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経済大国への転換と出産と助産の市場化

ドキュメント内 人間的生からみた助産 (ページ 118-123)

第 3 章 社会的人間の「生」と出産と助産

3.3 産婆から助産婦へ

3.3.1 経済大国への転換と出産と助産の市場化

戦後の復興による産業の発展と出産の医療化

第 2 次世界大戦後、敗戦国となった日本は、復員兵や植民地からの帰還者などによっ て急激に増加した。出生数は、1947(昭和 22)年から 1949(昭和 24)年までは 260 万 人台、出生率は、4.3 から 4.5 の間で推移した。

このような出生数の急激な増加を受けて、出産を取り扱う医師や助産師の養成数も高 まりを見せた。戦後の日本の医師および助産師数は、戦況の悪化を受けて終戦時の 1945

(昭和 20)年には、ともに 1 万人台まで減少していた。敗戦後は、GHQ(General Headquarters)による医療改革が始まった。この改革により、医師や助産師などの、教育・

養成制度は改変し、その数が一時的に減少した。1947(昭和 22)年には産婆規則が助産 婦規則に改定され、「産婆」から「助産婦」へと名称変更された。この改定により助産婦 数は、一時的に減少することが予測されたため、旧産婆を再教育することにより、助産

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昭和 23 年に医師法、1950(昭和 25)年に保健婦助産婦看護婦法の制定により、助産 師は看護師教育を基礎教育とし、看護師免許取得後に助産師免許を取得する事と改定さ れた。新たな制度の制定によって、戦後の助産師教育と養成が開始された。この制度に よって、新しい助産婦が誕生し徐々に産婆の時代から助産婦の時代へと推移することと なる。

戦前に産婆免許を取得した者たちの多くは、看護師免許を取得する事を経ずに産婆と なっていた。戦後の「助産婦」となるためには、再教育を受けることが必要となった。

昭和 35(1960)年の助産婦の平均年齢は 50 歳を超えており、そのほとんどが個人開業 助産婦であった。その後、約 10 年間で出産の場所が病院へと急速に転換し、助産師の 就業形態も病院勤務助産師が増えていった。

戦後のベビーブームと高度経済成長に沸いた昭和 40 年代までは、産科領域を担う医 師や助産師、看護師の数の需給バランスは、教育・養成制度の改変、資格免許の更新や 改定を繰り返すことで保たれた。しかし、高値を維持した出生率も昭和 44 年以降は減 少傾向が強まり、同年 8 月には、人口問題審議会が再生産力低下を問題視する。「希望 する子女はもっと楽に生めるように、また人口変動が安定的であるように、純再生産率 が 1 程度に、したがって合計特殊出生率は 2.1 程度に回復することが望ましい」とし、

「経済的、社会的要因に対し、経済開発と均衡のとれた適切な社会開発を強力に実施す べきことを強く要望している(上田 1969)」との中間報告が発表された。

第 2 次ベビーブームを迎えた 1975(昭和 50)年代には、出生数が再び 200 万人を突 破したが、その後は急速に減少した。2005(平成 17)年には出生数が 106 万人、出生 率は過去最低の 1。26 を記録した。2016(平成 28)年では出生数が統計を開始した 1899

(明治 32)年以来、初めて 100 万人台を下回り 98 万 1000 人となった。

この間も医師や助産師などの医療従事者の人数は、国内の医療の需要予測によって年 間の養成数が決められており、将来の出生数減少化を見据えた産科医療提供体制につい て検討されることもなく、出生数や出生率の推移と共に、産婦人科医師や助産師の必要 人数が予測され、調整されるものであった。1955(昭和 30)年の産婦人科医の数は、

6623 人まで増加したが、その後は僅かな増加と減少を繰り返し、1992(平成 4)年に

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10,000 人を超えた。2006(平成 18)年一時的に 9,592 人となるが、その後は再び 10,000 で推移し、2016(平成 28)年では 10,854 人(厚生労働省 2017)となっている。

助産師も同様に、1951(昭和 26)年には 7 万人まで回復したが、その後は漸減し、

1955(昭和 30)年には 5 万人台、1970(昭和 45)年から 2004(平成 16)年までは 2 万人台で推移した。助産師数は 2014(平成 24)年に 30,000 人台を超え、2016(平成 28)年の助産師数は 35,774 人(厚生労働省 2017)となっている。

米国医療制度の導入の試みと国内産科医療の発展

明治期以降の医学において、産科学は大学医学部などを中心として臨床医学研究が進 み専門医を生み出す場となった。国内では妊娠や出産のみを取り扱う「産科」とそれに 加えて女性生殖器の疾患(子宮がん、子宮筋腫など)も取り扱う「産婦人科」という診 療部門を創設された。病院化が進む中で出産を取り扱う医師たちの専門化を進めていく こととなる。「産婦人科」は昭和 30 年以降になって定着することになる。

