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早期台湾米の海外輸出

ドキュメント内 Microsoft Word - 表紙 (ページ 48-63)

第一章 1895 年以前の台湾米の生産と海外輸出

第二節 早期台湾米の海外輸出

(一)オランダ統治時代(1624~1662年)

1624年にオランダ人が正式に台湾を統治し、台湾では海洋貿易と農業開墾という二つの 事業が同時に行われた。統治初期の台湾農業の生産事業(稲米と麦)はまだ不完全であり、

オランダ人と漢人の毎日の食生活に欠かせない食糧は、主に中国、日本、東南アジアから 輸入された66。オランダ東インド会社は本格的に台湾に進出し、1624 年に統治機構である 大員商館(Tayouan、現在の台南安平)を設けた。当時、台湾の大規模な開発と食糧問題の 解決に必要だったのは農業労働力であり、そのために対岸の福建沿岸から大量の農業移民 が来台した。1643年以前、漢人移民に対して稲作税や人頭税などの納税の義務が免除され た67。1643 年 9 月に、オランダの大員議会が漢人移墾者に対して「米作什一税」68を徴収 することを決めたが、その課税の対象は穀物(稲米と麦)であった69。翌年、オランダ人は この新しい税制を遂行するため、測量員を各地に派遣し、実際に漢人が開墾した農地(赤 崁、新港、目加溜湾、大目降、蕭、麻豆など)を測量して、四区にわけた。オランダ人 は米作什一税を徴収する方法に請負制(漢人には贌と称する)を採用し、毎年の10月に競 売を開いた70。またオランダ統治当局は常に請負人(承贌者)が台湾米穀を対岸の大陸に輸 出することを禁止した71

1650年代に中国福建では依然として台湾に中国米を搬入しており、1650年から1656年 の間に中国米は36,889袋(赤米154袋を含む)が台湾に輸入された(表4参照)。しかし ながら、同じ期間に台湾米も1,459袋(また61担米がある)という数量を中国に輸出した。

清人黄叔(1680~1758)によると、オランダ統治時代に多くの福建漳州と泉州商人の船 が漳州、泉州、福州、建寧などの港から出帆して台湾に渡り、海洋貿易を行ったという。

66中村孝志「荷蘭時代之台湾農業及其獎勵」、57頁。陳国棟『台湾的山海經驗』、遠流出版事業、

2005年11月、71頁、410頁。

67韓家宝(Pol Heyns)著、鄭維中訳『荷蘭時代台湾的經濟·土地與税務』(Economy,Land Rights and Taxation in Dutch Formosa)、播種者文化、2005年5月、107頁。

68「米作什一税」とは、オランダの歴史文献には田園穀物収成税と称した。その税率は、1甲は 2~3里耳(real)を徴収することであった。翁嘉音『荷蘭時代―台湾史的連續性問題』、稲郷出 版社、2008年7月、96頁、を参照。

69江樹生譯注『熱蘭遮城日誌』第二冊、台南市政府、2002年、197頁。鄧孔昭『閩粵移民與台 湾社會 史發展研究』、廈門大學出版社、2011 年3月、124頁。

70「米作什一税」の状況は、①中村孝志『荷蘭時代台湾史研究(上巻)概説・産業』、303~314 頁。②韓家宝(Pol Heyns)著、鄭維中訳『荷蘭時代台湾的經濟·土地與税務』、173~174頁、

を参考。

71中村孝志『荷蘭時代台湾史研究(上巻)概説・産業』、308頁、311~312頁。

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このような中国商船は布、紗、磁器、鉄鍋、紙、草蓆、傘、茶などの日用品を輸出し、帰 船では台湾で生産された米、砂糖、靛、鹿肉などを貿易品として厦門などの地域に輸入さ れた72。オランダ統治末期(1650年代)に台湾で生産された米穀は全島人口(1648年の人 頭税の支払人数14,000人)の需要を提供でき、また余剰米は中国、インドに輸出されたが、

当時の台湾米の中国への輸出は税金が引かれていなかったと考えられる73

表4 1650年~1656年の間オランダ統治時代台湾と清朝中国との間の米貿易(単位:袋)

年代 中国米の台湾への輸出 台湾米の中国への輸出

1650年 4,036 535(また61担)

1651年 7,400(また赤米47) 371

1652年 ― ―

1653年 ― ―

1654年 ―(また赤米88) 549 1655年 23,720(また赤米19) 4

1656年 1,579 ―

総計 36,735(また赤米154) 1,459(また61担)

出典:林偉盛『荷據時期東印度公司在台灣的貿易(1622~1662)』、台湾大学歴 史学研究所博士論文、1998年6月、179~193頁から作成。

(二)鄭氏統治時代(1662~1683年)

