第 5 章 知識人の天竺認識~西川如見、寺島良安の事例から~
第 1 節 西川如見と『増補華夷通商考』
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西川如見は肥後の加藤清正の家臣で対馬において朝鮮との貿易を行った西川正幸の家を、
嫡子がいないために豊後大友氏の家臣・吉衛門の次男・正忠が継承して初代となった西川 家の6代目に当たる。正忠は長崎に移住し、以後ここを拠点に貿易を続け、如見は寛文12 年(1672)に京都から来た儒者・南部草寿に師事して儒教を学び、当時の天文学の第一人 者である小林謙定やオランダ通事の西吉兵衛、今村市兵衛、朱印船の航海士だった嶋谷市 左衛門や出島のオランダ人などとも接して天文学や海外に対する知見を学んだ。その後如 見は元禄10年(1697)以降は隠居して著述に専念し、17部55巻の書物を著した。儒教的 自然観を取りつつ実証主義的立場を展開し、経世家としての評価も高い。享保4年(1719)
には将軍・徳川吉宗に招かれ天文暦算に関して下問を受け、子の西川正休は幕府天文方を 務めたことでも知られる3。
如見の世界認識の研究として取り上げられるのはほとんど『増補華夷通商考』4のみであ り、その原型である『華夷通商考』には注意が払われず、或いは両者が混同される場合も あった5。さらに『華夷通商考』の種本とされる『異国風土記』は作者は明らかではないが オランダ人経由の情報や、唐通事の林道栄(寛永17~宝永5、1640~1708)の覚書に基づ いているのではないかと考えられている6。そのため、これまで「如見の世界認識」として 語られてきたものが、真に彼個人の独自性に帰されるものなのか検討の余地があることは 先学の指摘する通りである7。そこで本節では『異国風土記』(貞享5年、1688成立、以下 A)、『華夷通商考』(元禄8年、1695刊、以下B)『増補華夷通商考』(宝永5年、1708刊、
5巻、以下C)の記述を比較することで、如見の天竺認識を考察する。
第1項 『増補華夷通商考』の構成
まずABCという三書の全体構成について述べる(表1参照)。Aの『異国風土記』は上 下巻に分かれ、上巻は中華15省、下巻は中国以外の国名、地理、風俗、民族、産物などを 記している8。中国以外の56カ国は外国、外夷、追考、日本渡海停止之国々の順で分類され る。ここで言う「外国」とは中国の命に従い、中国の文字を使用するという説明からいわ ゆる冊封体制に組み込まれた国々であり、それ以外の国々が「外夷」とされている。「外夷」
はさらにオランダ人の往来の有無で区別されている9。注意すべきはここでは亜細亜から始 まる五大州の概念は全く存在せず、また日本・中国・天竺という三国世界観でもなく、世 界は日本、中国とそれ以外として認識されている点である。これはそれまで天竺という語 で広域的に認識されていた地域が、より詳細な理解によって名称が細分化したことによる ものと考えられる。
次に B の『華夷通商考』を検討すると、国名表記などに若干の相違があるが、全体の構 成は A とほぼ同一の内容を持つといって差し支えない。当然、A に見られなかった五大州 の概念もまた存在せず、世界は中国とそれ以外の外国、外夷として認識されている。
Cの『増補華夷通商考』は江戸時代を通じて指導的な海外地理書であったとされ、如見の
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世界認識が言及される際に取り上げられるのはほぼこの書物のことだと言ってよい。Cは一 般にBをイタリア人のイエズス会宣教師ジュリオ・アレーニ(艾儒略、1582~1649)が著 した世界地理書である『職方外紀』に基づいて増補したものとされる。増補されたのは主
に巻5「外夷增附録」の66カ国だが、それ以外に図版や日本人の海外での活躍記事も追加
されている。また近年『職方外紀』以外の情報源として、いわゆる「長崎旧記類」が用い られたことが指摘されている10。
