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寺島良安と『和漢三才図会』

ドキュメント内 博士学位論文(東京外国語大学) (ページ 123-147)

第 5 章 知識人の天竺認識~西川如見、寺島良安の事例から~

第 2 節 寺島良安と『和漢三才図会』

寺島良安の『和漢三才図会』は、万暦37年(1609)前後に中国で刊行された『三才図会』

を元に著されたため、『三才図会』の日本版、あるいは改訂版としてのみ考えられ、近年ま で両者の詳細な比較検討は行われてこなかった29。また、江戸時代の世界認識を論じた研究 はこれまで数多く存在するが、『和漢三才図会』における世界認識に特化した専論は非常に 少ない30。さらに『和漢三才図会』には伝統的な三国世界観における天竺と西洋地理学によ って具現化したインドに関する新しい認識とが並存しているが、その理由や背景について の研究も十分とは言い難い。そして『和漢三才図会』は天竺あるいはインドに関する記述 が顕著に認められるにも関わらず、インド研究の文脈で語られることは稀だった31。そこで 本節では『三才図会』と『和漢三才図会』の中で天竺やインドに関する記述を取り上げて 内容を比較検討し、江戸時代における天竺認識とはいかなるものであったのかを考察する。

なお、以下では『和漢三才図会』を「和漢」、『三才図会』を「三才」と略して表記する。

第1項 『三才図会』と『和漢三才図会』の構成

『三才』は全106巻で構成される32。同書は16~17世紀初期の中国で数多く刊行された 百科事典の一つであり、本国だけでなく日本にも多数の版本、写本が残っている。その構 成は以下の通りである。

天文1~4巻、地理1~16巻、人物1~14巻、時令1~4巻、官室1~4巻、器用1~12巻、

身體1~7巻、衣服1~3巻、人事1~10巻、犠制1~8巻、珍寳1~2巻、文史1~4巻、

鳥獸1~6巻、草木1~12巻

このうち本論で取り上げるのは「人物」全14巻と「地理」全16巻である。まず「人物」

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全14巻は1巻から中国の歴代皇帝や歴史上の偉人が列挙されるが、9巻では釈迦牟尼仏の 後、33 人の仏教の尊者「三十三祖」が紹介され、それに伴って天竺に関する言及が見られ る。さらに「人物」のうち12~14巻に記載されるのは世界各国のいわゆる「民族」で、中 国以外の計175カ国に住まう人々が絵入りで紹介されている33。現在で言うインド、あるい は南アジアに関係する項目としては「天竺国」「東印度国」などが挙げられている。

次に「地理」全16 巻は主に中国全土の地図と地誌が収録されるが、1 巻には「山海與地 全図」と題した世界地図、13巻に「東夷」「西夷」などとした中国周辺の国に関する概説と 地図が収録され、その中の「西域図」は西域からインドまでが含まれている。

このように『三才』においては「人物」9巻における「三十三祖」、人物12~14巻の「民 族」、「地理」1 巻の世界地図と13巻の地域図、そしてこれらの地図に付随する地誌と、大 きく3カ所で天竺に関する情報が収録されている。

一方『三才』を元に編纂された全105巻の『和漢』の構成は以下である34

1巻 天文、2巻 二十八宿、3巻 天象、4巻 時候、5巻 暦占、6巻 暦日吉凶、7巻 人 倫、8巻 親族、9巻 官位、10巻 人倫之用、11巻 経絡、12 巻 支体、13 巻 異国 人物、14巻 外夷人物(中略)、55巻 土地類(中略)、64巻 日本総国 朝鮮 琉球 蝦 夷 西域 五天竺 北地諸狄 西南諸蠻(中略)、105巻 造醸

『三才』に記述された天竺あるいはインドに関係する情報は、あるものはそのまま継承 され、あるものは増補されて各巻に収録されている。まず先の仏教尊者「三十三祖」に対 応するのは64巻の後半で、やはり釈迦牟尼仏から始まる「三十三祖」である。次に「民族」

