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早期台湾米の生産

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第一章 1895 年以前の台湾米の生産と海外輸出

第一節 早期台湾米の生産

(一)台湾米の生産 (1)台湾原住民

基本的に、台湾の原住民はマレー・ポリネシア語族(Malayo-Polynesian languages)の オーストロネシア語族(Austronesians)に属している1。オーストロネシア語族は台湾、

フィリピン、ベトナム南部、マレーシア、インドネシア、マダガスカル島および太平洋の

1オーストロネシア語族について、アメリカの学者ブラスト(Robert Blust)およびオーストラ リアの学者ベルウッド(Peter Bellwood)は、いずれも台湾をオーストロネシア文化の起源地と し、いわゆる台湾島は最古のオーストロネシア語族(Proto-Austronesian)であると指摘してい る。オーストロネシア語族はだんだんと南方に広がっていき、3500B.C.頃、フィリピンのルソ ンに入り、その後太平洋とインド洋の諸島に分布した。李壬癸『台湾南島民族的族群與遷徙』、

常民文化事業、1998年3月二刷、63~64頁、を参考。Nicolas Tarling (edited by), “The Cambridge History of Southeast Asia ”, Volume 1(From Early Times to c.1500),Part 1, Cambridge University Press 1992,1999,p.112.

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三大群島であるポリネシア、ミクロネシア、メラネシアの島々に拡散したとされる。この オーストロネシア語族は、昔から稲米やサトウキビの栽培に従事しながら豚、犬、鶏とい った家畜を飼っていた。オーストロネシア語族の諸民族の多くが航海用のアウトリガー ・ カヌー(Outrigger canoe)を造り、これを用いて広範な交流を行っていた。

早期の台湾原住民の原始的な生産形態には主に三つの形式がある。狩猟、捕漁、農耕で ある。狩猟は、原始経済生活において最も重要な活動であり、次に重要なのが捕漁であっ た。大体としては、狩猟採集生活が営まれていた2。農耕の場合では、各家族がその集落周 辺で選ばれた公共領域や家族の私有地で農作物が栽培されていた。当時、原住民の集落内 部には土地私有制などの法律概念はほとんど存在していなかった。その主要な農耕の方式 は、火耕および輪耕という二つの種であり、原住民が耕地で使用する農具は簡単な鋤と山 刀などであった。台湾の熱帯と亜熱帯地帯では、主な栽培農作物は大まかに粟、イモ、陸 稲に分けられる。この時期には粗放農耕が行われ、肥料は使用されず、また陸稲の収穫は 直接に手作業で行われたため、その収穫量は大きく左右された3

台湾原住民の陸稲を栽培に関する最初の記録は、明代の福建文人陳第4(字季立、号一齋)

の「東番記」であり、そこには以下のようにある。

東番夷人不知所自始、居彭湖外洋海島中、起魍港、加老灣,大員、堯港、打狗嶼、

小淡水、雙溪口、加哩林、沙巴里、大幫坑、皆其居也、斷續凡千餘里。…無水田、治 種禾、山花開則耕、禾熟、拔其穗、粒米比中華稍長、且甘香。5

1603年(明萬暦三十一年)に福建浯嶼守将沈有容が当時「東番」と言われた台湾に来て、

日本の海賊を駆逐した6。これに隨行した陳第は、台湾原住民の社会風俗や生活、陸稲栽培 などの農耕技術を記録した。当時、原住民の田地整理や陸稲の栽培時期は全て山花の咲く 季節によるものであったと考えられる。台湾で生産された米は中国米より細長く、さらに 甘い香りがする。

2台湾原住民の狩猟活動に関する先行研究は、林英彦「台湾先住民在狩猟時期之経済生活」、『台 湾経済史十一集』、台湾研究叢刊第113種、台銀経済研究室、1974年12月、6~7頁。

3周憲文「台湾之原始経済」、『台湾之原始経済』、台湾研究叢刊第70種、台銀経済研究室、

1959年5月、17~20頁、を参照。

4陳第(1541~1617年)字季立、福建連江県人。陳第の生平については、①『乾隆福州府志』、

乾隆十九年(1754)刊、中國地方志集成・福建府縣志輯、上海書店出版社、2000年10月、第 2冊、卷五十四、142~143頁。②『光緒漳州府志』、光緒三年(1877)刊、中國地方志集成・

