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来日宣教師の仏教認識と天竺

ドキュメント内 博士学位論文(東京外国語大学) (ページ 71-86)

第 3 章 イエズス会士と天竺人

第 2 節 来日宣教師の仏教認識と天竺

第1項 ヨーロッパ世界におけるインドについて

本節では来日した宣教師たちが天竺とインドについてどのような理解をもっていたのか について考察する。そのためにまず宣教師たちの祖国であるヨーロッパ世界においてイン ドがどのようにイメージされていたのかについて概要を確認する。

ヨーロッパ世界におけるインドの呼称であるIndiaあるいはIndoは、2章でも論じたよ うに天竺と同様に元来はインダス河流域を意味するサンスクリット語 Sindhu に端を発す る語である。しかし同じくSindhuから転訛し、さらに音写されて漢字表記となった天竺と は別個の概念として発展したことは注意を要する。ヨーロッパにおける南アジアに関する 最古の記述は紀元前6世紀後半のヘカタイオスの「世界周遊記」逸文にあり、インダス河沿 岸まで「オピア人」が住み、さらに上流まで砂漠があると記されている17。紀元前5世紀の ヘロドトスにおいては、インドはインダス河の東側の流域を指し、後 1 世紀頃のプトレマ イオスにおけるインドはガンジス川の内側India Intra Gangemとされており、外側である

India Extra Gangemは野蛮の地と考えられていた。これらの名称はいずれも現在のインド

北部から北西部を指し示したものであり、ローマ帝国との海上交易が行われていた現在の 南インドに関しては港湾都市の個別名称によって知られており、インドという概念に包括 されていたものではなかった18

このような古代ヨーロッパにおけるインドに対する認識は中世まで続いたと考えられ、

いわゆる TO マップやヘレフォード図といった地図に見られるようにインドはヨーロッパ 世界の東側にあると目された「楽園」の近くに描かれることが多かった19。十字軍の遠征が 始まる頃には、インドにはプレスター・ジョン王の失われたキリスト教国があるものと目さ れ、さらにマルコ・ポーロの著作に見られるように聖トーマスの伝説も加わったことにより、

ポルトガルがインド亜大陸に進出する頃には、コロマンデル海岸のサントメはキリスト教

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の聖地として「再発見」されることになった20。また、コロンブス以来、アメリカ大陸は「西 インド」と称され、本来のインドは「東インド」と称されることになったが、この際のイン ドは必ずしもインド亜大陸だけでなく、東南アジアや日本をも包括する概念であったこと も宣教師たちが有していたインドに関するイメージを考える際に重要である。

ポルトガル人やその他のヨーロッパ人にとってインドという概念は現在のインド共和国 の領土であるインド亜大陸だけを示していたわけではない。先述のようにインドという語 はインダス川流域を指し示すSindhuが、ペルシャからギリシャを経るにつれHind、Indo と転化したことによってヨーロッパ世界に定着した。ヘロドトスやメガステネスを通じて

「インドに至るまでのアジア地域には人が住むが、インドから東の地はすでに無人の境で、

その状況を語り得るものは一人もいない」というイメージや、無頭人、一眼人や巨大な象、

一角獣などの異様な生物が跋扈する「世界の果て」としてのイメージが広がるようになった。

このギリシャ・ローマ時代にまで遡るインドという語はキリスト教世界における異国の 代名詞とでも言うべき概念へと成長していた。それはヨーロッパ世界を自己と規定した際 の他者の一つであり、それはちょうど本朝に対しての天竺にも似た関係性であったものと 考えられる。そのため中世からいわゆる大航海時代になるまでインドは中国や日本も含め た東アジア全域を漠然と指し示す語であり、亜大陸全体が一体的なインドとして意識され るようになるのは近代になってからのことだと考えられる。日本史研究者の間ではインド は古来、一体的な存在であったかのように論じられ、南アジア研究者の間である程度共有さ れているものと思われる、インドという概念そのものが歴史的に構築された産物であると いう前提が欠落しているものと考えられる。

