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稲作の改良

ドキュメント内 Microsoft Word - 表紙 (ページ 78-91)

第二章 台湾米生産近代化の基礎

第三節 稲作の改良

植物分類学によると、稲は大きく二つの種類に分けられる。いわゆるアフリカイネ(Oryza glaberrima Steud)とアジアイネ(Oryza sativa Linn)である。これらはいずれも野生稲 を栽培種へと改良したものである。アフリカイネの栽培地域は、西アフリカのニジェール 川(Niger River)流域のみであり、世界の農業生産においてもさほど重要な地位を占めて いない。一方、アジアイネの栽培は世界各地で広く見られ、その産量は世界六大穀類(米、

麦、トウモロコシ、燕麦、モロコシ)総産量の27.15%(1990 年)を占めている。また、

アジアイネのアジアにおける栽培面積は世界のイネ全栽培面積の89%以上を占め、その産 量は全世界の91%である62

56陳鴻圖『台湾水利史』、263頁、表7~12。

57陳正美『嘉南大圳與八田與一』、119頁。

58陳鴻圖『台湾水利史』、266~267頁。

59『台湾総督府臨時情報部報』、第8巻 第90号、217(7)、219~220(9~10)頁、を参照。

60①『台湾省五十一年来統計提要』、台湾省行政長官公署統計室編印、1946年12月、594頁。

②周憲文『日据時代台湾経済史』、台湾銀行経済研究室編印、1958年8月、第一冊、30頁。

61周憲文『日据時代台湾経済史』、第一冊、30~31頁。

62 任茹、鄭勝華「台湾稲作品種的演化課程及分布趨勢」、『師大地理研究報告』第27期、国立 台湾師範大学地理学系、1997年11月、52~53頁。

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アジアイネは、野生イネ(Oryza perennis)を改良したものである。アジアイネは二つ の亜科に分類される。一つは、熱帯属性のインド型イネと呼ばれるインディカ米(subsp.

indica)で、中国語では秈稻(hsien)である。もう一つは、温帯属性のジャポニカ米

(subsp.japonica)で、中国語では稉稲(keng)と呼ばれる。インディカ米の栽培に適し た地域は年平均温度17度以上の熱帯地域であり、その生産地はインドを中心に、タイをは じめとするインドシナ半島、中国の中南部(長江流域以南)などである。インディカ米の 特徴は、いもち病に対する抵抗力が強く、米粒が細長く、アミロース含量が高くて粘り気 が少ないものが多いことである。また、ジャポニカ稲の起源には「中国長江説」や「アッ サム(インド)雲南(中国)説」があるが63、その栽培は年平均温度16度以下の温帯地域 に適しており、生産地は日本、朝鮮、中国北部(黄河流域)が中心であるが、海抜1800~

2700メートルの中国雲南や貴州にもジャポニカ米の姿が見られる。ジャポニカ米の独特の 弾力と粘り気はインディカ米にはない大きな特徴である。

稲作の栽培方法が異なるイネの種類がある。水稲(paddy rice)といもち病に強いなどの 利点がある陸稲(upland rice)である。水稲の耕作期間は120日程度で、大量の灌漑用水 が必要であり、温暖湿潤の気候に適している。陸稲の栽培地域は農業技術が完備されてい ない山岳地域であり、その範囲は中国雲南やインドシナ半島など海抜 1,000 メートル以上 の地域で、山岳地域ならではの栽培環境の多様性もあり、今でも火耕という伝統的な方法 が行われている。

稲作栽培の歴史においては、良い株を見つけては交配と選抜を繰り返すという品種改良 が行われ、これによって、品質および生産量が増加した。

1895年以降、台湾総督府は農業生産の問題を非常に重視した。とりわけ米、サトウキビ など熱帯作物についてである。当時、日本国内においては、人口増加と工業都市化という 発展に伴って、米、砂糖の需要が急増していた。しかし、台湾の稲作の耕作技術は未熟で あり、水利灌漑や稲種、肥料などは未だ全面的な改善がなされていなかった。統治初期、

