第四章 台湾米の海外輸出
第一節 台湾米の対日輸出の推移
(一)1895~1922年間対日輸出の推移
日本統治初期、台湾米の年産量はおよそ160~170万石(1石=180.39リットル)であっ た。明治29年(1896)から明治31年(1898)の間は、台湾人口はまだ飽和していなかっ たため、余剰米が中国福建に搬入され、その総数は824,986石に達しており3、毎年の平均 は27万5千石であった。1898年に日本人米商津坂鹿次郎によって試験的に神戸に移出さ れたが、これが最初の取引と言われる4。その理由は、1896年に日本中部、関東大水害など の自然災害や大凶作に見舞われたこと、1897年に大凶作となったことである。これを契機 に米の需給調整が輸入米で行われるようになった。1898 年に台湾米の日本への移出量は 180,770石に達した5。1898年3月~4月間、若干の日本人商人が「株式会社台湾米穀市場」
(1897年8月営業開始)を設立し、台湾本島商人(主に和興公司)と共に台湾各地で米穀 を購入して、打狗、基隆など港口から日本に輸出した。このため、台湾の米穀市場におい ては島内の米価が急激に上昇し、台湾社会において人心の不安定な状態になった6。 明治34年(1901)以後、日本大手会社三井物産株式会社(1898年台北に支店を設置)
は台湾米の移出事業を始めた7。1904年から1905年にかけての日露戦争の期間、台湾米の 日本への輸出量は大幅に増加し、この2年間で総計1,071,145石という好成績をあげた8。 1904年2月の戦争勃発後、児玉源太郎は台湾総督兼任のまま、満州軍総参謀長となり、彼 は三井物産に命じて台湾米30万石を提供させた9。この時期、日本の食糧需給の問題は重要 課題となり、台湾米の移出が不可欠となったのである。台湾本島人の商人もこれを機に、
3貝山好美『台湾米四十年の回顧』、台北正米市場組合、1935年1月、5頁。
4貝山好美前掲書、4~5頁。江夏英藏『台湾米研究』(昭和5年刊本)、成文出版社、2010年、
78頁。
5台湾総督府民政部殖産局『台湾移出米概況』、1907年11月、81頁。李力庸『米穀流通與台湾 社会(1895~1945)』、稲郷出版社、2009年12月、40~41頁。また、もう一説は日本への移
出量は175,000石。劉翠溶「日治後期台湾合作農会功能試探」、『台湾史研究』第7巻第1期、
2001年4月、152頁。
6高淑媛「日本統治初期之米價騰貴問題」、『第四屆台湾總督府檔案學術研討會論文集』、國史 館台湾文獻館、2006年12月に所収、517頁。
7矢內原忠雄『帝国主義下の台湾』(1929年岩波書店刊本)、南天書店、1997年12月三刷、47 頁。
8貝山好美『台湾米四十年の回顧』14~16頁の「台湾米輸移出高表」、明治 37年と 38年の移 出数から計算したものである。
9矢内原忠雄『帝国主義下の台湾』、47~48頁。
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台湾米産業への参入や取引の拡大を行うようになった。この中で、最も有名な台湾米商に は、基隆の瑞泰商行(許招春)、泰益商行など十余社があった。また、日本内地人の米商で ある三井、大倉、宮副、津坂、児島、阿部などが続々と台湾の南部と北部に営業所を開い た10。1901年から1907年にかけての台湾米の日本への輸出量は10万から80万石となり、
1908年と1909年には、台湾米の輸出量は連続して100万石を超えたが、その輸出量は各 年の台湾米産量の4分の1を占めていた。1910年代に入って以降、台湾米の輸出は激減し、
しばらく百万石以上という数字は現れなかった。大正3 年(1914)以後、当時日本領であ った朝鮮(1910年10月1日日本に併合)での優良米が日本に移出され、その後、毎年の 朝鮮米の移出量は百万石として計算されていた11。こうして朝鮮米が台湾米の競争相手とな り、日本米穀市場において台湾米の地位は動揺し始めた。台湾総督府は台湾米(在来米)
の品質を改善するために、1910年に各地方庁に対して在来米種改良事業という計画を推進 し、四年1期でもって、試験を繰り返し行った12。1925年に第四回改良事業が終了した頃、
この在来米種改良計画も中止された。その主な理由は蓬莱米の栽培に成功したことである。
明治44年(1911)に日本内地の東北地方と北海道で大凶作が生じ、農業生産量が落ちた ため、米価騰貴を促す傾向にあるとの認識が示され、翌年 7 月に日本政府(西園寺内閣)
はこの窮地を脱するために、東京米穀商品取引所(1908年に東京米穀取引所、東京商品取 引所の合併)で台湾米を代用米として直接販売することを認めた。これにより、台湾米が 定期市場で調節用の代用米として受け渡されることができ、この政策は当時の台湾移出米 商に対して非常に希望を与えるものとなった。三年後(1914年)日本米穀市場において米 価が下落し、各地の米穀取引所などの米界人士が政府に台湾米の定期受渡を直ちに中止す ることを要求した。その理由として、台湾米商との貿易が依然として粗悪であり、また、
