁。

38武内貞義『台湾』、上冊、30頁。

39『台湾の農業』(昭和13年版)、12頁。

40陳正祥『台湾之経済地理(図解)』、台銀金融研究室、1950年1月、11頁を、参照。

41竹本伊一郎『昭和十七年台湾会社年鑑』、成文出版社、1999 年6月、5~6頁、内外経済大観

(昭和十五年下半期)。

42『台湾稲米文献抄』、台銀金融研究室、1950年12月、14頁。元出典:台湾総督府殖産局編『過 去二十四年箇年間農作物被害状況調査』(農業基本調査書第45種)、昭和19年(1944)出版。

109

稲米の大規模な栽培と生産は、稲作に適した自然環境を除いて、また文化社会条件と生 産技術条件に配慮する必要がある。本論文の第一部第二章と第三章第一節では、土地制度、

農田水利、稲作の改良、農業の教育、農業人口などの問題に関する考察を行った。

農業移民

1895年6月に台湾が日本の殖民地になった後、台湾総督府初代民政局長水野遵(任期 1895年5月~1897年7月)は総督樺山資紀に、台湾の肥沃な土地にはなお未開発の土地 もあり、とりわけ東部の蕃地に注目して日本内地の農民を台湾に移住させること、また日 本内地からの移民は土地を開発するだけでなく、日本の文化をもたらして台湾漢人と蕃人 の社会風俗に大きな影響を与えるだろうと建言した43。そして、明治39年(1906)に島内 の情勢が安定した後、総督府は台湾の開発を進展させ、殖民地として充実させるという統 治上の必要性に基づき、内地からの移民を奨励した。明治45年(1912)まで、総督府は 38件の開墾申請を受けた。その許可面積は総計38,147甲で、実際には38件の申請のうち、

わずか9件のみが実施された。1906年から企業家(愛久沢直哉、辜顯栄、賀田金三郎)や 製糖会社(大日本製糖株式会社、塩水港製糖拓殖株式会社、台湾製糖株式会社)が日本国 内での移民希望者の募集を開始した。この頃は私営移民の時期で、企業者と製糖会社は利 益を目的とする業務を行い、移民事業は長期的な視点での戦略は立てられていなかった。

台湾総督府殖産局編『台湾の農業』には、次のように述べられている。

領台当初に於ては本事業に関し官民共に経験乏しかったこと、移民の素質概して不良 にして純農業者少かったこと、募集に当り甘言を以て誘致した結果移住条件が甚だし く相違し移民の志気を沮喪せしめたこと、自作移民でなく小作移民であったこと、交 通、衛生の施設等不備にして移住後間もなく風土病に犯されたこと等、各種の事情に

因り定著永住するものなく数年にして離散した。44

この明治末期の私営移民事業という試みは、完全に失敗であった。ここで着目したいのは、

賀田組45(1899年5月創立)の移民事業である。

明治41年(1908)1月、台湾総督府通信局兼参事官鹿子木小五郎が台東庁の状況を視察

43水野遵著、陳錦棠譯「台灣行政一斑(明治28年9月)」、『日本據台初期重要 案』(洪敏 麟編)、台灣省文獻会発行、1978年、143~150 頁。

44台湾総督府殖産局編『台湾の農業』(昭和13年版)、184頁。

45明治32年(1899)5月に賀田金三郎が賀田組を設立した。本店は台北で、支店が台南、台中、

基隆、宜蘭、花蓮港等に設けられ、台湾各地で金融、製糖、建築業、運送業、鉄道建設、港湾事 業を行った。1899年11月、総督府に東台湾官有林野地16,222町歩(1町歩=99.2アール、1.0025 甲)の開発権利を申請した。1906年、賀田組は日本福島県と愛媛県にて農業移民を募集し、台 湾の呉全城(賀田村、現在花蓮県壽豊郷志学村)、鯉魚尾(壽村)、加禮苑(現在新城郷嘉里村)