台湾の米の年産量は一百六、七十万石(1 石=180,381 公升)であり、その頃の台湾の人口

(1898年の人口計269万人)が未だ飽和していない。そのため、明治29年(1896)から 31年(1898)の間には、台湾米は台湾海峡を経て対岸の福建地方などに運ばれていた。明 治31年(1898)頃、日本人米商の津坂鹿次郎によって台湾米が初めて日本内地へ移出され たが64、その移出量は僅かなものにとどまっていた。しかしながら日露戦争中および第一世 界大戦の期間の頃には、台湾米が大量に必要とされ、そのために台湾米の日本への移出が 激増した。

63游修齢、曽雄生『中国稲作文化史』、上海人民出版社、2010年4月、54頁。1973年に中国 考古学者によって、浙江省餘姚県河姆渡村で約7000年前の河姆渡遺跡が発掘された。この遺跡 からは大量の人工栽培された稲籾が発見された。李潤海『中国農業史話』、明文書局影印、1982 年10月、107頁。ジャポニカ稲の起源が「中国長江説」であるとすることに関する先行研究は、

佐藤洋一郎『イネの歴史』、京都大学学術出版会、2008年10月、87~90頁、を参照。

64貝山好美『台湾米四十年の回顧』、台湾正米市場組合、1935年1月、4頁。

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台湾における稲種は、主に中国大陸福建省からの早期移民がもたらしたもので、その後、

多くの品種ができた。日本統治初期、台湾米の味は日本人の口に合わないことが多いこと から、台湾米の価格は日本国内産の米より遥かに安く、中・下階級の消費者の需要を満た すものであった。台湾米の品質と生産量を増加させるため、総督府は台湾米の品種改良事 業を積極的に推進した。米の品種改良などの新しい農業技術を展開させ、台湾の風土気候 に適した新品種を育成しようとした。その最終目的は内地の食糧不足という状況を改善す ることであった。

(一) 台湾在来米の改良

日本統治初期の台湾において生産された米(在来米)は品質が悪く、品種は繁雑であっ た。総督府殖産局の統計によると、台湾米の品種には、およそ1,365種(第一期作447種、

中間作 182種、第二期作 736 種)あった65。一般的に、一つの品種の中には多様な異品種 が混在しており、赤米、烏米、茶米などの禾本科(イネ科の旧称)が混じっていたため、

台湾米の商品価値は非常に低く、その産量も少なかったのである。とりわけ赤米の玄米へ の混在という現象が極めてひどく、総督府農事試験場(1903年11月に創立)が明治42年

(1909)に台湾全島 100余所の第一期に生産された米を抽出して調査を行ったところ、一 升の中の赤米は、最大で4,298粒、最少で832粒あり、平均して一升中 1,761粒だったと いう66。こうした状況は、在来米の品質雑駁不良であり、不純交雑種によるものだった。そ こで台湾総督府は、台湾在来米の改良事業を積極的に推し進めた。明治 34 年(1901)11 月5日、第四代台湾総督児玉源太郎は、総督官邸会議において、殖産興業の大綱(計九項)

を発表した。その中の第四項「米作の改良」の産米増殖演説は次のようなものであった。

現今本島に産する所米を以て第一とす、然れどもその広潤なる水田は気候風土の天 恵を有するにも拘らず、水利未だ洽ねからざる為に其の収穫する処は其の地積の広き に似ず、尚甚だ少量にして品質又賤劣なり。是れ米作を以て農家の天職なりと為せる に似ず、天恵を利用するの拙なるものあるに坐するに非ずや。若し水利を通じ、耕作 を慎まば其の穫る処をして現今所量の三倍ならしめんこと敢えて難しとせず。是に於 て細民三餐に飽き、尚ほ剰す処を以て、之を海外に輸出するに於ては、蓋し貿易品の 太宗たるを失はざるべし。67

