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『印度蔵志』の先行研究

ドキュメント内 博士学位論文(東京外国語大学) (ページ 172-176)

第 7 章 宗教者の天竺認識~平田篤胤『印度蔵志』を例に~

第 1 節 『印度蔵志』の先行研究

篤胤の思想についての先行研究は戦前、戦後を通じて多数の論考、著書が蓄積されてい るため、『印度蔵志』に言及しているものもいくつかある3。しかしながら、それらはあくま で言及に留まるものがほとんどであり、同書に関する専論はほとんど見当らない。その理

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由として、篤胤が発する言説の著名な特徴のひとつである、激しい仏教批判が敬遠されて きた、ということがまず挙げられるだろう。そして、その帰結として仏教批判の書とされ る『印度蔵志』もまた、仏教者からは遠ざけられ、また平田国学の「本流」とは離れるた めか、国学や神道を専門とする研究者からも敬遠されてきたように思われる。以下に『印 度蔵志』の先行研究として挙げ得るものを、時代を追って概観する。

『印度蔵志』を本格的に取り上げた最初の研究は、西田長男によるものと考えられてい る4。西田は自らが秘蔵する、篤胤自筆の『大畏婆娑論抜萃』を『印度蔵志』の第22巻の「稿 本の稿本」に当たることを指摘したうえで、それまで触れられてこなかった『印度蔵志』

の内容を紹介し、同書を篤胤の仏教研究における主著であり、また篤胤の思想全体におい ても重要な位置を占める著作であると論じた。

皇国史観や帝国主義との関係から、平田国学の学問的業績に対する評価は現在もなお決 定したとは言い難く、60年代、70年代においてはなおのことであった。その状況を端的に 示す例として、西田は篤胤に対する毀誉相反する好悪双方の評価を紹介している。篤胤を 評価する代表としては村岡典嗣5や山田孝雄6、逆に篤胤を否定する代表として引かれている のが和辻哲郎7や宇井伯寿8である。そして、西田自身は村岡や山田と同様、『印度蔵志』を 含んだ篤胤の学問的業績を評価する立場を取り、印度学・仏教学の新しい学問の開拓者と して、第一に挙げられるべきだと論じている9。篤胤の仏教研究は復古主義に基づいて仏教 に対して一大改革を加えようとしていたものであり、篤胤が必ずしも仏教を全面的に排斥 しようと考えていたわけではなかったという意見は傾聴に値する10

次に三木正太郎は篤胤による仏教および印度哲学についての研究として『出定笑語』3巻、

『出定笑語附録』(神敵二宗論)2巻、『出定笑語原本』1巻、『悟道弁』2巻、『印度蔵志』

11巻、『印度蔵志稿』4巻、『密法修事部稿』4巻を挙げた上で、『印度蔵志』をその主著と して位置づけている11

篤胤の仏教批判書として最も有名な『出定笑語』は江戸時代中期の町人学者として知ら れる富永仲基(正徳5~延享3年、1715~46)の『出定後語』(延享2年、1745)に触発さ れて記されたものである。冨永は加上説に基づいて大乗非仏説を唱え、大乗の教えが本来 釈迦の説いた教えとは異なり、後代の信者たちが次々に自分たちの考えを加上していった 結果生まれたものであるとして、大乗仏典の教義に関する真実性を批判した。国学の大成 者である本居宣長は富永の説を歓迎し、自著『玉勝間』でその内容を絶賛した。篤胤はこ れを見て『出定後語』を入手すべく奔走し、多大な労力を費やして享和 3 年か文化元年に 入手したことが『出定笑語』に記されている12

大乗仏教を「婆羅門の説」に加上したものに過ぎないとして仏教をインドにおける宗教 史の中で相対化している点は『出定笑語』から『印度蔵志』へと一貫している精神である。

『出定笑語』が厳しい仏教批判を展開しているのに対して、『印度蔵志』では批判こそあれ 論調は比較的穏やかである。この相違に関して、三木は仏道を批判するための『出定笑語』

と、学問的に検証しようという『印度蔵志』は性質が異なることを述べ、さらに篤胤自身

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の問題意識の推移があると論じている13。篤胤はバラモン≒ヒンドゥー神話を「梵天の古伝」、

あるいは「梵志の古説」などと表現し、その類似性から「皇国の古伝」が日本からインド へと伝わったものだと論じている。つまり日本とインドの「古伝」を結びつけることが『印 度蔵志』執筆の目的だと考えられている。

90年代には菅野博史が『印度蔵志』のうち前半の3巻に当たる「印度国俗品」に引用さ れた仏教関係の著作を経41種、律3種、論17種、そして中国人仏教徒の著作42種に分け て合計103種をリスト化し、それぞれの引用箇所を注している。『印度蔵志』という著作が、

仏教典籍の膨大な引用から構成されているという点に着目し、篤胤がインドに関して有し ていた情報源を類型化したという意味で有意義なものである14

『出定笑語』と『印度蔵志』のいずれが先に成立したのか、という問題についてはこれ まで諸説論じられて来た。西田は『印度蔵志』は『出定笑語』の主張を学問的に論証しよ うとしたものだとしながらも前後関係についての断定を避けているが、三木は『出定笑語』

の成立が先であると断定している。一方、菅野は『印度蔵志』の学術的な研究の裏づけが なければ『出定笑語』の内容は生まれないとして、三木の断定に疑義を差し挟んでいる。

