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『天竺徳兵衛』における天竺

ドキュメント内 博士学位論文(東京外国語大学) (ページ 147-159)

第 6 章 民衆の天竺認識~天竺徳兵衛と『五天竺』を中心に~

第 1 節 『天竺徳兵衛』における天竺

本節では天竺徳兵衛と呼ばれる歴史上の人物に関する記録と、彼を題材にした「天竺徳兵 衛もの」(以下「天徳もの」)と総称される歌舞伎や浄瑠璃など一連の物語作品を題材に民衆 の天竺認識について考察する。

徳兵衛はいわゆる「鎖国」が整えられる直前である寛永年間に天竺へ渡海したと考えられ ている人物であり、対外関係史の観点から研究が行われてしかるべき題材であると考えら れる。ところがこれまでの先行研究はそのほとんどが徳兵衛を歌舞伎、浄瑠璃、文学作品の 登場人物としてのみ捉えた演劇史や国文学の文脈によるものがほとんどであり、歴史学的 見地からの考察は未だ十分とは言い難い。その理由の一つとして挙げられるのが「天徳もの」

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の物語の中で描かれる天竺の荒唐無稽さである。徳兵衛が渡海したと思われる場所は天竺 と称されているが、実際はシャムすなわち現在のタイ付近であったと考えられている。しか し徳兵衛の記録にはその地が天竺として描かれており、今日の仏教史学からすればそこに あるはずのない仏教史跡に関する記述なども散見されることも手伝って、その内容は前近 代的な情報の誤り、あるいは混乱にしか過ぎないものとして受け止められてきた。それゆえ 史実とされる部分も含めて、徳兵衛に関する事象が考察の対象外とされてしまってきたよ うに思われる。

しかし、筆者はこのような情報の錯綜や混沌としたイメージそのものが、民衆における天 竺認識の特徴なのだと考えている。また、そのイメージは混乱した中にもある種の筋道があ るものと考えられ、その筋道を辿ることで史実とされていた徳兵衛に関する情報が、いかに 劇化されていったのか理解することが出来るだろう。

第1項 実在の天竺徳兵衛と『天竺物語』

天竺徳兵衛(以下徳兵衛)は慶長 17 年(1612)に播磨国加古郡高砂(現兵庫県高砂市)

船頭町に町人として生まれた実在の人物である。寛永3年(1626)の10月16日、15歳の 時に朱印船貿易家として知られる角倉与一の船に船頭・前橋清兵衛の書役として雇われて 長崎福田浦を出発し、「中天竺まかだ国流沙川」へ到着し、同5年(1628)の8月11日に同 じく長崎に帰港した。徳兵衛はその後オランダ人ヤン・ヨーステンの船で寛永7年(1630) 11月14日に福田浦から再度渡航し、同9年(1632)8月14日に帰港した。これら2度の航 海により天竺徳兵衛と呼ばれた彼は宝永4 年(1707)96歳の時に渡航の記録を長崎奉行に 提出し、これが流布して『天竺渡海物語』や『天竺徳兵衛物語』『天竺物語』(以下『天竺物 語』と総称)などと呼ばれることになった。徳兵衛は晩年に剃髪して宗心と号して大阪上塩 町(現大阪市天王寺区上汐)に住んだのだが、没年は不詳である。

『天竺物語』は鎖国が成立した直前に海外を見聞し、その実情報をもたらしたという意味 では、元和4年(1618)の『元和航海記』と並ぶ貴重な史料であると言える。本稿では『江 戸漂流記総集』第1巻に収録された、国会図書館所蔵「漂流叢書」所収の「徳兵衛天竺物語」

を元に考察する。

『天竺物語』は異本が多いが、宝永4年という年代の記載が見られる写本が最も一般的で あると考えられている3。また、「天竺物語」と題された写本の中には例えば京都大学文学部 国語学国文学研究室の所蔵本のように『阿弥陀の本地』と総称される全く別種の物語の伝本 もあることは注意を要する4

さて、本節の主題である『天竺物語』の冒頭では、徳兵衛がいかなる者かについての説明 がなされ、こう続けられる。

一、古しへは、日本より商人御免遊ばされ申し、天竺と売買いたし候ゆへ、角倉与市

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殿、茶屋四郎次郎殿、平野平次郎殿、かごや、べにや、これ等の衆、渡天を御免の商人 なり。徳兵衛曰く、私義は、角倉与市殿あきなひの船頭、前橋清兵衛といふ船頭に雇は れ、生年十五歳にて長崎を出船仕り、渡天いたし候5

角倉与一や茶屋四郎次郎などといった朱印船貿易家が取引していた地域は天竺と認識さ れていたことが明確に記されている。そして徳兵衛自らも天竺へ向けて出船したことが記 され、その行為あるいは出来事は「渡天」として表現されている。なお、「渡天を御免の商 人」との記述から分かるように、天竺へ渡ることは「御免」を要する特権として理解されて いたことが分かる。

次に続くのが 1 度目の渡天に関する記述である。長崎出船後、「たかさんく」(高砂、台 湾)、「かんとう」(広東)、「あま川」(天川、阿媽港、マカオ)、「なんきん」(南京)、「とん きん」(東京)、「かうち」(交趾)、「ちやんば」(占城、チャンパ)、「かぼうちや」(柬埔寨、