17 世紀後半、鄭氏政権が積極的に台湾の土地の開墾を行った。官僚と軍隊の食料確保が 目的である。この食糧供給は、鄭氏政権の台湾での政治的安定と社会秩序に関連している。

鄭氏統治初期(1660年代)、かつて暹羅と安南などから大量の米穀が搬入された74。その後、

兵糧問題を解決するため、中国大陸から大量の移民を台湾へ引き寄せ開墾させた。こうし て鄭氏軍の兵士の屯墾および移民の農墾活動と共に土地開発が促進され、台湾の耕地面積 が拡大されて、食糧が完全な自給自足を実現できるとされた。当時、台湾の土地の開墾は 承天府(現在の台南市)が中心であり、承天府の直轄地以北は全て天興県に属し、承天府 の直轄地以南は全て萬年県に属していた。基本的に、稲米の生産は当時の台湾に滞在して

72黄叔 『台海使槎 』、台湾文獻叢刊第4種、巻二 赤崁筆談、47~48頁。周憲文「荷蘭時代 台湾之掠奪經濟」、『台湾經濟史四集』、台湾研究叢刊40種、台湾銀行經濟研究室、1956年6月、

61頁。

73William Campbell, “Formosa under the Dutch”.pp74-75. 甘為霖英訳、李雄輝中訳、『荷 據下的福爾摩沙』、前衛出版社、2003年6月、103頁。Ludwig Ries、「台湾島史(Geschichte Der Insel Formosa)」、『台湾經濟史三集』、台湾研究叢刊34種、台湾銀行經濟研究室、1956 年4月、19頁。楊彦杰『荷据時代台湾史』、195~198頁。

74陳国棟『台湾的山海經驗』、75頁。簡蕙盈「明鄭貿易概況初探」、『研究台湾』第6期、國立台 北大学社会学系與台湾発展研究中心出版、2010年12月、122~123頁。

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いる漢人人口である16万から20万人(軍隊、官僚、人民)の日常の食糧需要を満たした75。 このような状況下では、台湾米を海外に輸出する理由はなかった。連横の『台湾通史』巻 二十「糧運志」には、以下のようにある。

鄭氏養兵七十有二鎮、諮議參軍陳永華乃申屯田之制、以足兵食。又能以其有餘、供給 漳、泉、以取其利、故國用無匱。76

しかし1661年10月から清政府が中国東南沿海部に遷界令を実施し、沿岸地方の住民を内 地に強制移住させ、沿海商民は鄭氏一族との交易ができなくなった。この時の唯一の交易 手段は密貿易であった。

(三)清朝統治時代(1684~1895年)

清朝統治初期、台湾島内の政治と社会の安定を維持するため、二つの重要な政策がとら れた。第一は、中国大陸住民が許可なく渡台することを禁じたことで、第二は、台湾米の 中国内地への搬出に際して厳格な制限が設けられたことである。これらの政策は、まず台 湾内部の治安の安定を守るためであり、次には島内の食糧需要を確保するためであった。

当時、清政府の規定によって、台湾の鹿耳門から厦門への商船はいずれも携帯食米積載 量60石を搬出することができ、ジャンク船主がこの規定に違反したら処分が与えられた77。 しかし、官方の規定は利益を求める商人に対して強い影響を与えたとはいえない。中国沿 岸部と台湾間の密貿易活動は依然として活発であったからである。この頃、台湾の水師船 隻(哨船)も中国内地に米価騰貴の際に、海防同知の規定と検査に従っていないし、その まま台湾から大量の米穀を積みこんで大陸に回航している。1702 年から 1711 年(康熙四 十一~五十年)の間、台湾はいくつかの自然災害を経験し、稲米の収穫量は大幅に減少し た。その米価は1710年の夏は一石およそ一両二、三銭で、翌年の春に至って二両三、四銭 にまで上がった78。このような条件下で、米価の高騰が社会生活上の最大の問題であった。

1711年 4 月、台湾府知府周元文(字洛書、遼寧金県人)が福建当局に「申請嚴禁偸販米榖詳 稿」という文書を呈上した。

若將鳳、諸二邑所產之米聽其一任外販、則郡邑赤子勢必告糴無門。此海外情形大不同 於內郡,而米穀販運之禁、自不容為之少弛者也。…若為防患未然、不得不預請憲 臺、嚴加示禁、並賜通飭各協營、凡有營哨船隻自臺出港、務聽海防同知加謹査驗、不 許夾帶米穀出港。如有不遵査驗、揚航直去、許該廳詳明拏究。79

75鄭氏時代における台湾人口の推計に関しては、林田芳雄『鄭氏台湾史―鄭成功三代の興亡実 紀』、汲古書院、2003年10月、175~176頁。連横『台湾通史』、衆文図書影印本、上冊、巻 七、戸役志、152頁。

