第二章 台湾米生産近代化の基礎
第四節 農業教育の遂行
(一)台湾教育制度の基礎
1895年4月に日本と清国との間で結ばれた下関条約により、台湾は日本に割譲されるこ ととなった。台湾初代総督樺山資紀は、アメリカに留学した伊沢修二(1851~1917)を民 政局学務部長に任じた。日本領台後の台湾教育の開拓者である伊沢修二は、台湾の学制に 関して要急事業と永久事業の二つ分けられた。まず、取り組んだのが国語教育である。殖 民地台湾の人々に対して適切な教育を実施する必要があり、これが台湾教育の要急事業で あった120。1895年7月間、伊沢修二は台北士林に芝山巌学堂を開設し、士林街にいる士紳 たちの子弟に対して生徒を募集した。これが日本統治時代における日本語教育の発端であ った。同年10月には第一回修業式を挙行され、甲組の朱俊英、柯秋潔等六名に修業証書が 授与された121。しかし、明治 29 年(1896)元旦、芝山巌学堂は住民に襲われ、教師 6 人 が殉死した122。
1896年3月31日、総督府は「台湾総督府直轄諸学校官制」(勅令九四号)を公布し、国 語学校(附属学校を含む)及び国語伝習所のいずれもが総督府の直接の管轄となった123。 また、「国語学校規則」(府令第三八号、明治29年9月25日)に依ると、台北で総督府国 語学校が設立され、該校には師範部と語学部(土語科と国語科)があった。その主な採用 対象は日本内地人(15~30歳)で、二、三年かけて教育訓練を行い、国語教育教員や人材 を養成するというものであった124。明治32年(1899)10月に総督府は正式に台北、台中、
120吉野秀公『台湾教育史』(昭和2年10月刊本)、南天書局影印、1997年12月、10~12頁。
121朱俊英、柯秋潔は1895年10月25日伊沢学務部長に連れられ日本見学をし、12月14日に帰 台した。台湾人日本内地留学の鼻祖である。井出季和太『台湾治績志』(昭和12年刊本)、南 天書局影印、1997年12月、244頁。
122芝山巌事件に関しては、①吉野秀公『台湾教育史』、第二編第四章学務官僚遭難、27~60頁。
②伊能嘉矩『台湾志』(明治35年東京文学社刊本)、古亭書屋影印、1973年3月、270頁、
学務官僚遭難の碑。③鳥居兼文『芝山巖史』、昭和7年刊本、成文出版社、2010年6月、23~
29頁「六氏の遭難」。④篠原正巳『芝山巖事件の真相』、和鳴会、2001年6月、第四章芝山巖 事件に関する文献、165~199頁。⑤林景明『日本統治下台湾の皇民化教育』、鴻儒堂出版社、
1999年10月、62~65頁。
123吉野秀公『台湾教育史』、61~62頁。
124同上、87~90頁、296~298頁。
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台南に師範学校を設けた。その主な対象は台湾人であった125。これらの教育事業は伊沢修 二が提出した「永久事業」である。1896年5月以後、台湾各地に14 校の国語伝習所が設 置され、翌年にはさらに2校(埔里社、台東)増加した126。同年10月、伊沢修二は学務部 の予算の増額を要求したが、当時の乃木希典総督から十分な支持が得られず、伊沢は部長 の職を辞した127。僅か二年間であったにもかかわらず、伊沢修二が台湾教育に対して顕著 な貢献をしたことが評価されている。
明治31年(1898)年3月に就任した第四代総督児玉源太郎と民政長官後藤新平は台湾の 近代化を強力に推し進めた。土地調査、農業改革(砂糖、米、茶)、水利電気と交通運輸事 業など一連の「産業革命」を遂行した128。同時に、後藤新平は民政長官在任の八年間に、
全島での初等教育、台湾人教員養成の師範教育、総督府医学校および農業・電信・鉄道の 実業専門教育を設けた。まず、1898 年 7 月に総督府は「台湾総督府小学校官制」(勅令第 一八〇号)、「台湾公立学校官制」(勅令第一七九号)、「台湾公学校令」(勅令第一七八号)