台湾米の品質が悪くて長期間の保存が難しいことが指摘された。同年9月、大隈内閣は「台 湾米移出商組合」13からの請願を無視し、台湾米の定期代用制を廃止した。当時、日本国内 各地に残った台湾米の数量は、30~40万袋(1袋150斤)であったが、台湾島内では十余 万袋の米が各港に積まれていた。直ちに台湾の米穀市場は苦境に陥り、移出米商は大きな 損失を蒙ることになった14。突然の移出中止による損失を補填するため、台湾の移出米商は 新しい販路と市場を開拓した。例えば、北海道、満洲、中国、南洋などである。
欧戦が勃発した三年目、大正6年(1917)日本内地の米価は再び上昇し、東京正米市場
10江夏英藏『台湾米研究』、79~80頁。
11大豆生田稔「食糧政策の展開と台湾米―在来種改良政策の展開と対内地移出の推移」、『東洋 大学文学部紀要』第44集 史学科編16、1991年3月15日、50頁。江夏英藏『台湾米研究』、
附録1頁。李力庸『米穀流通與台湾社会(1895~1945)』、45頁 表2-8、を参照。
12台湾総督府殖産局編『台湾の米』、1938年9月、6~9頁。李力庸『日治時期台中地区的農会 與米作(1902~1945)』、稲郷出版社、2004年10月、101~102頁。
131913 年3月に成立した台湾米移出商組合。組合長は荻野萬之助。但し、台湾総督はこの組合 を認めていない。
14江夏英藏『台湾米研究』、81~90頁。華松年『台湾糧政史』、商務印書館、1984年7月、上 冊、116頁。
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では一升米の価格は10銭(1916年)から30銭(1918年1月)に上がった。1918年8月 に至って、一升の米価はさらに50銭となり、一気に高騰して二年前の米価より5倍くらい に値上がった15。すでに日本国内では米の生産と消費のバランスが崩れていたのである。
1914年に第一次世界大戦が勃発した後、日本の重工業化の発展が見られ、工業化により経 済成長と都市化が急速に進展した。農村の人々が都市に吸い込まれていったが、農村の労 働力が大量に流出することで、労働力が不足するようになった。1916 年から 1917年の間 に日本の気候不順により、米の生産量も減少し、一方、都市人口と工鉱業人口の増加に伴 い、米穀の供給が不足する状態となった。1918年の夏、米価の暴騰をきっかけに富山県魚 津町で起こった主婦の騒動が全国に波及した「米騒動」は、軍隊が出動し、全国規模の民 衆暴動へ発展した。日本政府は、米価維持の方策を目指し、緊急に台湾から米穀を大量に 購入した。台湾米の需給の状況により、移出米商の数は 256 軒にまで増え、これらの米商 も「台湾米穀移出商同業組合」(1915年に創立)という組織に加入した16。
このような状況の中で、1918年から1919年にかけて台湾米の日本への移出量は二年連続 で100万石を超えた。1918年の移出量は1,125,538石となり、1919年には1,216,497石、総 計は2,342,035であった。1918年の移出量は台湾米総産量(4,632,204石)の24.30%を占め ており、1919年の移出量は台湾米総産量(4,923,241石)の24.71%を占めた17。台湾から大 量の米を日本に移入した。その結果、台湾島内の米価が不安定となり、同時に甘蔗の栽培 と収穫にも強く影響した。そこで、台湾総督府による糖業保護政策と台湾米価安定対策の ため、大正8年(1919)1月18日に府令第七号で「米穀移出に関する件」が公布され、台湾 米を島外に移出することは台湾総督の許可を受けなければならないとされた18。こうして台 湾米市場に複雑な現象が現われ、諸多の米商は米穀移出の許可を得るため、いくつかの弊 害と争いが発生した。この弊害を解決するため、1920年10月に総督府は台湾米の対日移出 制限を撤廃し、対日への移出は全面的に回復することになった。
(二)1922~1945年間対日輸出の推移
大正11年(1922)に台中州立農事試験場技師末永仁が数百種類に及ぶ交配作業で、十年 間かけてジャポニカ種の高収量品種を生み出し、新しい品種「蓬莱米」が登場した。まも なく台湾総督府は各地方州庁と各州の農会に命じて、蓬莱米の栽培事業を推進したことに より、蓬莱米の植えつけは迅速に全島へと普及し、米の生産量が激増した19。三年後(1925
15大日方純夫等『日本社会の歴史』、大月書店、下冊(近代、現代)、2012 年11月、134頁。
依田憙家著・卞立強『簡明日本通史』、上海遠東出版社、2004年1月、289頁、を参照。
161915 年3月に台湾米穀移出商同業組合が成立した。初任組合長は堀内明三郎、副組合長は津 坂鹿次郎。1916 年 3 月に台湾総督府からの許可を得た。台湾米穀移出商同業組合に関しては、
①上野幸佐『台湾米穀年鑑』(大正12年版)、成文出版社、2010年 10月、附録、177~179 頁。②江夏英藏『台湾米研究』、110~115頁、を参考。
17劉翠溶「日治後期台湾合作農会功能試探」、159頁、表6を参照。
18江夏英藏『台湾米研究』、103~104頁、を参照。
19 ①東京米穀商品取引所検査課編『台湾の米』、1934年4月、33~34頁。②献生「日据時代