第 3 章 イエズス会士と天竺人
第 1 節 イエズス会士と天竺人
第1項 ザビエルの来日
まずは史上初めて来日し、天竺人と呼ばれた最初のイエズス会宣教師と思われるフラン シスコ・ザビエルの事例について取り上げる。1549年4月15日にゴアを出発したザビエ ルは5月31日にマラッカへ到着した。その後同地を出発して鹿児島(現鹿児島市祇園之洲 町)へ辿り着いたのは8月15日(天文18年7月22日)のことである。ザビエル一行の総 勢は8名だった。ザビエル本人に加えてコスメ・デ・トルレス、ジョアン・フェルナンデス の 2 名がイエズス会士、そして日本人アンジローとその従僕ジョアネとアントニオ、そし て中国人の従僕マヌエルとインド人アマドールである3。
ザビエルらが日本に到着したまさにその時、彼らが当時の日本人に何と呼ばれたのかを 語る史料は管見の限り見出し得ない。しかし、比較的近い時代の史料としては彼らが鹿児島
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の後に訪れた山口を本拠とする戦国大名・大内義隆の側近が主君の自刃直後に記したとさ れる一代記『大内義隆記』がある。
都督在世ノ間ヨリ。石見ノ國大田ノ郡ニハ銀山ノ出来ツゝ寶ノ山トナリケレバ。異朝 ヨリハ是ヲ聞。唐土。天竺。高麗ノ船ヲ数々渡シツツ。天竺仁ノ送物様々ノ其中ニ。十 二時ヲ司ルニ夜ル昼ノ長短ヲチガヘズ響鐘ノ声ト十三ノ琴ノ糸ヒカザルニ五調子十二 調子ヲ吟ズルト老眼ノアザヤカニミユル鏡ノカゲナレバ。程遠ケレドモクモリナキ鏡 モ二面候ヘバ。カゝル不思議ノ重宝ヲ五サマ送ケルトカヤ4。
大内義隆の根拠である城下町・山口には「異朝」であるところの唐土、天竺、高麗から多 くの船が来航していることが記されており、そのうちの天竺から来た人物すなわち「天竺仁
(天竺人)」が義隆に呈した贈り物の品々が挙げられている。異朝とは本朝あるいは「我が 朝」と対置される概念と考えられるため、天竺とは当時の人々にとって自分たちが住んでい るのとは異なる場所であり、なおかつ唐土でも高麗でもない地域として認識されていたこ とが分かる。「天竺仁」として記されているのがザビエルだと考えられる。キリシタン史の 大家である海老澤有道はこの点について「天竺人とはサヴィエルが天竺即ち印度から渡来 したからで、キリシタン宗も當初は天竺宗と呼ばれたのである」としているが、事態はもう 少々複雑だと思われる5。というのは後述するようにこの当時の一般的な人々の世界認識に おいて天竺と印度は同一のものではなかったと考えられるからである。ここではさしあた り、ザビエルが人々から天竺人として称されていたことが史料的に確認できることを言及 するにとどめておく。
第2項 鉄砲と南蛮人
一方時代は前後するが、いわゆる鉄砲伝来に伴って来航したポルトガル人は「南蛮人」
と呼ばれた。いわゆる鉄砲伝来に関する日本側の根本史料である『鉄炮記』には彼らの来 航が以下のように記されている。
先レ是。天文癸卯秋八月二十五丁酉。我西村小浦有二一大舩一。不レ知二自レ何国来一。舩 客百余人。其形不レ類。其語不レ通。見者以為二竒怪一矣。其中有下大明儒生一人。名二五 峯一者上。今不レ詳二其姓字一。時西村主宰有一織部丞者一。頗解二文字一。偶遇二五峯一以レ
杖書二於沙上一云。舩中之客。不レ知何国人也。何其形之異哉。五峯即書云。此是西南蛮 種之賈胡也。粗雑レ知二君臣之義二。未レ知三礼貌之在二其中。是故其飲也杯飲而不レ杯。
其食也手食而不レ箸。徒知三嗜欲之愜二其情一。不レ知三文字之通二其理一也。所謂賈胡到二
一処一。輙止。此其種也。以二其所一レ有。易二其所一レ無而巳。非二可レ怪者レ矣。於レ是織 部丞又書云。此去十又三里。有一一津一。津名二赤尾木一。我所二由頼一之宗子。世世レ居
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之地也。津口有二数千戸一。戸冨家昌而南商北賈。住還如レ織。今雖レ繋二船於此一不レ若
二要津之深而不レ漣之癒一也。告三之於我祖父惠時与二老父時堯一6。
天文12年8月25日に西村小浦(現南種子町)に来着した大船には104人の乗客があっ たが、言葉も通じず見たことのない風貌だった。一行の中にいた倭寇の頭目である五峯王直 に筆談で尋ねると、彼は乗客を「西南蛮種之賈胡」であり、礼儀は知らないが怪しいもので はないと答えた。賈胡とは異民族の商人を指し、西南蛮とは西・南蛮のことであろう。南蛮 という語は本来、東夷、西戎、北狄とともに古来中国にとっての周辺諸国に用いられた呼称 に端を発する概念である。中国においては福建や広東などから、時代が下って勢力が拡大す るにつれて指し示す地域が南へと広がったようである。日本における初見は『日本紀略』長 徳3年10月1日の条であり、ここに引用した『鉄炮記』の記述まではあまり例がない7。 そもそもは薩南諸島から東南アジア周辺までを漠然と指していたように思われるがポルト ガル人たちの来航以来、指し示す内容がやや混乱したと見られる。これを聞いた織部丞とい う通訳者や同時代の人々は西南蛮種という語から「西南の方角からやってきた異民族」とい う程度に受け止めたものと考えられる。この感覚は次第に南蛮という特定の国があるかの ような概念へと推移し、時代がやや下ると南蛮はポルトガル人やスペイン人の故国を指す 言葉として用いられるようになる。1603年のイエズス会版「日葡辞書」の「Nanban」の条 によればこの語が「南のえびす」「南の地方」「南方の野蛮の国」の意味でポルトガル人たち が捉えられていたことが分かる8。
