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『印度蔵志』における天竺認識の特色

ドキュメント内 博士学位論文(東京外国語大学) (ページ 181-200)

第 7 章 宗教者の天竺認識~平田篤胤『印度蔵志』を例に~

第 4 節 『印度蔵志』における天竺認識の特色

『印度蔵志』は篤胤による仏教批判、仏教研究の中心を成すものであり、その内容は実 証的な学術性を帯びたものだったと言える。『出定後語』の冨永仲基も仏教の批判者であっ たが、篤胤は厖大な仏教典籍を研究することによって、仏教という宗教そのものや、印度 や天竺と称された場所について詳細な考察を行っていた点が特筆に価する。これまで論じ てきたように天竺は中世以来三国世界観の一角として日本において様々に想起されてきた。

それでは江戸時代後期の宗教者であった篤胤にとって、その批判の対象であった仏教の祖 国である天竺とはいかなる存在であったのだろうか。本節では『印度蔵志』のうち地理学 的考察が多く見られる1~3巻の「印度国俗品」を題材として篤胤の天竺認識について考察 する。

第1項 天竺と印度、インデア

『印度蔵志』の冒頭に当たる「印度国俗品」はインドの国号の問題から幕を開ける。篤 胤は最初の本文として『大唐西域記』巻第2「三国」の冒頭を引いている。

天竺称異議糾紛。旧云二身毒一。或曰二賢豆一。今従二正音一宜ㇾ云二印度一。印度 之人随ㇾ地称国。殊方異俗。遥挙二惣名一。語二其所一ㇾ美謂二之印度一。印度者。

唐云レ月月有ニ多名一。斯其一称42

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天竺の名称を調べてみるに異議さまざまである。旧くは「身毒」ともいい、あるいは

「賢豆」ともいったが、今は正音に従って印度というべきである。印度の人はその地 方地方に随ってそれぞれの国号をとなえているが、遠方の外国では遥かより全体の名 をつかい、その美しとするものを口にして印度といっている。この「印度」とは、唐 で「月」ということである43

そして『阿毘曇心論音義』や『大涅槃経』『倶舎論』などにおいても同様の由来が記され ていることを確認した上でこのように述べている。

さて身毒賢豆ともに、印度の訛なりと言えば、共にエントと唱へ、天竺はチエムドと 唱ふべし。(中略)天竺をまた天篤天毒なども書等に見ゆ。但し音を正しく云ときは、

如此なれど、チエンドと唱へむこと、耳遠ければ、常には言なれたる儘に、テンヂク と唱へむに難なかるべくこそ。今の西洋人は、印度を訛りて、應帝亜イ ン デ アと云ふ(中略)

印度にては、一地一境ごとに、大小を論せず某國と稱して、唐土にて、州郡縣など置 く制とは、異なる由を云るなり44

このように篤胤は身毒、賢豆といった名称が天竺とともに印度という語、インドという 読みの変型だということを認識していたことが分かる。これは『大唐西域記』を中心とし た仏典の情報を整理した上での理解であり、このような仏書を読み得る者ならば、これま でも到達し得た認識だと考えられる。しかしながら中世以来の日本では天竺という表現が 支配的であり、印度のような別の表現は仏典を別とすればほとんど見られなかった。その ために天竺と印度が同一の場所を示す異称だと明確に認識していた者は仏僧たちを別とす れば、それほど多くはなかったものと考えられる。

また篤胤の天竺認識がそれまでの時代と決定的に異なるのは、西洋人がインデア、イン ディアと呼称する場所が、天竺や印度と同一のものとして捉えている点である。5章で見た ように西川如見の『増補華夷通商考』や寺島良安の『和漢三才図会』においては天竺とい う概念は一国の名称であると同時に現在で言う東南アジア地域を包括する広域名称として も用いられ、さらにインデアと天竺は別個の概念として扱われていた。篤胤は後述する蘭 学による地理学的知識を援用してこれらを整理し、天竺、印度、インデア、インディアは 同一国の異称と考えたのである。このことは現代日本において天竺がインドの旧称として 一般的に捉えられている状況と近しいものと言える。

篤胤は続いて『大唐西域記』における「五印度」の表現について「周囲は九万余里」「三 方は大海、北は雪山」「季候は暑熱、泉池や湿地が多い」といった概要を紹介しながら『南 海寄帰内法伝』やその他の文献における天竺の大きさの記述が一定しないことを指摘する。

上述のように篤胤においては印度と天竺は同一のものと認識されているため、ここで言う

「五印度」は「五天竺」と言い換えることも可能だろう。仏典における印度=天竺が巨大

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に描写されるのは、仏教徒自らが信奉する教えであるところの仏教が発祥した国を描出す る際に、護法のために事実を歪曲して美化しているからだというのが篤胤の考えである。

このような指摘は篤胤が、仏典だけでなく西洋由来の最新地理学や情報をもとにしている ために成され得るものだと考えられる。

一方、篤胤は日本人が歴史的に見て天竺と直接通航したことがなく、代わりに暹羅国と 通航してきたことを新井白石(明暦3~亨保10年、1657~1725)の『采覧異言』を参照し たとして論じている。

