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天竺という語について

ドキュメント内 博士学位論文(東京外国語大学) (ページ 36-41)

第 2 章 天竺認識の歴史

第 1 節 天竺という語について

第1項 インドを意味した4つの名称

天竺が史料上どのように見られるかを具体的に検討していく前に、まずは天竺という語 そのものについて確認する。いわゆる「インドの旧称」は天竺という言葉だけではなく、「身 毒」「賢豆」「印度」などの呼称が知られている。これらの名称に関して杉本直治郎は比較言 語学的な考察によって以下のようにまとめており、筆者も概ねこの論を支持するものであ る3

(1)身毒:サンスクリット語のSindhuの対音。申毒、新陶、辛頭、信度、信図、身豆な

32 ど。

(2)賢豆:Sindhuがイラン訛したHindu、Henduの対音。乾篤、乾竺など。

(3)印度:Sindhuがイラン訛した Hindu、Hendu がさらにギリシャ訛したものの対音。

印土など。

(4)天竺:Sindhu がビルマ訛したThindhuなどの対音。天篤、天毒、天督、天豆など。

上記すべての元になるSindhuはサンスクリット語で「海」を意味する単語であり、それ が転じて現在のインダス川およびその流域を示す語となったものであった。この語がその まま音写されたのが身毒系統である。Sindhuが「イラン訛」すなわちペルシャ語化するこ とによって語頭の Sh が H へと変化し、さらにギリシャ語化することによって Hindu は Induとなった。これが現在まで続くIndia系統の語の直接の語源であり、当然ながら日本 語において現在でも用いられる「インド」という言葉の語源でもある。インダス川流域を示 す呼称が西へと向かい、ヨーロッパを経由してIndia系統の言葉が世界中で広まったが、一 方で漢字における 4 系統の呼称のうち、日本では中世から近世まで天竺が用いられるのが 主流だった。ビルマ語ではサンスクリット語などインドから導入された単語の語頭のShが Thに変化する現象がまま見られ、杉本はそのため天竺系統の語はSindhuがビルマ化した

Thindhuの音写であると述べている。(1)から(3)がインドから北方で使用されていった

言葉であるのに対し、天竺はインドからビルマを通じ、これが音写されて中国語化したもの と言える。

第2項 『史記』における身毒

中国の史書においてインドについて言及した最初期ものとしては中国最初の正史として 紀元前 91 年頃成立したとされる、司馬遷の『史記』が挙げられる。同書の「西南夷列伝」

には以下のような記述がある。

元狩元年、博望候張騫使大夏来、言、居大夏時、見蜀布・邛竹杖。使

従来、日、従東南身毒國。可數千里。得蜀賈人市。或聞、邛西可二千里

、有身毒國。塞因盛言、大夏在漢西南。慕中國、患匈奴隔其道。誠通蜀 身毒國、道便近、有利無害。於是天子乃令王然于・柏始昌・呂越人等、使聞出 西夷、西指求身毒國。至滇。滇王嘗羌乃畱、爲求道西十餘輩。歳餘、皆閉昆明