『印度蔵志』の成立年代決定に関する主な論拠は、篤胤の伝記史料の一つである「大壑 君御一代略記」の記述である。これによれば文政3年、篤胤45歳の条に「印度蔵志草稿ヲ モ始メ玉フ」と記されており、また同 9 年には「印度蔵志草稿十余巻成。此中印度伝通品 二冊清書成」とある15。『出定笑語』の講説が本書に記されているように文化8年であり、

また天保14年の条に「又文政三四年頃には、印度蔵志、妖魅考を専と書著し玉へりき」と ある。さらに文政 9年9月10日に篤胤が岡山の門人・業合大枝(1791~1851)に送った 書簡に以下のような部分がある。

此の節印度蔵志精撰ニ取懸り居候、是ハ出定笑語と名け五巻ニ撰し置候へ共、今度相 改メかく題名いたし候。二十巻と相成申候。古今未曾有之珍書実ニ三千年眼と可申も の、仏法根だやしと可申ものニ有之候16

この記述から『印度蔵志』は『出定笑語』から発展したものと考えるのが妥当だと考え られる17。國學院大學図書館所蔵の『出定笑語』に見られる「此書ハ、師のいと若かりしと き講説の心留にとて物しおき給へるが、今し印度蔵志の精撰あれば、こハえうなき物とて 捨置きたるを世の痴人をさとさむにハ、かへりてたやすきかたもあれバとて、こたび請ま をして、かく四巻とハなしたるなり」との書写奥書も、このことを補強するであろう18

『印度蔵志』を取り上げた例として、これまで看過されてきたものにチョウドリー(S. K.

Chaudauri)の研究がある19。チョウドリーは古来、インド(India)の存在が日本におけ

る知識人の生活において重要な位置を占めていたとして、聖徳太子の『三経義疏』、『日本 書紀』、北畠親房の『神皇正統記』、ルイス・フロイスの書簡、新井白石の『西洋紀聞』、冨 永仲基の『出定笑語』、そして平田篤胤の『印度蔵志』を取り上げている。そして書中にお

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いてインドがどのように語られているのかを紹介したうえで、これまで顧みられてこなか った『印度蔵志』の研究の必要性を訴えている。

チョウドリーは平田が「梵志の古伝」という表現で紹介している古代インドの神話の例 について、バラモン≒ヒンドゥー教の文献への同定を試みている。例えば天地開闢につい ての古伝は「リグ・ヴェーダ」や「チャーンドーギャ・ウパニシャッド」にその淵源が見 られること、「提婆論」を出典とするヒラニヤガルバの物語については、やはり「リグ・ヴ ェーダ」や「マヌ法典」の書中に見られることを指摘している。また、世界の創造につい ては「プルシャ・スークタ」や「ムンダカ・ウパニシャッド」、種の創造については「ヴィ シュヌ・プラーナ」や「マハーバーラタ」の物語が、篤胤が紹介しているインド神話の原 型であろうと述べている。

また、篤胤がヴァルナ制度の存在について着目していたことについて検討し、玄奘や義 浄の記録や『金光明経音義』や『増阿毘曇心論音義』ではバラモンが最上位に位置づけら れているのに対して、『長阿含世記経」や『四姓経』などではクシャトリヤが最上位におか れているのは、ゴータマ・シッダールタがクシャトリヤゆえ、これを上位に置こうとする 仏教徒による操作、改ざんだと位置づけていることに言及している。

チョウドリーは篤胤が有していたと思われるインドの地理的知識を高く評価し、『印度蔵 志』に掲載されている地図について「おそらく日本で初めて近代的地図を紹介したもの」

としているが、これはおそらく誤りである20。というのも後述するように、『印度蔵志』1 巻に掲載されている地図は朝夷厚生の『仏国考証』に掲載されたものの転載と考えられて いるからである21

今日、篤胤の思想的攻撃性や非合理性を強調するのではなく、その学術性を再評価する 機運が高まっていると言える。2000年代に入り宮地正人を中心とした国立歴史民俗博物館 による気吹舎や平田家に関する資料の整理が行われてその成果が発表され、それに伴って 中川和明や吉田麻子による研究が発表されているように篤胤に関する新たな研究が同時代 的に進行しつつあるといっていいだろう22。『印度蔵志』を単体で取り上げたものではない が、遠藤潤の研究も重要である23。篤胤の学問全体において重要な位置を占める「幽冥」世 界観の形成と「古伝」の密接な関係に着目し、日本の「古伝」と世界の「古伝」の比較、

あるいは「比考」という枠組みから『本教外篇』、『霊能真柱』、『印度蔵志』そして『赤県 太古伝』について考察したものである。

以上、『印度蔵志』の先行研究の主たるものを列挙して来たが、同書がインドについて記 した書物であるにも関わらず、チョウドリーの例を除いて、インド史やインド研究といっ た文脈からの考察はほとんどなされてこなかったのが現状である。また、同書が語られる 際にはほとんどが「仏教批判」という範疇内でのことであった。そこで本章では『印度蔵 志』を江戸時代の宗教者の天竺認識の一例として取り上げ、日本におけるインド表象の一 環として考察する。

ドキュメント内 博士学位論文(東京外国語大学) (ページ 172-176)