福建府縣志輯、第29冊、卷五十、1196頁。③『連江縣志』、民國十六年(1927)鉛印本、成文 出版社、1967年12月、卷二十六、 222頁。④金雲銘『陳第年譜』、台湾文献叢刊第303種、

台銀經濟研究室、1972年5月。

5沈有容『閩海贈言』、台湾文獻叢刊第56種、台銀經濟研究室、1959年10月、24~25頁。何 喬遠編『閩書』、福建人民出版社、1995年12月、第5刷、4359~4360頁。

6沈有容(1557~ 1628年)、字は士弘、寧海と号す。明朝安徽省宣城県の人。彼の生平および 事績は、『明史』、中華書局、1974年4月、第23冊、巻二七〇、6938~6939頁、を参照。1603 年1月18日(明萬暦三十年十二月七日)に沈有容は福建から水師を率いて澎湖・台湾に至り倭 寇討伐を行った。周婉窈『海洋與殖民地台湾論集』、聯経出版社、2012年3月、125~126頁、

を参照。

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清康煕五十六年(1717)に周鐘瑄(字宣子、貴州貴筑人)が編纂した『諸羅県志』第八 巻「番俗」には、「耕穫樵牧多任女」7と書かれている。つまり、原住民の生活の中で、農耕、

収穫、たきぎの採集および畜類の放牧は、ほぼ婦人に任せられていたのである。清乾隆九 年(1744)に台湾巡台御史に就任した六十七(字居魯、満洲人)の『番社采風圖考』には、

以下のようにある。

番俗以女承家、凡家務悉以女主之、故女作而男隨焉。番婦耕稼、備嘗辛苦、或襁褓負 子扶犁、男則僅供饁餉。8

この記述からみると、平埔族は母系社会で、女子がその家や財産を継ぎ、農耕や稲米栽培 に従事しなければならなかったということになる。彼女らは子供を襁褓にくるんで負ぶい、

両手で犁を使用したのである。いわゆる、18世紀初頭の原住民の耕作方式は、すでに外来 の漢文化や技術の影響を受けるようになっており、犁の使用は早期原住民の農業生活にお いては存在していないものであった。「舂米」は、古くはその作業は主として女性が臼と杵 で行っていた。昔から原住民は木造の臼と杵を使って舂米の作業に従事した。満州人六十 七の『番社采風圖考』にも「舂米」の条目が見られ、「番無碾米之具、以大木為臼、直木為 杵、帶穗舂、令脫粟、計足供一日之食、男女同作、率以為常。」9とあるように、一般的に、

当時の原住民は食米を先に準備する習慣がなかったため、「米、隨用隨舂」10という形で行 った。

19世紀後半、イギリス出身のWilliam Campbell (1841~1921年)が宣教師として、1871 年に台湾に来た。台湾では四十六年間(1871~1917年)に渡って宣教師や台湾盲人教育の 先駆者として活躍し、中南部のいくつかの原住民部落に足を運んだ。彼の著作“Formosa under the Dutch”には、17世紀オランダ宣教師カーディディウス(Candidius)の記録が引 用され、原住民婦人による稲作栽培が詳細に説明されている。それによると、原住民婦人 が稲作を栽培する際には、馬、牛、犁などが一切使われず、彼女らはナイフのような農具 を用いていた。また、毎朝、原住民婦人はただ一日分の米穀を脱穀したり籾すりをしてい たという11

(2)オランダ統治時代(1624~1662年)

1624年にオランダ人が台湾西南海岸の大員(現在の台南市安平区)に上陸し、ここにゼ ーランディア城(Fort Zeelandia)を築いた(1632年完成)。また、赤崁地方に新しい市街

7周鐘瑄『諸羅縣志』、1717年刊、台湾文獻叢刊第141種、台銀經濟研究室、1962年12月、第 2冊、154頁。

8六十七『番社采風圖考』、台湾文獻叢刊第90種、台銀經濟研究室、1961年1月、2頁、78頁。

9六十七『番社采風圖考』、3頁。

10高拱乾『台湾府志』、1696年刊、台湾文獻叢刊第65種、台銀經濟研究室、1960年2月、第3 冊、188頁。

11 William Campbell, “Formosa under the Dutch”. Described from Contemporary Records,Orginal edition published in London 1903,Reprinted by SMC Publishing Inc.,1992,

