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「大象図」における天竺

ドキュメント内 博士学位論文(東京外国語大学) (ページ 163-172)

第 6 章 民衆の天竺認識~天竺徳兵衛と『五天竺』を中心に~

第 3 節 「大象図」における天竺

江戸時代の民衆が想起した天竺は、これまで検討してきたような物語作品を媒介とする ことで人びとが住まう日常とは乖離した異国的なイメージを伴いながら認識されていたも のと考えられる。そのような異国のイメージには様々な要素が付随するが、本節では中でも 天竺に住んでいるとされた霊獣であるゾウについて取り上げる。先に引用した『往来』の作 中に「大象」に関する言及が見られたようにゾウを初めとした珍奇な動物たちが住まうもの とされたのが天竺の異界性に関する一側面である。

法華経を信奉するものを普賢菩薩が白いゾウに乗って守護すると言われるように、ゾウ は古来「普賢菩薩騎象像」に描かれてきた。また、六度経にある「群盲象を撫でる」「象を 評す」「衆盲象を模す」の故事を描いた図や、「釈迦涅槃図」に集う珍奇な動物たちの一つと して仏画に表現され、仏教説話にも登場することから霊験ある獣として人びとに知られて いたものと考えられる。そのため仏教の祖国である天竺に生息する半ば幻想的な動物とし て人々に認識されていたと言える。この場合、ゾウは白い肌をして鼻が長く、2本の牙が大 きく突き出した姿で描かれる。

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すでに『日本書紀』天智天皇10年(671)十月の条に、

是の月、天皇使を遣して袈裟・金鉢・象牙・沈木香、栴檀香及び諸珍財を法興寺の佛に 奉らしめたまふ41

とあるように、「象牙」という形で古くから象の存在は知られていたようである。

しかしながら近世までの日本列島に実物の象が渡来したことはなく、それゆえ天竺その ものの存在とともに、ゾウが持つイメージは人びとの想像の中で膨らんでいったと言える。

鎌倉時代の「玄奘三蔵絵」などに見られる表現からも分かるようにゾウは、絵画作品の中に 描出されることで見る者に異国情緒を感じさせる要素として機能していたものと考えられ る42。本稿が主な主題とする江戸時代の人びとが夢想していた象のイメージは、特に「大象 図」などと呼ばれる絵からうかがえる。

近代に入るまでの間に日本にゾウが渡来したのは計 7 回と考えられている。すなわち応 永15年(1408)、天正3年(1575)、慶長2年(1597)、慶長7年(1602)、享保13年(1728)、 文化10年(1813)、文久2年(1862)である。

このうち最初に当たる応永のゾウについて『古事類苑動物部』「若狭国守護職次第」には このように記されている。

応永十五年六月廿二日に、南蛮船著岸、帝王御名亜烈進卿番使々臣(問丸本阿)彼帝よ り日本の國王への遺物等、生象一疋黒、山馬一隻、孔雀二對、鸚鵡二對、其外色々、彼 舟同十一月十八日、大嵐に中湊濱へ打上げられて破損之間、同十六年に船新造、同十月 一日出濱ありて渡唐了43

この黒い「生象」は若狭に着岸した南蛮船から時の将軍足利義持に寄進されたのだが、そ の後将軍薨去の際、幕府は朝鮮に大蔵経を求め、その返礼として同国へ贈呈したと伝えられ る44。わざわざ「生象一疋黒」と記されているのは通常、ゾウは白いものという了解があっ たためと考えられる45

第1項 享保13年のゾウと『象のみつぎ』

その後、天正を経て慶長7年に交趾からゾウが渡来し徳川家康に寄進されているが、江戸 時代の民衆の認識にも大きな影響を与えたのが享保13年6月7日に広南から入港した雌雄 2頭のゾウである。これは将軍吉宗の命により商船がもたらしたもので、雄は7歳で高さ5 尺7寸(約1.73メートル)、雌は5歳で高さ4尺7寸(約1.42メートル)だった。長崎唐人 屋敷の空邸に収容された後、雌は舌にできた腫物のせいで死亡するが雄は大阪を経て上京 して従四位に叙せられ上中御門天皇、霊元法王に膝をついて敬礼し、その後享保14年5月

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27日には吉宗の上覧するところとなった。『徳川実紀』にはこのように記されている。

二十七日大広間にいでたまひ象を御覧あり。布衣以上の諸有司みなみることをゆるさ れたり。これは去年六月鄭大威といへる唐商が。廣南より象の牡牝船にのせて長崎の 港に来りしを。江戸にひきまいらすべきむね傅へられしが。其九月牝は斃れぬ。とてこ とし三月かしこを出て。一日に五里または三里をあゆみてやうやく京にいる。こなた よりことさらの御旨ありて。大内。院中へも引しめられ御覧あり。親王公卿にもみなみ せらる。めづらかなることなれば。内にも院にも人びとつどひ。詩歌などあまた献ぜら れしが。此月廿五日府にいり。濱園の内につながれしをけふめして御覧じ給ふなり。こ れより三家ならびに庶流の人の家までも引せて見せしめらる46