、漠能通身毒國。滇王與漢使者言、日、漢孰與我大。及夜郎候亦然。以道 不一レ通故、各自以爲一州主、不知漢廣大。使者還、因盛言、滇大國。足事親附

。天子注意焉。

元狩元年になると、博望候の張騫が大夏に出使して帰国し、次のような話をした、「私

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が大夏におりました時に、蜀産の布や邛山に産する竹で作った杖を見ました。どこか らもたらされたのかを尋ねさせると、『東南の身毒国から持ち帰ったのです。身毒国ま では数千里ほどありますが、そこの蜀の商人の市場で手に入れたのです』ということ でした。邛都の西方二千里ほどのところに、身毒国がある、とも聞きました」と。張騫 はその折、大夏は漢の西南にあり、中国を慕っているが、匈奴に漢への通路を妨げられ ているのを苦にしていること、もし蜀と身毒国との間の通路が開かれたら、交通の便 利は遠回りをせずともすみ、漢にとって利益はあっても害はないことを、盛んに述べ 立てた。そこで天子は、王然于・柏始昌・呂越人らを使者に立て、近道を通って西夷か ら出発し、西方に向かって身毒国を探索させた。一行が滇国に着くと、滇王の嘗羌は一 行を留めおき、彼らのために身毒国への道を探索すべく、十数組の者を西方に向かわ せた。一年余りたったが、いずれも昆明族のために道を遮られて、身毒国に行き着くこ とができたものはなかった。滇王は漢の使者と話していた時に、「漢と我が滇国とはど ちらが大きいか」と尋ねた。また、夜郎候のところでも同じような質問があった。道路 が開通していないために、彼らはいずれも自分が一州の主宰者だと思っており、漢の 広大さを知らなかったのである。使者たちは帰国すると、その機会に、滇国は大国であ り、滇国が漢に親しみなつくよう力を注ぐことは価値があることだと盛んに述べ立て たので、天子もそのことを心に留めた4

『史記』におけるインドは「身毒國」として記載される。元狩元年(前122)、匈奴挟撃 のために大月氏に派遣され、西域事情を伝えたことで知られる張騫(?~前114年)は大夏 に滞在していた際に現在の四川省に当たる蜀の布や同じく邛州の竹で作った杖を見て身毒 国の存在を知る。そして匈奴に対する戦略的な意味合いからも蜀から雲南を経由して身毒 国へと到る交通路を開発することを進言した。身毒国という語がインド亜大陸を漠然と示 していたのか、特定の国家の名称として用いられていたのかは定かではないが、『史記』に おけるこの部分が中国史においてインドが初めて言及された箇所として知られている。

第3項 『漢書』における天篤と損毒

一方、杉本によれば天竺系統に類別される名称が中国の正史に初出するのは紀元後82年 頃に成立したとされる班固の『漢書』巻96下「西域伝」第66条に見える「天篤」である。

皮山國、王治皮山城、去長安萬五十里。戸五百、口三千五百、勝兵五百人。左右 將、左右都尉、騎君、譯長各一人。東北至都護治所四千二百九十二里、西南至烏秅 國千三百四十里、南與天篤接、北至姑墨千四百五十里、西南當罽賔、烏弋山離 道、西北通莎車三百八十里5

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皮山国は、王が皮山城に治し、長安を去ること一万五十里。戸数五百、人口三千五百、

勝兵が五百人いた。左右の将・左右の都尉、騎君、訳長がそれぞれ一人いた。東北のか た都護の治所まで四千二百九十二里、西南は鳥秅国まで千三百四十里ある。南は天篤 に接し、北は姑墨国まで千四百五十里、西南は罽賔国・烏弋山離の道に当り、西北は莎 車に通じ、三百八十里ある6

皮山国とは現在の中国新疆ウイグル自治区ホータン県皮山県と思われる。同国の国勢が 述べられ、東西南北に接する国々の名が挙げられるが、そのうち南に接する国として「天篤」

が記されている。一方この直後には無雷国に関して以下のように記されている。

無雷國、王治盧城、去長安九千九百五十里。戸千、口七千、勝兵三千人。東北至

都護治所二千四百六十五里、南至蒲犂五百四十里、南與烏秅、北與捐毒、西 與大月氏接。衣服類烏孫俗與子合同7

無雷国は、王が盧城に治し、長安を去ること九千九百五十里。戸数千、人口七千、勝兵 が三千人いた。東北は都護の治所まで二千四百六十五里、南は蒲犂まで五百四十里、南 は鳥杔国と、北は損毒国と、西は大月氏国とそれぞれ接している。衣服は烏孫のそれに 類し、風俗は子合と同じい8(原文ママ)。

無雷国はやはり西域の一国と目されるが、正確なことは不明である。この国に関しては北 が「損毒国」と接しているという。注意したいのは『漢書』一書の中に「天篤」と「損毒」