で土地開墾に従事し、主にサトウキビと稲を栽培した。①吉武昌男「台湾に於ける農業移民」、

『台湾経済年報』(1942年版)、台湾経済年報刊行会編、南天書局、1996年7月、第二輯、547

~551頁。②井出季和太『台湾治績志』(昭和 12年版)、南天書局、1997年 12月、514~515 頁。③彭明輝『歴史花蓮』、花蓮洄瀾文教基金会、1995年5月、91~93頁。④李禮仁『賀田組 及其在東台灣的開發-日治時期私營移民之個案研究(1899~1908)』、國立成功大學史研究所碩 士論文、2009年6月、38頁、58~75頁、106~116頁、を参照。

110

し、総督佐久間左馬太(任期1906.6~1915.4)に「台東庁管内視察復命書」を提出した。

それには、賀田組の東台湾における事業開拓の状況、具体的には呉全城(現在の花蓮県壽 豊郷志学村)にある賀田組農場のサトウキビと稲の栽培状況などが記載されている46

鹿子木小五郎は次のようなことを記している。国家百年の計を考え、日本内地人は台東 庁に移住すべきで、この移民拓殖の問題は直接「台湾領有の安否」と係わっており、性質 上、当然国家の事業に属するものである。現在、台東の平地には約 5 万人が住んでいる。

台東に定住する内地人が10万人に増えれば、長期的な交流の契機となり、数十年後には平 地の蕃族は大和民族になる47

明治42年(1909)に総督府は官営移民事業に着手した。翌年6月に殖産局の下で、移民課 と移民事務委員会(大正3年、1914年廃止)が大枠の実施計画、方針を決定する機関として設 置された。同時に、総督府殖産局は全島において日本農民にとって開拓に適した場所を調 査した。その結果、台湾東部の花蓮、台東両庁が最も相応しい場所だということであった。

その移民適地は45,690甲であった48。東郷実(1881~1959年)は、花蓮、台東両庁下の4 万余甲の土地は、日本からの農業移民13,333戸、総人数66,665人(毎戸土地3甲、平均5人)

を収容できる適地であると指摘した49。しかし、東台湾には日本の農業移民地としてはいく つかの欠点があった。一、蕃社が存在しており、移民に対して心理的不安を感じさせるこ と。二、海陸の交通が非常に不便であること。三、マラリヤ、伝染病の流行があること。

とはいえ、東台湾は誰も足を踏み入れていない未開拓の沃野であり、本島人も極めて少な いため、日本農業移民は簡単に自分の新しい社会を建てられるだろうとのことであった50。 そうして、東台湾は優先的に官営移民が推進される場所および農作業などの活動拠点とさ れた。

明治43年(1910)10月、第五代台湾総督の佐久間左馬太は内地人農業移民事業を行い、

九州(福岡、熊本、佐賀)、四国(徳島、香川、愛媛、高知)、本州(広島、山口、新潟な ど)から台湾への移住希望者を募集した。このために、総督府は各種の優遇制度を設け、

日本内地農民の台湾渡航を奨励した51。当時、台湾総督府が移民政策を積極的に推進し、移 民政策を実施したことにはいくつかの考えがあった。一、日本内地農民の移入によって母 国の秩序正しく勤勉な日本人の精神を台湾にもたらして本島人の模範とし、また一方で同 化の促進を図ること。二、母国の農民たちが台湾に移住することで、台湾島を日本帝国の 南進発展の基地として、広大な未開拓地と豊富な熱帯地域の開発を加速させること。三、

46鹿子木小五郎『台東庁管内視察復命書』(明治45年石印稿本)、成文出版社、1985年3月、

38頁、121~131頁。

47鹿子木小五郎『台東庁管内視察復命書』、53~59頁。

48東郷実『台湾農業殖民論』、富山房、1914年9月、422頁。また、もう一つ説は移民適地41,176 甲(田適地6,442甲を含む)がある。持地六三郎『台湾殖民政策』、富山房、1912年8月、416 頁。

49東郷実『台湾農業殖民論』、444頁。

50東郷実『台湾農業殖民論』、436~443頁。

51張素玢『台灣的日本農業移民―以官營移民為中心』、國史館 、2001年9月、53~54頁。

ドキュメント内 Microsoft Word - 表紙 (ページ 118-147)