に対応するのが13巻の「異国人物」、14巻の「外夷人物」である。そして地図と地誌は55 巻、64巻に継承されている。

第2項 『三才図会』と『和漢三才図会』における天竺 (1) 地図と地誌

『三才』と『和漢』には世界地図とそれに伴う地誌が収録されている。まず『三才』で 天竺が記された地図は2種類ある。一つは「地理」1巻の「山海與地全図」と呼ばれる世界 地図である(図1)。

本図は欧羅巴、亜細亜、利未亜、亜墨利加、墨瓦蠟泥加という五大州の概念によって世 界を描出したいわゆる「リッチ図」系統の地図である35。本図における天竺は非常に小さい。

ユーラシア大陸のうち、中国の西南に安南、占城など東南アジアの地名が見られるが、本 来インドシナ半島とインド亜大陸として南側に個別に突き出して描かれるべき半島は、双 方が半ば合わさったかのように描かれている。インドに関する地名としては「三仏斎」す

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なわちシュリーヴィジャヤ王国の西方に「榜葛刺」、「應帝亜」があり、その北方にして「崑 崙」の南に「西天竺」の文字が見られる36。天竺という語はこの西天竺にしか用いられてお らず、そのほか東、南、北を冠した天竺は存在しない。つまり、この地図上では榜葛刺や、

Indiaの音写と思われる應帝亜が、天竺と並存していることが分かる。この「山海與地全図」

は『和漢』の 55 巻「地部」の冒頭にそのまま収録されている。ただし、『三才』の「山海 與地全図」の四隅に記されていた説明文は省かれている。

『和漢』と『三才』双方の「山海與地全図」に付随した地誌に眼を転じてみると、五大 州の説明がそのまま踏襲されていることが分かる。ただしこの場合、亜墨利加が南北に分 かれており、六大州として説明されている。以下は『和漢』記載の文である。

仏氏の所謂る三千世界は寓言にして、未だ審かならず。天文者家流に用うる所の地理 万国の図、甚だ詳かにして邦国最も多し。而れども唯だ総べる所は六大州のみ。

欧羅巴 利未亜 亜細亜 北亜墨利加 南亜墨利加 墨瓦蝋泥加 以上之を六大州と 謂う。註略、後に見ゆ。

欧羅巴 南は地中海に至り、北は臥蘭的亜及び氷海に至る。東は大乃河、墨河的湖 の大海に至り、西は大西洋に至る。利未亜 南は大浪山に至り、北は地中海に至り、

東は西江海、仙労、冷祖島に至り、西は河摺諸滄に至る。即ち此の州只、聖地の下微 路を以って亜細亜と相聯る。其の余は全く四海囲む所と為る。亜細亜 南は沙馬、大 臘、呂宋等の島に至り、北は新増、白臘及び北海に至る。東は日本島、大明の海に至 り西は大乃河、墨河的湖の大海、西紅海、小西洋に至る。亜墨利加南北の二処在り。

全く四海の囲む所と為る。南北、微地を以って相聯る。墨瓦蝋泥加尽く南北に在り。

惟だ其の北辺、大小の呱哇及び墨瓦蝋泥峡と境を為す。以上之れを六大州と謂ふ。大 約各州ごとに百余国有り37

下線部は良安による按文であり『和漢』にのみ記載される。仏教で言う「三千世界」は 寓言として退けられ、一方で天文学者が用いる西洋由来の世界地図は詳細で様々な国々が 記載されるが、それらを総合する概念としての五大州(六大州)が紹介されている。リッ チ図の世界認識を受け継いだ「山海與地全図」上では、西天竺の記載こそあれ、日本で独 自の発展を遂げた天竺の概念、すなわち三国世界観における天竺のような概念は見受けら れない。その説明文でも西洋地理学がもたらした新たな概念である五大州(六大州)の説 明がなされるだけで、天竺がそのうちどこに属するのかは明確な言及はない。

