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『五天竺』における天竺

ドキュメント内 博士学位論文(東京外国語大学) (ページ 159-163)

第 6 章 民衆の天竺認識~天竺徳兵衛と『五天竺』を中心に~

第 2 節 『五天竺』における天竺

次に本節では『五天竺』と題される人形浄瑠璃作品における天竺の表現について考察する。

『五天竺』は文化13年(1816)7月29日に初演が行われ、以降上演を重ねて物語自身も貸 本屋を通じて広く民衆に読まれた28。本作は一見して演題が『五天竺』と題されていること からも予想されるように、劇中に天竺が登場する物語である。そのため、台詞にも様々な形 で天竺という言葉が散見され、その用法は近世、特に江戸時代後期における民衆の天竺認識 を考察する上で示唆に富むものが多い。『五天竺』はこれまで演劇史や中国文学の立場から ある程度の研究の蓄積があるもの、対外関係史の文脈からの考察は行われてこなかった。そ こで本節では『五天竺』の作品を概観して劇中に表された世界観を検討し、江戸時代の民衆 が有していた天竺認識の特徴について論じる題材の一例として位置づける。なお、以後作品 名を『五天竺』、用語としては「五天竺」と表記する。

第1項 『五天竺』の概要

全22段の『五天竺』は玄奘三蔵、孫悟空、釈迦如来という異なる3人の主人公の物語の 複合体である。段が変わるごとに主人公と舞台が変わり、最後に3人が出会うことで物語も 一つに収斂して幕を閉じる。玄奘と孫悟空が主人公の段は『通俗西遊記』(宝暦8年に初編 刊行)や『画本西遊記全伝』(文化3年に初編刊行。別名『絵本西遊記』)を典拠とし29、主 に唐土を舞台とする。釈迦如来が主人公の段は正徳4年(1747)頃の初演とされる近松門左 衛門の『釈迦如来誕生会』をそのまま流用したとされ、天竺が舞台である30

『五天竺』は『西遊記』が日本人向けに消化され、独自の物語として形成されたという点 で西遊記受容史の重要な事例と考えられている31。その物語世界は根強い人気を持ち、初演 以降、江戸時代に 8回、明治以降も 14回上演されている。江戸時代の公演をまとめると、

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文化13年7月(大阪、御霊境内)、文政2年1月(堺、宿院芝居)、文政2年2月(天満天 神社内)、天保11年8月(大阪、御霊境内)、天保12年4月(京、四条北側大芝居)、嘉永 1年6月(明石芝居)、安政1年閏7月(大阪、博労町いなり)、文久3年8月(京、寺町和 泉式部境内)となっている32。このうち天保11年「いづ卯板」番付口上書を見ると、「釈迦 如来出生より三蔵法師の行状孫悟空と云大キなる猿のはたらき等いろゝめづらしき事にて 大入致し候事これあり久々にてこれを出し候やう被仰下候」などとして、なかなかの評判だ ったことが分かる33。また、その版本が貸本屋の営業品目の一つになり、『通俗西遊記』『画 本西遊全伝』などと一緒に貸し出されるなど、当時の人々の間に大きな影響があったと考え られる34

第2項 『五天竺』における天竺

次に『五天竺』内で言及される天竺認識について具体的に検討すると、三つの特徴が挙げ られる。

第一に、既に時代としては西川如見の『増補華夷通商考』出版後1世紀近くが経過し、五 大州の概念が知識人の間ではある程度流布しているであろう時期にも関わらず、『五天竺』

においては未だ天竺という語が用いられ、三国世界観的な表現が散見される。例えば「魔け い修羅王」(摩醯首羅王・大自在天の別名)が孫悟空の最初の敵として知られる妖怪・混世 王に釈迦が仏道を広めるのを阻止するよう命じる以下の台詞である。

ヤアヤア混世。我レ欲界の主ジと成って。三千世界を魔道になさんと謀る所に。時キ至 つて今天竺まかだ国。浄飯大王が子に。釈迦といふやつ出ッ生し。仏ツ道を尊み。唐士 (土か)日本三国に弘んとする事。未然を察してよく知ッたり。我又浄飯大王が甥に。提 婆達多といふ者有リ。彼レに付ィて妨げなさん。【怪石の段】

釈迦が生まれた国として「天竺まかだ国」との名が挙げられており、マガダ国のことと考 えられる。また、釈迦が仏道を広めるべき地域として唐土と日本が挙げられており、天竺と を合わせて三国と表現されていることが指摘される。引用した部分の他にも「鶏足山の段」

の冒頭に場面の説明として「爰は天竺まかだ国」との表現が見られる。先に見た『天竺物語』

や一連の「天徳もの」においても、「まかだ国」「まがた国」などの異同はあるものの、マガ ダ国に関する記述があった。そこでは徳兵衛が到達した場所として「中天竺まかだ国」など という表現が用いられていた。摩掲陀国の名称は実在の玄奘が記した『大唐西域記』の書中 でも用いられる名称であり、様々な仏典で用いられているため僧侶たちにはなじみのある 語だったと考えられるが、この時代にはこうした形で民衆の耳目にも触れた語となってい たことが分かる。

また、三国に関しては以下のような表現もある。

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玄奘三蔵と云フやつ此天竺へ渡り。釈迦に対面し唐士(土か)持チ帰り。日本迄も弘めん と此辺を徘徊なす。【須達長者の段】