を公布した。当時の初等教育は二つの教育機関に分けられた。小学校は日本内地人の学齢 児童を教育する所、公学校は本島人の学齢児童を教育する所、と規定された。1898 年 10 月に総督府は台湾人児童の初等教育を普及させるため、各地方庁に公学校を設置し、同時 に国語伝習所を廃止した。ただし、恆春と台東の国語伝習所は1905年2月まで残された129。 当時の「台湾公学校規則」(明治31年8月府令第78号)の第一条には、次のようにある。
公学校は本島人の子弟に徳教を施し、実学を授け、国民たるの性格を養成し、同時に 国語に精通せしむるを以て本旨とし…130
公学校設立の目的は、国語教育を推進して同化の手段とすることであった。後藤新平は「土 人の思想、風俗、習慣を母国人に一致せしめんには、先づ母国語の普及に依る捷径とす…」
と述べている131。
125台北、台中、台南にある師範学校は、1902~1904年間に続々と廃止された。その理由は学 生の資質・能力と係わるもので、また当時の財政赤字も一因であった、1919年に「台湾教育令」
が公布され、この三ヶ所の師範学校はようやく再開した。①李園会『日据時期台湾師範教育制 度』、南天書局、1997年10月、41~46頁、115~128頁。②徐南號主編『台湾教育史』、師 大書苑、2002年7月増訂版、38~44頁。
12614ヶ所の国語伝習所とは台北、淡水、基隆、新竹、宜蘭、台中(彰化に置く)、鹿港、苗栗、
雲林、台南、嘉義、鳳山、恆春、澎湖島であった。①吉野秀公『台湾教育史』103頁、106頁、
298頁。②許佩賢『殖民地台灣的近代學校』、遠流出版社、2005年3月、30頁。③派翠西亞・
鶴見(E.Patricia Tsurumi)著、林正芳訳『日治時期台湾教育史』(Japanese Colonial Education inTaiwan,1895-1945)、宜蘭市仰山文教基金会、1999年6月、13頁、を参照。
127派翠西亞・鶴見前掲書、14頁。
128この問題について、鶴見祐輔『正伝後藤新平』、藤原書店、2005年2月、第三巻台湾時代、
336~411頁、を参照。
129①吉野秀公『台湾教育史』、186~187頁。②井出季和太『台湾治績志』、333頁。③台湾総 督府官房文書課編『台湾統治綜覧』(明治41年排印本)、成文出版社影印、1985年3月、457 頁、を参照。
130吉野秀公『台湾教育史』、192頁。井出季和太『台湾治績志』、333頁。台北国史館編印『台 湾重要歴史文件選編、1895~1945』、2004年11月、第一冊、239頁。
131井出季和太『台湾治績志』、331頁。
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1898 年末、全台湾の公学校は 55 校で、その資金源は土地税や地方での募金・寄附金で あった。公学校の生徒の年齢は8歳以上14歳以下、修業年限は六年で、教科は修身、国語、
算数、体操、漢文、女子に対しては裁縫が加えられ、その就学は強制ではなかった132。台 湾各学校の生徒は必ず明治天皇の「教育勅語」を読まなければならず、これが修身と道徳 教育の基礎であった133。1899年には、全台湾の公学校は106校あり、生徒数は10,479人
(うち女子445人)に達した。
明治37年(1904)2月、総督府は府令第 二十四号によって公学校規則の修改正を行 った。その改正の要点は手工、工、農、商業 などの実科を加えることであった134。1935 年に至って、公学校は 753 校(分教場 160 所)にまで拡大し、生徒数は380,999人(う ち女子109,990人)に達し、その中で蕃人(原
住民)は 7,107 人、学齢児童の就学率は
38.94%であった135。
写真3と4 台湾公学校の卒業証書、卒業生心得 筆者所蔵(筆者撮影)
(二)農業の実業教育
台湾最初の農業実業教育は、明治33 年(1900)11月に総督府が台北県に農事試験場を 創立したことから始まる。この時、農事試験場には講習生制度が設けられ、その講習期間 は一年間、講習生は 5 人であった。さらに同年同月、台南県にも農事試験場が設立され、
132台湾総督府官房文書課編『台湾統治綜覧』、462頁。