『三才』に収録されたもう一方の世界図とは、各地域を拡大した地図である。『三才』の 地理 13 巻には「東夷」「西夷」など八方位の「夷」について述べられており、「朝鮮国図」

「日本国図」などの地域図が掲載されている。そのうち天竺が描かれているのは「西域図」

である(図2)。

この図ではいわゆる西域諸国の南方に「葱嶺極頂」「大雪山」が描かれその南西にインド

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に関する地名が見られる。亜大陸の地形は全く描かれておらず、西域の南部に地名が漠然 とした位置関係で配置されているに過ぎないが、そのうち中心には「天竺国即古仏国中印 度」の文字が見られ、その四方に「榜葛刺即東印度」「西印度」「南印度」「印度北」(ママ)

と記されている。「天竺国」と「印度北」の間には「伐刺拏国」があり、「南印度」と「東 印度」の間には「沼納撲兒」との記載がある。これらの地名表記から言えることはまず天 竺国というのはかつて仏国であるところの中印度として呼んでいた地域であるということ、

中印度の周辺に東西南北の印度があり、そのうち東印度とは榜葛刺と同義として認識され ているということである。東西南北と中に印度が分かれているのは、五印度あるいは五天 竺の概念に端を発するものであろう。なお、「伐刺拏国」は『大唐西域記』に見える地名で あり、ガズニ東南のバンヌ地方に当たると考えられている38

先の「山海與地全図」をそのまま継承したのとは対象的に『和漢』は「西域図」は継承 せず、64 巻に「西域五天竺之図」「西南諸蛮之図」「北地諸狄之図」と題された別種の地域 図を掲載している。この地図は良安独自のものではなく、鳳潭の『南瞻部州万国掌菓図』

を三分割したものと考えられている39

まず「西域五天竺之図」から見てみると、左右見開きで右頁側を北側に取り、インド亜 大陸らしき地形が描かれている。亜大陸は細かな地域ごとに細分化され、それぞれに国名 と「周六千里」などとそして、その周囲の距離が記されている。鳳潭の地図はいわゆる「仏 教系世界図」に分類され、『大唐西域記』に記された仏国土としての天竺が記されている40。 しかし注意したいのは、この図の題名が「西域五天竺之図」であるにも関わらず、図中に は天竺の語は見えず、むしろ印度という語が用いられている点である。図中の中央付近に

「中印度」が記され、それより西部に「北印度」と「西印度」が隣接して描かれている。

さらに「中印度」のやや南に「南印度」、東北に「東印度」そしてベンガル湾には「東印度 榜葛刺海」との文字が記されている。また、この東西南北中の区分はいわゆる五印度とい う伝統的区分を地図上に投影したものであるが、これが何故「五天竺」とは記されていな いのであろうか。仏教系世界図の淵源たる「五天竺図」は『大唐西域記』における玄奘の 旅程を記す目的のもとに描かれた地図であった41。そのような潮流から生まれた『南瞻部州 万国掌菓図』においてもまた、図中に記された国名はいずれも『大唐西域記』に見られる 古代インドの地名であり、その「周」の距離も、同書における記述を踏襲している。『大唐 西域記』においては天竺よりもむしろ印度と表記されていたため、この図においても印度 が用いられていると言ってよいだろう。そしてまた、良安は後に見るように仏教による世 界認識を退けていたが、かといって実際に当時のインド内部における詳細な地名を記述す るに当たっては未だに『大唐西域記』に見られるような仏教的世界認識に拠るしかなかっ たとも言えよう。また、次項に記す「人物」に見られる莫臥爾や聖多黙といった地名はこ の地図上には見られない。良安は莫臥爾や聖多黙が南天竺の内にあるということは「南印 度」のどこかに所在することは理解していたはずだが、いざ地図上に描くとなるとそれだ けの地理学的知識は持たなかっただと考えられる。

ドキュメント内 博士学位論文(東京外国語大学) (ページ 123-147)