という語源を同じくする二つの表現が並存していることである。班固が両者の同一性に気 づいていたかどうかは分からないが、『漢書』の重要な注釈者である顔師古は無雷国の条の 注釈として以下のように記している。

師古曰捐毒即身毒、天篤也。本皆一名、語有輕重耳9

つまり顔師古が言うには損毒とは即ち天篤であり、元々は一つの名で軽重があるのみで ある、ということになろう。顔師古による注釈は 641 年に成立したとされ、損毒と天篤が 同一のものとして認識されている。後代の注釈者は天篤、損毒が天竺、さらには印度と同義 であることを記している。

第4項 『後漢書』における天竺

また、范曄(398~445)の『後漢書』はやはり中国の正史であるが、その巻78西域伝に は「天竺国」の項目が立てられ、以下の如く記されている。

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天竺国、一名身毒、在月氏之東南数千里。俗與月氏同、而卑溼暑熱。其国望大水

。乗象而戦。其人弱於月氏、修浮図道、不殺伐、遂以成俗。従月氏、高附 国以西、南至西海、東至盤起国、皆身毒之地。身毒有別城数百、城置長。別 国数従、国置王。雖各小異、而倶身毒爲名、其時皆属月氏。月氏殺其王而置

将、令二レ統其人。土出象、犀、玳瑁、金、銀、鐵、鉛、錫、西與大秦通、有大秦 珍物。又有細布、好毾㲪、諸香、石蜜、胡椒、薑、黒盬

天竺国は、一名を身毒という。月氏國の東南数千里の所にある。風俗は月氏国と同じで あるが、低湿地にあって猛暑である。その国は大河に臨んでいる。象に乗って戦う。そ の人々は月氏國よりも弱く、仏道を修め、殺伐としておらず、かくて(それが)風俗と なった。月氏國・高附國より以西、南は西海(ペルシャ湾・紅海・アラビア海およびイ ンド洋の北西部)に至り、東は磐起國(インドの北東のはずれ)に至るまで、みな身毒 の領地である。身毒には別城が数百あり、城ごとに長を置く。別国が数十あり、国ごと に王を置く。各々いささか異なるとはいえ、ともに身毒を国名としている。(班勇がい た)その当時、みな月氏國に従属していた。月氏國はその王を殺して将を置き、その人 を統治させた。土地では象・犀・玳瑁・金・銀・銅・鉄・鉛・錫を産出し、西は大秦國 と通じ、大秦國の珍奇な品がある。また細布・すばらしい毾㲪(カーペット)・諸香・

石蜜(氷砂糖)・胡椒・薑・黒塩がある10

一般にこの部分が天竺という語の史料上の初出とされている。一方、天竺を含めたこれら の名称の関係についてまとめたものとして有名なのが 7 世紀の中国僧・玄奘による『大唐 西域記』における以下の記述である。

詳夫天竺称異議糾紛。旧云身毒。或曰賢豆。今従正音印度。印度之人 随地称国。殊方異俗。遥挙惣名。語其所一ㇾ美謂之印度。(中略)印度種姓族類 郡分。而婆羅門特為清貴。従其雅称伝以成俗。無経界之別。惣謂婆羅門 国焉。若其封彊之域。可得而言。五印度之境。周九万余里。三垂大海。北背雪山

。北広南狭。形如半月。画野区分七十余国11

天竺の名称を調べてみるに異議さまざまである。旧くは「身毒」ともいい、あるいは

「賢豆」ともいったが、今は正音に従って印度というべきである。印度の人はその地方 地方に随ってそれぞれの国号をとなえているが、遠方の外国では遥かより全体の名を つかい、その美しとするものを口にして印度といっている。(中略)印度は種姓・族類 が集団をなして分かれているが、婆羅門は特に清く貴いものとされている。その雅称 に従い言い伝えて一般のならいとし、地の境界の区別をいうことなく全体をひっくる

ドキュメント内 博士学位論文(東京外国語大学) (ページ 36-41)