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台湾米の関東地方への輸出

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第四章 台湾米の海外輸出

第二節 台湾米の関東地方への輸出

(一)台湾米の関東地方への輸出条件―航路と運輸

関東地方の重要な貿易港である横浜港と東京港は、両港の発展により東日本と海外や各 地域との貿易拠点として繁栄している。横浜港は日米修好通商条約により安政6年(1859)

6月2日に国際貿易港として開港し、巨大な消費市場である東京と、さらにその先に広がる 広大な背後圏を持っており、特に明治38年(1905)日露戦争に日本が勝利し、初めて重工 業を興したことで横浜市地域において重工業が発展した38。一方、大正12年(1923)9月 1日に襲った関東大震災では横浜港の震災被害は甚大で、港の機能が停止した。関東地方へ の救援物資の輸送は水運によって芝浦一帯に集中したが、当時の港湾整備が不備であり、

横浜港は全壊し、多大な被害を受けて荷揚げ不可能となり、物資運送は困難を極めたので ある。東京港への交通の不便さを改善するため、水陸連絡施設工事および臨時鉄道敷設工 事が行われた39。これ以後、この両港は関東地方を代表する国際商業貿易港として発展した。

関東地方と台湾間の海運航路の開設は、日本の領台後、台湾総督府によって命令航路と

38『横浜港史』総論編、横浜港湾局企画課発行、1989年3月、92頁。

39『横浜港史』総論編、108頁。『東京港史』第1巻通史総論、東京港湾局発行、1994年3月、

84~85頁。

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自由航路との二つの航路が定められた40。明治29年(1896)4月に民政が施行され、日本 人の自由渡航が許されて、陸海軍御用船、民間船が不定期に日本と台湾間を連絡したが、

海運交通が不便であったため、同年5月に大阪商船会社41に命じられた神戸・基隆定期航路 は、関西、九州、沖縄諸島と台湾間を連絡した。関東地方の航路は、明治35年(1902)頃 に横浜港と台湾南部の打狗港(その後高雄港と改称)の新たな航路が開拓され、寄港地は 安平、澎湖、基隆、長崎、門司、宇品、神戸、台湾中南部産の米の直接の関東地方への移 出が優位に進められた。

第一次世界大戦の勃発は世界的な船舶不足時代を招来し、海上運賃及び用船料の高騰を 招いたため、大正 3 年(1914)9 月に打狗・横浜線が廃され、基・神附属線となった。二 年後(1916)、日本と台湾間の航路も影響を受け、この附属線(1915 年基・神線と改称)

ももとの6隻から2隻減じて4隻となり、毎週二航海とし、神戸・基隆間の運航を継続し た42。大正13年(1924)6月に基・神線を運航している商船は1万トン級の蓬莱、扶桑の 二隻があった。大正14年(1925)に至って、生果物輸送を目的とする定期航路横浜・高雄 線が新設され、3000トン級6隻に年72 回の航海が命じられ、日本郵船、大阪商船、山下 汽船三社が共同受命した43。こうして海運の基礎的輸送条件が満たされることで、台湾北部 の基隆港や南部の高雄港からの直接の関東地方の主要貿易港―横浜港への輸送が可能なっ たのである。

その時、東京への直航便がなかったため、台湾米は基隆港や高雄港から搬出され、横浜 港に到着した後、陸上の輸送機関を使って東京まで運ばれるか、あるいは横浜からの艀輸 送により東京港に搬入された。輸送時間の短縮やコストを削減するためには、東京港の本 格的築港に取り掛る必要があり、大正7 年(1928)8月、東京市内外交通調査会により出 版された『東京市内外ニ亘ル高速交通機関軌道、道路、運河、築港、公園ニ関スル下調書』

の第六章、東京築港の第二節の「参考記事」には、内国貨物の東京への輸送に関する状況 が以下のように記されている。

茲ニ特ニ注意ヲスベキハ東京市ガ年々直接ニ需用シ消費シツゝアル莫大ナル内国貨物 ノ水運状態ニアリ、即チ事ノ外国貿易ニ関スルモノハ暫ク之レヲ別トシ、単ニ内国品 ノミニ就テ見ルモ石炭、米穀、雑貨、砂糖、食塩ヲ主トシ其他ノ雑品ノミヲ以テスル