カンボジア)といった国々を経て「まかた国流さ川」に到着する。「マガダ国」の「流沙川」

のことと思われ、ここまでの道程は3800里と記される。

長崎より女島、男島まで、九十六里あり、たかさんくまで、六百五十里あり(中略)天 川より三百里南えはしり、いやうのはなと申す処を見て参り候へば、なんきんととん きんの境目のはなゝり、これより三百里西へ走り候へば、かうちのとろんかだけと申 す処より、大山見へ申し候、これ達磨大師誕生の処なり、これより四百里南へ走り、ち やんぱのくわろうという云ふ島あり、これより四百里南へ走りかぼうちやのほうこん とうろうと申す島あり、これより八百里戌亥の方え走り候へば、まかた国流さ川の川 口なり、この処まで、長崎よりして三千八百里なり6

この後、まかた国と記されていたはずの場所は「しやむ国」として述べられ、両者が同一 のものとして認識されていたことが分かる。しやむ国=まかた国が徳兵衛が渡天した目的 地であり、これ以後、当地における具体的な地名が紹介される中で仏教遺跡についても言及 がなされる。

しやむ国りうさ川の川口より三里川上に、はんてひやと申す城有り、この処にて、日本 より持参申し候御朱印を改め申し候て、まかた国の王え早船にて差上げ申し候。はん てひやより廿七里川上に城あり、この処はむかし、空海と文殊と知恵争い成したる処 のよし申し候。(中略)てひやたいと申す寺あり、むかししゆだつ長者の屋しき跡のよ し、しやむ国長者なり。(中略)てひやたいより、町続きを七里行きて、長さ二十里づゝ ある堂三つ(中略)堂の本尊は立像の釈迦、この堂東向きなり、又一体はねはんの像の 釈迦、この堂は北向きなり、右釈迦如来の小ゆびの厚さ、三間余り、これにて仏像の大 きさ、御察し成されべく候、堂の柱一本の大きさは、人十五人、手と手をとり組み、十

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五度廻り見候へども、漸々三分の一ほど廻り申し候、釈迦堂の内に、はゞ八間づゝの 町、三筋これあり候間、しやか堂町と申し候よし。(中略)都より四十里川上に霊鷲山 あり、山の高さ一里、はゞ八町、長さ十六町これあるよし、この処の大なる岩見へ申し 候、この岩山にて、釈迦如来御説法成され候、その岩の高き処に、御座候しやかのみた らしあり、都より四十二里の間、毎年三月より四月末まで、売買の市立ち申し候7

史実におけるマガダ国は現在のインド、ガンジス川の中・下流域に紀元前6世紀ころから 栄えた実在の国である。マガダ国は同時期に勃興したいわゆる十六王国の一つであり、前4 世紀になるとマウリヤ朝のもとでインド亜大陸のほぼ全域を統一したことで知られる。マ ガダ国は音写されて「摩掲陀国」などと表記され、漢訳仏典などに数多く登場する地名であ るため、仏僧を中心とした仏典に親しんだ者ならばある程度の実在性が担保された地名と して想起することが出来たものと考えられる。また、そういった意味で仏教的な地名として 認識されていたものと思われる。なお、同じく十六王国の一つであるコーサラ国は歴史上の ゴータマ・シッダールタが王子として生まれた国であり、マガダ国に滅ぼされている。『天 竺物語』のマガダ国には須達長者の屋敷跡だという「てひやたい」、立釈迦、居釈迦、寝釈 迦の三尊の大仏が祀られる「釈迦堂」、霊鷲山といった仏教的な地名の存在が記されている が、このことから徳兵衛がシャムの現地で見聞きした仏教的要素を元に、彼が有していた当 時の一般的な仏教知識と融合させた天竺像が生まれたものと考えられる。つまりそもそも

『天竺物語』は民衆の天竺認識によって書かれたものといってよいだろう。

1度目の渡天に関する記述は地名と距離など地理的な内容が多かったが、2度目の渡天に 関しては物産や住民などの民俗誌的な内容の記述が豊富である。例えば「まかた国」の産物 として「やし」(椰子)、「珊瑚珠」、「白銀」などが見られ、人びとの頭髪や衣服についても 言及されている。

まかた国に、やしという菓子あり、日本にて大なる梨の如くなるものなり。(中略)き やら山は、中天竺ちや屋、ろくこんのきやら山と申し候て、この所より大分出で申し 候。(中略)人がらは、日本仁より性高く、耳より下をすり、頭なんきん風の由、けし 坊主風にて、童、女は、きやらの油を用ひ、身にもきやらの油をんり、髪はとうわけに 仕り候、単ものゝ襦ばんの様成るものを着す8

また『天竺物語』は山田長政に関する情報をもたらしたことはよく知られている。山田仁 左衛門長政はアユタヤ日本町の最後の統率者としてよく知られる人物である。ソンタム王

(1590~1628)から信頼されて外国人ながら近衛部隊の将軍まで出世した長政は、庇護者で ある王が没すると摂政オヤ・カラムの陰謀によりマレー半島の六崑(リゴール)の太守とし て都から遠ざけられ、最後は暗殺されたと考えられている。長政に関する記録としては、『山 田仁左衛門渡唐録』などと呼ばれる記録が知られ、やはり徳兵衛の記録同様様々な伝本が存

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