65台湾米の品種は1,365種があるという説は、①上野幸佐『台湾米穀年鑑』(大正12年刊本)、

成文出版社、2010年10月、8頁。②台湾総督府殖産局『台湾の米』(昭和15年版)、140頁。

③台湾総督府殖産局『台湾の米』(昭和13年版)、6頁。④東京米穀商品取引所検査課編『台 湾の米』(昭和9年版)、28頁、に見られる。また、磯永吉博士の説の台湾改隷当時に台湾米

の品種が1,670種あったことについては、江夏英蔵『台湾米研究』、台湾米研究会、1930年9

月、16頁、を参考。

66于景譲編『台湾稲米文献抄』台湾研究叢刊第6種、台湾銀行金融研究室、1950年12月、147 頁、出典元:台湾総督府農事試験場編『赤米の調査』、明治43年版、『台湾農事報』第42号、

66~67頁。

67大園市蔵『台湾裏面史』(昭和11年、日本植民地批判社刊本)、成文出版社、1999年6月、

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表7 第一回米種改良事業以前、玄米一升の中に混在する赤米の粒数 多 中 小 平均 一 第一期水稲

第二期水稲

4,298

1,636

832

1,761

― 二 第一期水稲

第二期水稲

2,645 3,481

1,289 1,537

495 741

1,386 1,881

注:①一は、台湾銀行金融研究室編『台湾稲米文献抄』、台湾研究叢刊第六種、1950 年10月、147頁、出典元:総督府農事試験場編『赤米の調査』(明治43年版)、

『台湾農事報』第42号、66~67頁。

②二は、台湾総督府民政部殖産局編『台湾之米』、殖産局出版第103号、大正4 年(1915)、67~68頁。

明治36 年(1903)10 月、農商務省は全国各府県の農会に十四項目にわたる布告「農事 改良必行事項」を出し、日本本土の水稲の品種改良や栽培技術の開発などを行った。その 翌年には、塩水選68などの技術が台湾に導入され、それによって、比重の大きな充実した 種子を選び出すことが可能になり、台湾米の生産量が増加した。1904年の年初、彰化庁の 農会において試験的に塩水選を行った結果、一定の成果を上げることができた。そのた め、明治38年(1905)に総督府は、全島20箇所の地方庁に補助金を与え、積極的に塩水 選の事業展開を始めた。台湾米の生産増加という目標の達成に向けた的確な事業の選択と 遂行のため、いくつかの地方庁は、農家と警察や保甲との連携などによって塩水選を行っ た。同時に、各地方庁の農会は、塩水選の実施には大量の食塩が必要であるため、これを 購入

し、それを農家に配って、塩水を使って比重の重い籾を抽出させた。明治39年(1906)2 月に、桃園庁長竹内巻太郎は、塩水選を推進するために、総督府殖産局から招聘された農 業技師たちの協力のもとに、大嵙崁(現在大渓)にある地方廟宇で塩水選の方法の紹介や 解説をする農事講談会を開催した69。翌年(1907)9月、総督府農事試験場は『稲作改良法』

という宣伝パンフレットを発行した。これは、農民たちに「種子選別の必要」、「種籾薄 播の必要」、「深耕の利益」などといった基本的な概念や方法を解説した冊子であった。

この中では、三年連続で塩水選を採用すれば、1甲農地で平均34石4斗8升の穀物を収穫 できることが強く示されていた。台湾の伝統的な「風鼓選」や「清水選」の効果を遥かに

317~318頁。井出季和太『台湾治績志』(昭和12年刊本)、南天書局、1997年12月、392 頁。

68塩水選とは、充実した種籾を選ぶ方法の一つで、塩水を使って比重の重い籾を抽出するもの で、横井時敬によって考案された。横井時敬は熊本出身。稲作改良法の研究に専念した。九州 福岡県勧業試験場長を経て東京帝国大学教授などの要職を歴任した。

69蔡承豪「軍刀農政下的台湾稲作技術改革与地方因応」、『台湾学研究』第8期、2009年12月、

96~97頁。

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