40日本植民地時代における台湾海運の発展は、松浦章①『近代日本中国台湾航路の研究』、清文 堂、2005年6月、113~147頁。②卞鳳奎訳『日治時期台湾海運發展史』、博揚出版社、2004 年、222~267頁、を参考。

41大阪商船株式会社の設立時間は明治 17年(1884)5月、資本金は1650万円、所在地は大阪 市北区富島町(現在西区川口)、其他全国および各国樞要の地に支店12箇所及び出張所7箇所 代理店488箇所を有し、台湾に於いては基隆、淡水、打狗、安平の4ヶ所に支店在り。大園市 蔵『台湾人物誌』、谷沢書店、1916年、附録1頁。

42台湾総督府官房調査課編『施政四十年の台湾』(昭和10年排印本)、成文出版社、1985年3 月、277頁。

43台湾総督府官房調査課編『施政四十年の台湾』、277頁。大園市蔵『台湾施政四十年史』(昭 和10年排印本)、成文出版社、1985年3月、454頁。台湾総督府編『台湾事情』(昭和11年 版上)(昭和11年排印本)、成文出版社、1985年3月、338頁。

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モ一年二百二十三万噸ノ内国品ハ何レモ本市日常ノ需用ヲ目的トシテ、北海道、九州 乃至台湾ヲ出デザル距離ヨリ僅ゝ二三千噸級ノ内国船舶ニ依リテ回送シ、来ルニ過ギ ザルモ如何セン東京市水運ノ利便未ダ挙ガラザルガ為メニ直接東京市ニ回航ノ途ナク 止ムナク横浜若クハ品川沖合ニ投錨シテ夫レヨリ艀舟ニ移載シ…東京市ニ到達スルニ 非ズヤ、即チ之ガ為メニ蒙ムル運賃手数遅滞手違ヒ並ニ危険ノ負担ハ当然市民ニ転嫁 サルベキモノニシテ市民ハ常ニ夫ニ相当スル高価ノ物品ヲ使用シツゝアルモノニ外ナ ラズ。44

近代化の発展と東京の産業都市化は東京への人口の集中を促進した。人口の増加ととも に、市民の消費水準が高まり、消費量も年々増加した。そうした消費物の中で、内国品に は石炭、米穀、雑貨、砂糖、食塩など毎年約223万トンが必要とされた。しかし僅かに3,000 トンほどの内国船舶による回送しかなかった。また、外地からの雑品の東京市への運送が 不便であったため、大正7年(1918)、当時の東京市長田尻稲次郎は築港調査会員を招集し、

解決方法および意見を求めた。大正 9年(1920)9 月に「東京築港計画書」が決定され、

東京港の取扱貨物を将来年間4,000万トンと想定し、3,000トン以上の貨物船34バースな どの施設整備が目指された45。昭和 7 年(1932)頃に至り、内国貨物の輸送においてほぼ 自足の域に達し、横浜港からの二次輸送の力を借りることが減った46

激しい競争が行われていた台湾航路において、昭和11年(1936)に横浜・高雄線が東京・

高雄線に改められ、船舶の改善と回数の増加が図られた。日本郵船の使用船数は 2 隻、一 年間の航海回数は120回で、大阪商船は使用船数4隻、航海回数は年60回であった47。関 東地方・台湾航路の開設によって、両地の物流などが頻繁に行われ、商業や貿易が促進さ れ、産業の発展にも影響を与えた。

(二)関東地方における米穀消費

日本資本主義が成長する大正期を通じ、東京は日本の商業、政治の首都としての役割を 確立していった。東京と横浜との距離は僅か30キロ程であり、横浜市の東京湾岸にある横 浜港は日米修好通商条約(安政5年6月19日、1858年7月29日)により国際貿易港とし て開港した。日露戦争から第一世界大戦にかけての前後、日本では軍備拡張などにより重 工業化の発展が見られ、工業化により経済成長と都市化が急速に発展し、関東地方の東京 および横浜には京浜工業地帯が形成された。この経済成長によって農村から都市への人口 流出がもたらされ、工場労働者をはじめとする就業者とその家族人口が東京と横浜とに急 激に増えた。1920年の日本の六大都市(東京、横浜、名古屋、京都、大阪、神戸)の人口 は、1913年の521万余人から665万人までに増加し、全日本総人口5,596万人の11.9%を