133①伊能嘉矩『領台十年史』(明治38年刊本)、成文出版社影印、1985年3月、105~106頁。
②杜武志『日治時期的殖民教育』、台北県立文化中心、1997年7月、36~37頁、を参照。「教 育勅語」は1890年(明治23 年)に頒布され、教育の基本方針を示す明治天皇の勅語である。
134井出季和太『台湾治績志』、333頁。
135同上、46~47頁。
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講習生七人を募集している。翌年(1901)、総督府は地方県の行政制度を廃止し、地方庁に 変更したことで、全台湾は20庁となった。これ以後、農事試験場はいずれも総督府農事試 験場に改称した。明治 34 年(1901)12 月、総督府は台湾総督府農事試験場規程(訓令第 四二九号)および講習生規程(告示第 141 号)を公布した。募集者は次の要件を満たすこ とが必要になった。それは、年齢が18歳以上であること、日本語が堪能であることまたは 二甲以上の耕地を持っていることであった。明治36年(1903)9月、総督府は台中と台南 の農事試験場を廃止し、その中心は台北にある農事試験場に移った。そして、農政学者新 渡戸稲造(1862~1933)が試験場の場長を兼任していた136。明治41年(1908)に総督府 は台北農事試験場に教育部という部門を設置し、農業の実業教育を推進した。翌年(1909)
3 月に台北農事試験場で学ぶ講習生は農事、獣医、林業と分けられた。この農事講習生は、
一、農科乙科は修業期間二年、主な科目は農業概要、土壤、肥料、作物、園芸、病虫害。
二、農科甲科の修業期間は半年、主な科目は稲作、肥料、病虫害ということであった。明 治44 年(1911)12 月に総督府は訓令第二五一号によって再び講習生規程を修正し、台北 農事試験場教育部に予科、農科、獣医科を置いた。農科の修業年限は二年を基本とし、農 事や林業に関する技術、理論を学んだ。その主な科目は農学、肥料、土壤、作物、園芸、
病虫害、林業、測量などであった137。大正11年(1922)2月に至って、台湾総督府は勅令 第二十号として台湾教育令を発布し、台湾教育において日台共学制が採用された138。そし て、公立農業学校、公立実業学校などの学校が設立され、台北農事試験場の講習生という 制度が廃止された。1901 年から 1922年にかけて、台湾総督府農事試験場を卒業した者は 872人に達している139。
大正 8 年(1919)1 月に台湾総督府は、台湾の特殊な環境条件のために、初めての「台 湾教育令」(勅令第一号)を発布して、近代教育制度の基礎を定めた。同年4月1日、総督 府が勅令第六十九号「台湾公立実業学校官制」を発布し、また5月4 日に府令第六十六号 の公立実業学校規則が公布された。それによって、入学者が通常得られる教育の資格は公 学校卒業程度で、その標準修業年限は三年となった。まもなく総督府は台中商業学校、台 北工業学校、嘉義農林学校を設立し、同じ頃に台北農事試験場教育部が廃止された140。こ の嘉義農林学校の創立によっては、台湾人子弟が農業教育を受ける機会が与えられた141。 その基本科目は、農業通論、肥料、作物園芸、農産、畜産、病虫害、林学、造林学、森林 利用学、森林経営などであった。嘉義農林学校では第三学期の頃、林学科と農学科のうち、
136 ①井出季和太『台湾治績志』、340~341頁。②吉野秀公『台湾教育史』、225~226頁。③ 劉寧顔総纂『重修台湾省通志巻六文教志学校教育篇』、台湾省文献委員会、1993年4月、369
~370頁。
137井出季和太『台湾治績志』、518頁。吉野秀公『台湾教育史』、226~227頁。
138駒込武「植民地支配と教育」、辻本雅史・沖田行司編『教育社会史(新体系日本史16)』、山 川出版社、2002年5月に所収、418頁。
139劉寧顔総纂『重修台湾省通志巻六文教志学校教育篇』、373~374頁。
140井出季和太『台湾治績志』、610頁。吉野秀公『台湾教育史』、389、425頁。
141永岡方輔『明朝より伊沢時代まで』、台北活版社出版、1925年12月、208頁。