吉宗はこのゾウが非常に気に入って寛保元年まで13年間浜御殿で飼育し、江戸城に何度 も伺候させた。結局飼育代がかさんで寛保元年10月に中野村の農夫源助に払い下げられた 後死亡したが、その遺品は宝仙寺に奉納され現在まで寺宝とされ伝わっている47。このゾウ は各地で話題となり白梅園『霊象貢珍記』、林信充等『馴象編』、井上通熙『馴象俗談』、智 善院『象志』中村平五『象のみつぎ』といった象に関する書物が幾通りも発行された。例え ば『象のみつぎ』には以下のような記述が見られる。

日本享保十三年戊申乃六月七日異国より稚育の象を牽て長崎十善寺に来り(中略)中 華にさへ象の来ることまれなり。まして日本ハ万里の霊水を隔てたれば象をみること ためしまれなることなり。人皇百一代後小松院応永十五年に南蛮国より真黒なる象を 日本へ渡なり。(中略)応永は年号も三十四年つづきて三十余年の間一歳も凶年なく五 穀豊穣なりしとぞ。是全く象の来る一端。(中略)南蛮国をはなれて南印度乃地より南 方はみな白象にして生まれ質交趾郡の象なり。甚だ大なり。十歳以上にてハ背平坦に してタタミ十二畳を敷べし。南印度乃うち住輦國といふ国の象は背に大に大なる家を つくりて大勢の人住居をなし鉤をもつて象を制して家組ながら山へ乗行、紫薪又は材 木を剪て象に載かへる48

象は中国でも珍奇な動物であり、応永年間に渡来した際には年号が34年も続いて凶事が なく、五穀豊穣だったことが記されており、これがいわば象の「ご利益」であるように語ら れている。なお、後半の住輦國の大象については挿絵も描かれており、『和漢三才図会』に おける描写と同様に、象の背に櫓が組まれて人が乗っている様子になっている。

第2項 文化10年のゾウと「浅間神社所蔵大象図」

次に文化 10年6月28 日、蘭船がセイロン島産の雌ゾウを長崎にもたらした。長崎奉行

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遠山左衛門尉は将軍に献上する旨伺いを立てたが老中で評議の末、本国に返還されること となった。この文化のゾウに関しては描かれた史料がいくつか残されている。たとえば長崎 代官高木氏が唐船、蘭船の持ち渡った動物類を江戸へ要不要を尋ねるために作った絵図の 控として作成した『唐船持渡鳥獣之図』(慶應義塾大学図書館蔵)には「文化十酉阿蘭陀船 持渡 象牝壱疋」としてこのゾウの姿が描かれている。仏教に伴ったイメージとして描かれ てきたのとは異なり、この図におけるゾウは灰褐色から黒に近い色合いで描かれており、ほ ぼ我々現代の日本人がイメージするのと同様の色と言える。この図には「出所セイロン」と してその出自が記されている。

この文化のゾウを描いた別の絵に、静岡浅間神社が所蔵する「大象図」がある。先の『唐 船持渡鳥獣之図』におけるゾウが、我々のイメージよりもやや痩せ気味に描かれているのに 対し、こちらのゾウはいくぶん太めに描かれ、より写実的な絵と言える。また、さらに大き く異なるのはゾウだけでなく人物が 5 人描かれていることである。左側を向くゾウを中心 に右側に南蛮人が3人、ゾウの首に跨るゾウ使いと、ゾウの左側の地面でゾウと相対して座 り、エサを与えている人物が描かれている。このうち後者二人はターバンのようなものを巻 き、白くゆったりとした服装を身に纏っており、南蛮人とはまったく異なった姿で描かれて いる。これは朝鮮通信師や唐人の服装がフリルを伴って描かれているのとも異なっている。

この絵の説明書はゾウの右手にオランダ語、左手にその日本語訳が記されている。日本語 訳に、

文化十歳次辛酉の夏六月の和蘭

商船載来る所の象其の高六尺七寸首より 屋根に至るまて七尺六寸余鼻長三尺五寸重 千五百四十斤強齋狼嶋に生れて五歳なるを 蘇門太刺嶋の巴蘭蠻屈におゐて得たりと云

と記されており、やはり齋狼、すなわちセイロンで生まれたことが記されている49。 文化10年頃の日本人の世界認識は、西洋経由の地理学的知識の流入に伴い三国世界観が 変化ないし崩壊していく過程にあったと言える。西川如見の『増補華夷通商考』において天 竺は「亜細亜」の一部に縮小され、インデヤ、モウル、ベンガラといった地域名と並列して 地図上に記されるようになる。『増補華夷通商考』における世界認識の中で、文化のゾウの 出生地とされる場所である「セイロン」は「南天竺」の一国として認識されている。すなわ ち亜細亜>天竺>南天竺>セイロンという関係がわかるだろう。如見におけるこのような 世界認識は19世紀の日本における知識人にはほぼ浸透していたと思われ、ゾウは天竺のな かの「セイロン」という場所で生まれた珍奇な動物として想起されていたのである。

ドキュメント内 博士学位論文(東京外国語大学) (ページ 163-172)