44『東京市内外ニ亘ル高速交通機関軌道、道路、運河、築港、公園ニ関スル下調書』(『戦間期 都市交通史資料集』第20巻所収)、丸善、2004年9月、75~76頁。

45『東京港史』第1巻通史総論、81頁。

46『東京港史』第1巻通史総論、102頁。

47台湾総督府編『台湾統治概要』(昭和20年刊本)、原書房、1973年6月、180、182頁。

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占め、同時に10 万人口の都市が10 都市に増えた48。この年(1920)の年末の東京人口は 2,377,884人(同年10 月1日国勢調査の人口数は 2,173,200 人)となり、1913年よりも 32万人増加した49。1920年に関東京浜工業地区の人口は294万人、一方、関西阪神工業地 区には 240 万人となり、つまり関東は日本最大の人口集中地であった。この時、日本国民 の食生活は消費水準の向上に伴い、主食である米の消費が増加した。日本で最も消費量が 多いのは関東地方であった。同時に、東京深川正米市場は日本で最も重要な米穀取引中心 であった。大正10 年(1921)から 12年(1923)の三ヶ年平均は、「東京府ノ三百六十三 万石最モ多ク、兵庫、大阪、福岡、愛知ノ府県之ニ亜ギ、沖縄県ニ於テ最モ少ク、僅カニ 二十六万石ニ過ギズ。」50とあるように、その消費米の数量は人口の多寡と工業の発展程度、

運輸・交通の利便性などの条件によって大きく異なっていた。東京及びその周辺地域の米 消費状況と移入状況は、以下のようであった。

消費状況

東京及其附近ニ於テ一箇年幾何ノ米ヲ要スルヤヲ推算スルニ人口二百五十万人トシテ 老若男女ヲ平均シ、一人一日三合51宛(玄米)ヲ食スルトセハ、一日約七千五百石(約

一万九千俵)ヲ要シ之レヲ一箇年ニ積算セハ実ニ二百七十余万石(約六百八十万俵)

トナル之レニ毎年地方ヨリ上京滞在スルモノ酒造用、味噌製造用、其他雑種用ノ消費 ヲ加フレハ少クモ八百万俵内外ノモノヲ要スルカ如シ。

移入状況

東京ニ於ケル内国米移入高ノ調査資料トシテ見ルヘキモノ二アリ一ハ「深川諸倉庫蔵 入米調」ニシテ、之レハ深川ニ於ケル重ナル保管倉庫、即チ東京、渋沢、商業、中村、

東神、帝国、住友、日本、ノ各倉庫会社其他二三個人倉庫ニ於ケル日々ノ出入高ヲ調 査セシモノナリ、他ノ一ハ「市中各駅廻着米調」ト称シ、現在秋葉原、錦糸、隅田、

汐留、 両国、板橋、品川、浅草、千住、飯田町、新宿、渋谷、恵比壽ノ各駅ニ廻着 スル内国米ノ調査ナリ、此外東京ニ移入セラルル米ニハ「市中直輸米」ト称シ即チ東 京附近、地廻地方ノ最モ河船ノ便ナルトコロヨリ右側調査以外ニ艀船等ニテ直接市中 ノ商人ヘ廻送セラルルモノアレトモ之レニ付テハ未タ調査ノ手段ナシ。52

大正時期の人口を250万人として、一人一日三合宛食べるとすると、一日約7,500石(約1 万9000俵)を要し、一年間の消費量を積算すると 270余万石(約680万俵)が必要とな る。その米穀の移入状況では、海運によって東京に運ばれてくる台湾米、朝鮮米、外米、

481920年人口10万以上の日本都市は、長崎(18万)、広島(16万)、函館(14万)、呉市(13 万)、金沢(13万)、仙台(12万)、小樽(11万)、鹿児島(10万)、札幌(10万)、八幡

(10万)である。矢崎武夫『日本都市の発展過程』、弘文館、1962年3月、382頁、を参照。

49矢崎武夫前掲書、408頁。竹村民郎『大正文化帝国のユートピア―世界史の転換期と大衆消費 社会の形成』、三元社、2010年8月、47頁、表6。

50鉄道省運輸局編纂『米ニ関スル経済調査』、鉄道省運輸局、1925年、163頁。

51一合=180.39ミリリットル

52日本銀行調査局編『東京深川市場ニ於ケル正米取引ニ関スル調査』、日本銀行調査局、1919 年(大正8)10月、1~2頁。

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