唐土に持帰り帝に捧。猶日本に弘給ひ。三国一致となすべしと。仰は弘る法の道。【祇 園精舎の段】

いずれの箇所においても玄奘の行いは仏法を唐に持ち帰り、これをさらに日本へ流布さ せることだと語られている。三国世界観は本朝、震旦(唐・中国)、天竺の三国により世界 を表現する方法であり、仏教的世界観の変種である。そのため三国は単に世界を3分割して いるだけではなく、仏教がもたらされる道筋として捉えられていることも理解できる。その ような意味で言うと例えば『三国仏法伝通縁起』のような中世の仏教者に見られたような観 念が、この時代にも存続しているとも言い得る。また、それと並行してこれら三国はいずれ も「浮き世」であり、善悪の区分などといった性質を異にするわけではない、ということが 以下のような部分に表現されている。

善と悪クいづれ天竺唐土もかはらで同じ心なる。【天竺御殿の段】

さまゝの。浮き世渡タりは。天竺も唐も。日本ンも異ならず【白蓮子別れの段】

第二に本作表題となっている「五天竺」という用語の使用法である。『五天竺』において 天竺という語は計36回登場し、そのうち7回が「五天竺」という形で用いられる。

されば釈尊の御父帝は浄飯大王と申奉り。五天竺の君として【天竺御殿の段】

耶輸多羅女と申奉るは二つおくれて十七才。五天竺第一の美人【花園の段】

ヤア五天竺の主ジ同然ンの提婆公の仰を背くは憎いやつ【林丹子住家の段】

五天竺第一須達長者と申せしは。八万八千の蔵々にあらゆる財宝道々て月雪。花の歓 楽に仕うる男ン女数知ず【須達長者の段】

某提婆達多が正法を尊む事。五天竺に隠れなし。【須達長者の段】

このほか【天竺御殿の段】には引用したものと同様の用例が二つあるが、いずれも「五天 竺」という言葉は「全天竺」といった意味で用いられている。注意すべきはこれらの段がい ずれも天竺を舞台とし、『釈迦如来誕生会』に依拠した部分だということである。また、「五 天竺」の語は天竺に住む人々が自称として口にする語として用いられていると言えるだろ う。この語が作品名になった具体的な経緯は現在のところ不明だが、天竺という語を用いる ことで、これに付随するイメージを喚起し、人々の関心を引こうとした可能性はあるだろう。

すなわち、中世以来続く仏教説話で語られるようなイメージや、「天徳」ものに見られるよ うな、現実世界とはかけ離れた荒唐無稽な場としてのイメージである。徳兵衛が天竺の名を

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冠しながらも、キリシタンのイメージを色濃く反映しているなど、天竺とはある種「異国」

の代名詞だったとも言える35。その異国性を強調するために、「五天竺」という言葉を表題と して用いたのではなかろうか。そしてその異国性を感じ取るだけの素養が、これらの作品を 鑑賞する側の民衆にも備わっていたものと考えられる。

第三の特徴として、「西天竺」という語が計14回用いられているのに対し、北天竺、南天 竺、東天竺、中天竺という「五天竺」の他の地理区分は一切登場しないことが挙げられる。

例えば「人参菓の段」の例を見てみよう。孫悟空が宮城の裏庭に三千年に一度しか実がなら ず、不老長寿の薬となる人参菓の実を拾っていると観音に諌められる場面である。

ヤアゝ孫悟空狼藉なせそ鎮まれと聞て恟り見返る雲。紫雲に乗じて観音薩陀。微妙の 御声麗しく。汝往昔天宮を騒がせし科により。我手の内にとらえ置長く禁獄すべきを。

赦し置たる仔細といつぱ此度玄奘勅命によつて西天竺へ趣く道守護の役は其方へ兼て 申付置つれば身を慎て勤べきに猶旧悪を改ず天理に逆ふ無法の乱妨。所存有やとの御 咎聞より大きに恐入。ハア全く某欲心ならず伝へ聞たる人参菓。寿命を延る薬なれば 師匠に与へ渡天の道筋猛龍悪虎の危難を防ぎ、身躰堅固に経文を取帰らんと一途の了 簡前後を亡ずるぶ調法。真平御免下さるべしと土にひれ伏詫ければ。菩薩完爾と打笑 給ひ。ホヲ善哉孫悟空。猶又流沙の川上に沙悟浄といへる者。三蔵に随ふて。西天竺へ 至る事申付置たれば。【人参菓の段】

この他、「西天竺婆羅奈国」とした「林丹子住家の段」の1例を除き、いずれにおいても 西天竺は玄奘が趣くべき地、到達した地という文脈で語られている。

そもそも「五天竺」とはヴェーダ文献にも見られる古代インドの地理区分に端を発し、仏 教を媒介として日本に伝わった概念であり、通常は東天竺、西天竺、南天竺、北天竺、中天 竺から成る。『大唐西域記』では「五印度」と記され、「五印」「五天」などと表現されるこ ともある。プラーナの時代からインドを5区ないし9区に分ける考え方が見られるが、5区 に分ける場合はサンスクリット語でPracya(東インド)、Aparanta(西インド)、Daksinapatha

(南インド)、Udicya/Uttarapatha(北インド)、Madhyadesa(中インド)である36。ただし、

このような区分と玄奘の時代における「五天竺」が厳密に対応しているわけではない。むし ろ仏教の文脈における「五天竺」の区分は恣意的に操作されている部分があることが既に指 摘されている。『天竺物語』や一連の「天徳もの」に登場したマガダ国は中天竺として表現 されることが多いのだが、これは仏陀が活躍した国であるところのマガダ国が、現代の地理 学的には東インドに類別されることもあるビハールに属しているものの、中心であること を強調するために中天竺に分類されている側面があると考えられている37

玄奘の事績は『大唐西域記』から『西遊記』へと続く系譜によって語り継がれてきた。そ の中に見出される世界は仏教的世界観によって語られ、インドは仏国土であるとともに、中 国から見た天竺として認識されている。『西遊記』は『大唐西域記』に記された玄奘の旅程

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