『職方外紀』を記したアレーニは1582年ヴェネツィア共和国ブレッシアに生まれ、1600 年ノヴァレッラ(ボローニャ北西)でイエズス会に入り、第 5 代総長アクアヴィーヴァの 決定により1609年3月23日にリスボンを出航し中国に派遣される。『坤輿万国全図』の作 者としても知られるイエズス会の先人マテオ・リッチの死後、福建の税関が洋船から入手 した地図を北京にもたらし、宣教師ディエゴ・デ・パントーハとサバティーノ・デ・ウル シスが勅命を奉じて翻訳に当たるがいわゆる「南京教案」と呼ばれるキリスト教弾圧政策 によって頓挫し、未完の原稿を引き継いだアレーニと楊廷筠が協力して出版したのが『職 方外紀』である。徐光啓、李之藻とともに「中国キリスト教三柱石」と呼ばれる楊廷筠の 庇護を受け天啓 3年(1623)に杭州で序文が書かれ、出版されてからは人気を得て再版を 重ねたようである。『職方外紀』の版本には5巻本と 6巻本の系統があり、1625~30年に 刊行されたイエズス会漢文著作の叢書である『天学初函』の「理編」に収録される。
『職方外紀』という書名は異民族を弁別する官職である職方氏が知らない外国の記録、
あるいは版図の外の記録などと解釈される。『職方外紀』の序に続く地図は基本的に『坤輿 万国全図』と同様だが実物より小さく注記は存在しない。『職方外紀』自体はキリスト教の 叢書に入り、教義を語っている部分もあるため寛永 7 年(1630)まで禁書だったが享保 5 年(1720)に解禁され、寛政7年(1795)に再度禁書になる。西川如見がひそかに引用し たほか、『物理小識』を通じて新井白石など多くの知識人に引用されている11。
Cの世界認識を総じて見ると、中華意識を伴う中国の世界像の影響が強く見られるという こと、また長崎と外国との通商関係を機軸として世界の国々が整理、記述されているとい う 2 点の特徴が指摘される。如見の世界観には熊沢蕃山からの影響が指摘されているが、
その中華中心主義や辺土意識は克服され、中華思想そのものによって世界が編成されてい るわけではない12。
第2項 『増補華夷通商考』における天竺
次に『増補華夷通商考』における天竺の記述について具体的に検討する。列記された国々 のうち、三書いずれかにおいて天竺、モウルの語が含まれるものを如見が認識する天竺に 関連するものと仮定すると章末に掲載した(表2)のようになる。天竺の表記が見られるの はこのうち 27 カ国あり、「南天竺」もしくは「南天竺ノ内」と「西天竺ノ内」として記さ れる国々が以下である。
108 南天竺・南天竺ノ内(16カ国)
占城、柬埔寨、太泥、六甲、暹羅、モウル、ヘグウ、アラカン、ベンガラ国、サラアタ、
マルマアル、セイロン、インデヤ国、ラウ国、チヤウ国、コワ
西天竺ノ内(2カ国)
ハルシヤ国、サントメ国
このうち AB で「南天竺」「南天竺の内」として説明されている国は12 カ国すなわち占 城、柬埔寨、太泥、暹羅、モウル、ヘグウ、アラカン、ベンガラ国、インデヤ国、ラウ国、
チヤウ国であり、Cでは六甲、サラアタ、マルマアル、セイロン、コワの5カ国が追加され、
サントメが削除されて西天竺へ移行したために合計16カ国となっている。サントメと同じ く西天竺とされたハルシヤ国は同時に「南天竺の西邊」という表記もある。ABにおいては ハルシヤ国の記述の中に天竺に関する言及はなかったため、『職方外紀』からの増補が行わ れる際に、新たに西天竺として分類されたものと考えられる。
また天竺を起点として所在する方角が表記される場合が以下の7カ国である。
咬留吧(南天竺ヨリ遥か南)13 母羅伽(南天竺ノ東南)
ソモンダラ(天竺の南大海)
カフリ国(南天竺ノ西南)
アラビヤ(南天竺ノ西)
ジュデヤ(西天竺ノ西)
エジツト国(南天竺ノ西)
Cにおいて天竺そのものは一つの国名としては想定されておらず、南天竺と西天竺が「外 夷」のうち特定の国々を包括する地域名として認識されている。一見して分かるように南 天竺は現在の南インドではなく、東南アジアに対する呼称として用いられている。これは 朱印船貿易時代にシャムを中心とした東南アジア大陸部が天竺として認識されていた歴史 が関係しているように思われる。
さて、ABにはいずれも五大州の概念が見られなかったわけだが、Cでも巻4までは五大 州の概念は全く見受けられず、ABで既に存在していた 60カ国近い国々が五大州のどこに 属するか明確に述べられているわけではない。五大州への言及が見られるのは巻 5 と、挿 入された地図である「地球萬國一覧之図」である。「地球萬國一覧之図」はマテオ・リッチ の『坤輿万国全図』(慶長 7 年、1602 刊)の影響を受けているとされ、五大州の概念に基 づいて描かれている。地図中の「亜細亜諸国」と記された脇の現在の中央アジア附近に天