このような経緯に鑑みれば16世紀に来日したザビエルを初めとするイエズス会宣教師達 が日本で出会った仏教に対して、その教えの根源が彼らが根拠としているインドであった ことに思い至ることがなかった理由が分かるだろう。むしろザビエルらはアンジローから 初めて耳にしたように日本人の奉じる仏教という宗教の源は天竺という中国やタタールの さらに西方にあるであろう別の場所にあると信じていたのである。もちろん、『大唐西域記』

など仏典には明確に天竺と印度が同義であることが記されており、それらを読みうる者に はその情報が共有されていたであろう。しかしながら、仏典に記される印度がザビエルらが 経由してきた India と同根であることを理解できたものはいなかったであろう。日本で本 当の意味で天竺、印度、そしてIndiaが完全に同一であると理解されるのは蘭学系統の世界 認識が浸透する江戸時代後期のことであること考えられる。

そもそも天竺をインドの旧称とする考え方は、インドという統一的な実体があたかも原 初から存在するかのような錯覚に基づいていると言える。仏教とともに伝来した天竺とい う概念に対して、Indiaはザビエルらとともに本格的に伝来した概念である。天竺には印度 という別称があることは仏教者を中心としたごく一部の知識人には知られていたと思われ るが、その情報に精通したものであっても印度とインド、つまりザビエルらが根拠としてい

た India が同一であるとは即座には知りえなかったものと思われる。日本へ導入された時

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間的な隔たりが千年近くあるこれら二つの概念は即座には結びつかず、Indiaという概念が 遅れて伝来してしばらくの間は天竺と別個のものとして用いられ、認識されていたことは 重要である。しかしこれまでの研究ではこれら両者を別個のものとして捉えていなかった ために、イエズス会の文書に天竺についての記載があること事態がそれほど問題視されて いなかったように思われる。

第2項 イエズス会士の仏教情報

ザビエルら宣教師達は自らが天竺人と呼ばれていることを自覚していたようだが、それ では彼ら自身は日本人が称する天竺という場所についてどのような認識を持っていたのだ ろうか。本節ではザビエルらイエズス会の宣教師たちが来日した際に、今日仏教と呼称され ている信仰について、どのような知識、認識を持っていたのかということについて考察する。

実はザビエルらイエズス会士たちが天竺からやってきたという「誤解」を受けたのには彼ら 自身の仏教認識が密接に関係していると思われる。ザビエルが初めて日本の宗教、特に仏教 についての知識を得たのは彼の通訳者として知られるアンジローから日本に関する情報を 得た時であったと考えられる。以下にアンジローを情報源としてザビエルらが仏教に関し てどのような認識を持っていたのかを示す史料を挙げる。

まずゴアの聖パウロ学院長ニコラオ・ランチロット(Nicolao Lancilotto)から1548 年

(天文 17)夏、ローマに在していたイエズス会創始者の一人であるイグナティウス・ロヨ

ラのもとに送られた日本報告のための書翰である。アンジローが語った話として日本の国 土の広さ、天皇や大名、僧侶の存在などについて説明した後、ランチロットはこのように述 べている。

この者はまた、彼等の間で聖人と考えられているある人物の物語を話してくれました。

その者はシャカと称されます。その物語とは次のようなものです。彼が語るには、シナ を超えて西方にチェンピコと称される国があります。その国にはジョンボンダルボと 呼ばれている王がいて、彼はマジャボニンと称する婦人と結婚していました。(中略)

彼女は男と交わることなく懐妊していることが分かり、九箇月して男子を出産しまし た21

日本で聖人と考えられる釈迦が天竺という国で浄飯大王(シュッドーダナ)の妻・麻耶夫 人から生まれた次第が述べられている。ここで「チェンピコ(Chempico)」として登場する 天竺は、以下に示す史料を見ても明らかなように、イエズス会宣教師の書翰において

「Chengico」、「Chengequ」、「Chensicu」、「Chinisco」、「Chenguinco」、「Cengicho」など と記載されており、その綴りは一定していなかったようである。彼らは「シナの西方にある」

という情報を持っていたほかは、この場所がどこにあるのか分かっていなかった。ランチロ

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