Taipei,p.10. 中村孝志「荷蘭時代之台湾農業及其獎勵」、『台湾經濟史初集』、台銀經濟研究室、

1954年9月、55頁。

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を開いてプロビンシア城(Proventia)を建設し、台湾島統治の中心とした。オランダ人は、

台湾を占有して以後、台湾の海洋地理的位置の優勢性を活かして、東アジアの中国や日本、

東南アジアなどの地域との国際貿易の中継地とした。

オランダ統治初期、オランダ人は日本と東南アジア(主に暹羅)から食糧を輸入し、台 湾島内の需要を満たした。その原住民対策は、部落に対する武力行使によるものであった。

その後、オランダ人は原住民に宣教したが、その際にローマ字を原住民に教えた。またオ ランダ人は台湾土地開墾の必要性を十分に認識するようになった。1634年以後、オランダ 東インド会社(Vereenigde Oostindische Compagnie、略称V.O.C.)の駐台湾行政長官 Governor Hans Putmansが中国福建沿海から壮丁、すなわち成年に達した男子を台湾へ招 きよせた。それによってサトウキビを種植して砂糖を製造し、日本、波斯(現在イラン)

等に輸出した。1636年に台湾で生産された白砂糖は12,042斤、赤砂糖は110,461斤に達して おり、その全てが日本に輸出された12。対岸の漢人は続々と台湾海峡を渡って台湾に来るよ うになり、こうして西南部における水稲栽培の面積が拡大し、その生産量も増えた。1637 年1月、オランダキリスト教(カルヴァン教派、Calvinism)の宣教師ロバートス=ヨニス

(Robertus Junius)は、台湾米の生産量は二、三年以内に1,000lasten(1lasten=3,000リ ットル)に達するだろうと指摘している13。1,000lasten とは、30,000公石(約2,311,500 キロ)に相当する14。当時、オランダ殖民当局は、稲米の栽培と生産を奨励するために、ロ バートス=ヨニスに400リアル(real) の現金を与えた。この現金は新港社(Sincan)とそ の付近の貧困な漢人開墾者に配られた。

1638年11月オランダ駐バタビア(Batavia、現在ジャカルタ)の官方報道によると、台湾 島で捕漁、狩猟(鹿皮)、農業生産(稲米、サトウキビ)に従事している漢人は、10,000人 から11,000人ぐらいだったという15。またオランダ当局は、中国やインドから1,500頭の牛 を買い入れて、これを漢人農民たちに耕具とともに与え、こうして稲、サトウキビ、小麦、

煙草の栽培が本格的に始められた。同時に、灌漑水利のシステムも重視された。実際、漢 人はオランダ東インド会社から土地を借りて田地を耕作し、地代を納めていた。漢人はオ ランダ東インド会社が所有する土地を「王田」と称し、農耕漢人は土地の所有権を持って いなかった。オランダ人は台湾の土地開発において、行政管理の利便性と効率を考慮して、

「結首制」16という制度を定め、これを実施した17

12中村孝志「荷蘭時代之台湾農業及其獎勵」、57頁。中村孝志『荷蘭時代台湾史研究(上巻)概 説・産業』、稲郷出版社、1997年12月、52頁。

13江樹生譯注『熱蘭遮城日誌』第一冊、台南市政府、2000年1月、281頁。楊彦杰『荷据時代 台湾史』(1992年江西人民出版社第1版)、聯経出版事業、2000年10月、175頁。

141公石=100リットル。1公石の稲米はおよそ77.05キロ。

15①曹永和「荷據時期台湾開発史」、『台湾文獻』第26、27巻、第4-1合期、1976年3月、220 頁。②曹永和『台湾早期歴史研究』、聯経出版社、1979年7月、63頁。

16「結首制」とは、30~50人の農民が1つの「結」を編成し、「小結首」というリーダーを立てて 拓殖を行うシステムである。「結首制」に関する記録は、姚瑩(字石甫。安徽桐城人。1821年 瑪蘭通判)の『東槎紀略』巻一「埔裏社紀略」に記載されている。「昔蘭人之法、合數十佃為一

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