ところで天竺と南蛮という二つの概念のうち、いずれが大きくどちらがどちらを包括し 得る概念なのかはなお検討を要するが、恐らく天竺のほうがより広がりを持ち得る概念だ ったものと考える。というのは天竺は本朝、震旦とともに三国の一翼を担うようになって以 来、本朝や震旦に入りきらないすべての場所を指し得る概念として用いられたからである。
一方南蛮は方角的に限定される性質の呼称であるから、ごく単純な概念化を許されるので あればこの時点では「天竺≧南蛮」と考えるのが妥当であるものと考える。
このように『鉄炮記』においてポルトガル人たちが「南蛮種」と称されたのに対して、イ エズス会宣教師達が当初「天竺人」と称されたことには何か理由があるのだろうか。関連史 料を時代的に追ってみると天竺人と呼ばれ、イエズス会宣教師たちが天竺から来たとされ るのはザビエルと同時代であるわずかな時代に日本で記されたものか、もしくは宣教師達 自身によって記されたものに限られ、後代になればなるほど南蛮と称される機会が増すよ うに思われる。これは彼らが仏教の祖国から来たのではないことが分かり、彼らの教えが仏 の教えではなくキリシタンという弾圧されるべき邪教だとの認識が広まったことと関連す るのではないだろうか。つまり、当初彼らが天竺人と呼ばれたのはイエズス会士たちが「宗 教的な」人々であったことと関係するのではないかと考えられる。
63 第3項 仏教の一派としてのキリスト教
一方ザビエルら宣教師たち自身は、彼らが天竺人と呼ばれていたことを知っていたのだ ろうか。ザビエルらは鹿児島に1年間滞在し、平戸、山口を経て上京するが、望んでいた天 皇との謁見は果たせず上方での布教を一旦断念する。その後平戸へ戻った一行は1551年4 月末から 9月中旬まで再度山口に滞在している。この際ザビエルは大内義隆への2度目の 謁見を許され、滞在地として寺院を与えられて布教の根拠を築いた。義隆自身はキリスト教 を信仰する心はなかったようだが、人々がその教えを信仰することを許し、多くの信者が生 まれた。結果として鹿児島で100名、平戸で100名、山口で500名もの信者が生まれたと されている9。
その後、同年9月(天文20年8月)、大内氏の重臣である陶隆房(晴賢)の謀反が露見 し、義隆は難を逃れるが最終的に9月30日に自害する。謀反があったこの年の夏に山口で は天変地異など様々な怪異が相次ぎ、この原因が「異教」が伝来したためだという流言が広 まっていたが、そのような状況が垣間見える記述が先にも引用した『大内義隆記』にもある。
國ノ亂ノ瑞相ニハ屋形ノ内ニ物怪アリ。八月五日ノ夜ニハ光物コソ飛ニケリ。其後ハ 大勢ノ聲ニテ時ヲ作リケリ。又俵山ト申所ニハ荒神アラタニ出現シ。人ニ詞ヲカハシ ツヽ。世ノ有サマノ事ドモヲ正敷ニ告ヲゾ申サルヽ。久敷立シ庭前ノ大松木ノカレヌ ルヲ。去年ノ卯月ノ上旬ニ寶菩提院祈念シテ。草木國土悉皆成佛ノ答設ノシルシニヤ 國土モ松モ枯ニケリ。火石トイヘル魔法怪異ナルコトヲ申シツ。天竺人モ諸トモニ。當 年八月ニハ國ハ亂レ。打返シ闇ノ夜ノ様ニ成ベシト申セバ人モ騒動ス10。
国が乱れる凶兆として屋形の中に光る物体などの「物怪」が現れ、大勢の声が時(鬨)を 作ったという話や、「荒神」が人に言葉をかけた話などが記されている。荒神は「天竺人モ 諸トモニ」国が乱れるであろうことを予言している。果たして陶氏の謀反が発覚したときに 人々が怪異をも含めた様々な事件の原因をそれまで存在しなかった「異質なもの」に求めた ことは想像に難くない。トルレスらが遭遇した兵士たちの敵意は、キリスト教という「異質 な宗教」に対して向けられていたのだと考えられる。コスメ・デ・トルレスはこの時のこと をザビエル宛の書簡で以下のように記している。
九月二十八日私達の所持品を隠したあとで、私はアントニオを私達の友人の一人であ るカトンドノの屋敷に遣わし、私達がどのようにすべきかについて助言をしてくれる よう求めました。アントニオはそこから走って戻り、彼が急いで私達を呼び寄せたこ とを伝えました。その途中で、私達は頭から足まで武装して弓矢や槍を持って戦いの 準備をした多数の軍隊に出会いましたが、彼らは私達をチェンジクスと呼び、彼等が 仏の悪口を言ったために戦争が起こったので、私達を殺しこの地から逐い出すべきだ