76連横『台湾通史』、衆文図書影印本、上冊、巻二十、糧運志、539頁。

77①范咸『重修台湾府志』、乾隆十二年刊、台湾研究叢刊105種、台湾銀行經濟研究室、1961年 11月、第1冊、巻二、90頁。②周凱『廈門志』、台湾研究叢刊95種、巻五、171頁。③周凱『廈 門志』、道光十九年刊本、1967年成文出版社影印、巻五、20頁。

78高拱乾『台湾府志』、台湾文獻叢刊第65種、第3冊、巻十 芸文志、324頁。

79同上。

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この米禁問題を解決するために、福建当局は以下の指示を出した。一般商船が不法な海上 輸送貿易に従事する場合は、台湾地方官府が直ちに調査して罰を与える。しかし、水師船 隻が密輸を行った場合は、公文書の形で台湾水師營80の将官(副将二名)に交付し厳しく調 査すべきである。

清政府が実施した米穀管制政策は商業の自由という原則に違反するのみならず、また台 湾農民の基本的な利益を損った。そのため、米穀の輸出が禁止され、かわりに密貿易が行 われた。当時、北部で生産された米穀は笨港(現在の北港)から密輸され、南部では打鼓 港81(現在の高雄)から搬出された。密輸出入港の位置は、なるべく台南府城および当時通 商の正口として唯一指定された鹿耳門港との距離が離れているところであった。清の初代 巡台御史である黄叔の『台海使槎録』には、当時の状況が以下のよう書かれている。

三縣(台灣縣、諸羅縣、鳳山縣)皆稱沃壤、水土各殊。各縣稻。諸羅地廣、及鳳 山澹水等社近水陂田、可種早稻、然必稻豐稔、始稱大有之年、千倉萬箱、不但本郡 足食、並可資譫内地。居民止知逐利、肩販舟載、不盡不休、所以戸鮮蓋藏。82

当時、台湾米穀の輸出は上述した密貿易を度々おこなっていた以外、台湾の地方官府も毎 年民間地主から徴収した米穀、すなわち田賦や正供83を福建へ搬出し、これらの米穀は福建 省の「兵米」と「眷穀」の重要な来源であった。また、中国内地に大飢饉が発生し、米不 足がますます深刻となると、米価はさらに高騰し、台湾で生産された米穀もジャンクによ って大陸に搬入された。1723年(雍正元年)浙江省(温州、寧波など)に飢饉が発生し、

当年と翌年に台湾から搬入された米は5万石に達した84

1726年(雍正四年)8月、閩浙総督高其倬(1675~1738)は台湾米穀の管制問題に対し て自由な流通を主張した。農民たちが稲米を栽培することは自給自足だけでなく、同時に 余剰米穀を販売することを目的としているのであり、官府が米穀販売を禁止した場合、諸

80高拱乾『台湾府志』巻四武備志の記載によると、康煕時代における台湾の兵制では、水陸十營

(兵力1万人)が設置された。台湾水師營は台湾本島において中、左、右の三營があり、主に 台湾府城と安平地区に集中していた。また、澎湖水師左、右の二營があり、澎湖の海防を担っ た。台湾水師五營(毎營1千人)の総兵力は5千人であった。『台湾府志』、巻四、69~75頁、

を参照。

81打鼓港という地名が初めて文書に登場するのは、范咸『重修台湾府志』、乾隆十二年刊、巻二 海防である。打鼓港は郁永河の『裨海紀遊』と黄叔 の『台海使槎 』の中で言及された打狗港 である。安倍明義『台湾地名研究』、華語研究会、1938年1月、244頁。

82黄叔『台海使槎』、51頁。

83清康煕二十二年から雍正六年(1683~1728年)、台湾において毎甲水田の田賦税率は、上田 8.8石、中田7.4石、下田5.5石、上園5石、中園4石、下園2.4石であった。その後、雍正七 年から光緒十二年(1729~1886年)には、上田2.74石、中田2.8石、下田1.75石、上園2.8

石、中園1.75石、下園1.716石に変更した。最初に納税の方法は一般的に穀納制(本色を称す

る)を採用したが、道光二十三年(1843年)以後、大租戸(墾戸)の政府に納入する税は穀納 制から銀納制(折色を称する)に移行した。①東嘉生『台湾経済史研究』、1944年刊本、南天書 局影印、1995年1月、74~76頁。②連横『台湾通史』、衆文図書影印本、上冊、169~171頁、

190~191頁。③尹士俍纂修・李祖基点校『台湾志略』、九州出版社、2003年3月、32頁、を

参照。

84黄叔『台海使槎』、23頁。范咸『重修台湾府志』、92頁。

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