殊に我が國は古来天竺と通舶せず、元和年間に、暹羅國と通信せし事は、采覧異言等 の書にも粗記せり。また寛永年間に角倉紅屋などいふ商家の天竺へ通商せしと云も、

暹羅なり。また世に、宗心渡天と云る、其紀行を閲するに、暹羅へ渡りしなり。宗心 とは謂ゆる天竺徳兵衛が事なり。其説に、暹羅を麻伽佗國とし、且霊鷲山も、其國に 在とす。故其人、中天竺へ渡りしと思ひて、記録せし故に、其言ふこと、始終埒もな き事どもなり。流沙、恒河、暹羅、麻伽陀を、皆一國とせり。是は土人、昔より云傅 たる説なるべし45

前章で記した通り、天竺という概念は朱印船貿易を通じて東南アジア一帯を示す広域名 称として変化し、天竺徳兵衛の例を見ても分かるように特に暹羅が中天竺と称され、天竺 そのものであるように目されていた時期があった。それは 3 章で見た「山本氏図」におい て暹羅が天竺と同一視されていたことからも分かる。篤胤はこのような状況を「埒もなき 事」と評し、両者を同一視する誤謬を指摘し、天竺と暹羅国が別の国であるとして地理的 概念の整理を試みている。筆者がこれまで論じてきたように天竺と暹羅を同一視すること は必ずしも誤りとは言いがたく、むしろ天竺が現在のインドに同定されるまでの過渡期と して認識すべきものと思われるが、しかし篤胤の時代にこのように情報を整理したことは、

彼の地理学的知識が時代を先取りしたものであったことを物語っている。

第2項 五印度とムガル帝国

篤胤によれば五天竺と呼ばれた東西南北中の天竺のうち、南天竺だけが今も印度と称さ れるという。そしてその他の「四竺」を併合した国として紹介されているのが「莫臥爾国」

である。

五印度とは、彼ノ惣國を、東西南北中と、五に別て称する故に言へり。(中略)其当る 度量と、西洋図、および彼ノ國の地誌どもを以て考ふるに、古に五天竺と称へりしが 中の、南天竺のみ、今も印度といひ、其餘の四竺は、我が応永の頃より次々に、莫臥 兒國といふ國に、大略併されたるが、其周廻は、本朝の里法にて、六百里四方と云へ り46

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莫臥爾は読みとしては「モウル」が当てられるが、前章でも論じたようにムガル帝国と 莫臥爾、モウルが全て同じ存在を指し示す語として等号で結ばれるわけではない。モウル 通詞が翻訳していたモウル語はペルシャ語だったことが明らかにされている。ムガル帝国 の宮廷で話され、公文書に用いられていた言語がペルシャ語であったことを考えればこれ は当然のこととも言える。しかし、逆にペルシャ語を話していたモウル人が、必ずしもム ガル帝国の出身者とは限らないとも言い得るであろう。前章でも論じたモウル通詞が翻訳 していたのはモウル人が話すモウル語であったが、これは恐らく東南アジア海域で貿易に 従事していたイスラム商人が話すペルシャ語であったと考えられる。一方、『坤輿万国全図』

以降の世界地図に記載され、ムガル帝国を示す莫臥爾が、音としては同じく日本語で「モ ウル」と読み得ることから両者が混同されるようになったものと考えられる。そのため、

17 世紀以降の知識人の間ではムガル帝国の存在が認知されるようになっており、篤胤のよ うな宗教者もその例外ではなかった。

ムガル帝国第6代皇帝アウラングゼーブ(1618~1707年、在位1658~1707)によるビ ージャプル王国、ゴールコンダ王国の征服と併合によってムガル帝国の最大版図がインド 亜大陸のほぼ先端まで及んだのは 1686、7 年のことであったが、それ以前の情勢に鑑みれ ば、南天竺以外はムガル帝国の領土であったという認識は大まかにいえば的を射ていると 言えよう。では、ムガル帝国について、当時どの程度の情報が流布していたのだろうか。

近世の一般民衆、あるいは知識人レベルにおいても、ムガル帝国という国家の存在が日本 社会においてどれほど認知されていたのかはわからない。しかし、少なくともある一定の 人々はムガル帝国についてある程度は認知していたと思われる痕跡がある。寛永 18 年

(1641)以降オランダ商館長が江戸に参府した際に風説書の提出を求められたが、そのう ち、宝永5年(1708)の風説書にはこのような記述がある。

モウル国之惣国主モゴルと申者、年百歳罷成申候、去年病死仕候、彼者男子四人御座 候、此四人之子供国を諍ひ軍仕候処、右四人之内、次男壹人は討死仕、其上騎馬壹五 千騎、雑兵拾弐萬、象百疋餘打殺、軍相止申候、然る処、今又相残三人之面々、大勢 を催、軍之用意仕候由、サラタ国より咬囓吧(ジャガタラ)え申越候47

風説書に記されているような情報は当時の支配層のごく一部にしか伝えられなかったが、

彼らの知り得た知識は、次第にそれ以外の人々へも広がっていったと考えられる。

篤胤の地理的知識は蘭学に負う所が多いが、インドに関する情報について特に依拠した と思われるのが山村才助(明和7~文化4年、1770~1807)の『訂正増訳采覧異言』と『印 度志』である。

山村は明和7年(1770)に江戸の土浦藩邸で生まれ、寛政元年(1789)に大槻玄沢に入 門して蘭学を学び、文化 4年(1807)に没するまで様々な著作を行った。没後に刊行され

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