戦後の日本の医療制度は、GHQの医療改革によってドイツ医学から米国医学へと転 換し、産科医療制度においても米国の強い影響を受けた。第二次世界大戦後の米国では、

既に助産婦の存在は途絶えており産科看護師に引き継がれていた。

よって、出産の取り扱いは医師が行うということが当然となっていた。出産の取り扱 いが医師になったことにより、出産への対処は医療化する。出産時の痛みや生む力を引 き出すことは、医師が処方する麻酔や陣痛促進剤によってコントロール可能なものとな っていた。出産に至る間での時間が図られて、分娩所要時間の平均値が算出された。長 すぎたり短すぎたりする出産は異常出産となった。産婦の年齢が高いこと、胎児は頭位 であること、分娩に至る前に破水すること、妊娠中の体重が増え過ぎることなど、異常 分娩の定義が増えるたびに医療技術が開発された。しかしその開発は、一方で正常分娩 であることの条件を狭めることになる。

米国の医療制度において医師は、日本と同様に医療の需給予測に基づいて教育養成が 行われている。米国の医師は免許取得後に病院勤務するという勤務医の概念は無く、独 立開業が前提となっている。それは、米国の医療制度において病院などの医療施設がも ともと公共施設として設置されていたためである。

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このような概念によって、米国の病院や医療施設は、そのほとんどが医師らにとって の共有施設であり、独立開業した医師はその施設を利用するために病院に登録し、受け 持ち患者の診療が必要な場合にはその場所を利用するという、オープンシステムの形式 をとっている。

この場合、病院や医療施設は患者のための療養施設ではなく、診療や治療を行うため の施設として考えられる。そのため、病院という限られた資源を最大限に利用できるよ うに、医療の効率化や合理性が追及されるようになる。それは、医療という場にさまざ まな意思を働かせる要因となっている。例えば病院入院費用は、施設利用料としても患 者が支払うべきものとして請求される。入院日数が長引けば長引くほど病床の回転率が 下がり、効率性が低下するために、入院期間の短縮化に向けた効果的な治療法や手術後 の早期回復に向けた看護ケアなどが開発されていく。

この場合、入院費用の設定も早期退院を促進する因子として効果的に働くためにある 一定の金額以上に設定されている。つまり、米国の医療提供体制においては、このよう な医療者側の合理性を優先した構造になっており、帝王切開による出産も入院期間は術 後 3 日程度であり、帰宅後に訪問看護師などによる薬の投与や健康状態の確認が行われ るといった合理的な医療体制がとられている。

米国の医療保険制度は高額化する医療費の支払いを賄うために、産業の発展とともに 誕生した。これは、当時、医療費の不払いなどで財政的に厳しい状況に置かれていた病 院の財政再建に繋がるとして全米に広がった。医療保険制度の仕組みとしては、雇用主 の提供する医療保険によって始まり支えられていたが、この制度は、利用者には経済的 状況に影響を受けやすく不安定であるという特徴がある。

この保険に加えて私的な保険に加入することで医療費を賄うという二段構えの保険制 度が生まれることとなった。医療費は、既に述べたように、入院日数や、手術費、診療 費などの医師の技術によっても影響を受ける。より高い技術をもつ医師の診療を受けた いという患者のインセンティブがドクターフィという概念を生み出した。

高度な医療技術が、入院期間を短縮化し術後の経過もよくなるという構造は、ドクタ ーフィ上昇の要因となり、更に医療費が高騰するという悪循環も生み出している。現在 は患者が加入する医療保険によって医療費の自己負担料が異なる。米国の医療制度は、

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患者には医療を選べる自由が与えられており、医療を提供する医師には、能力次第で相 当の収入が得られるというビジネス関係が成立しているが、医療費高騰や医療依存、健 康格差といった問題を生み出す要因にもなっている。

米国において老人や就業できない人に対する保険制度には、1965 年にメディケアとメ ディケイドが導入されたが、高齢者や貧困層の増加など人口構成割合の変化と経済的な 影響によって、制度の維持が難しく、特に、2006(平成 18)年のリーマンショック以来、

見直しや廃止が検討される政治的にも重要な問題である。

つまり、米国の医療制度は、患者にはセルフケアを促す、医療提供者側の立場を優先 して組み立てられた制度である。米国の社会保障制度は、貧困層や高齢者以外の国民に 対しては自助を促し、国の介入を最小限とする。この場合の自助とは、経済的な力を用 いた自助であり、「医療」と人間の「健康」という概念が資本主義的な思想の下に置かれ ているものである。

このような医療制度において出産も自助すべきものの一部分となっている。出産に伴 う労苦が市場に置かれることになる。

米国の産科医療は、産科医師によってより安全で安楽なものへと変化した。出産を、

薬や手術によって痛みや苦しみを取り除き、安楽に生むものへと変えた。

いつ生まれるか分からない出産は、陣痛促進剤や帝王切開などの産科手術によって計 画可能なものとなった。無痛分娩の技術が発達し、出産時に付き添い労う者がいらなく なった。産科医療技術の施術例が増え、産科専門看護師が医師の分娩介助を助ける者と なった。

米国の医療制度に同調するように、日本では 1961 年に国民健康保険法が改定されす べての国民が健康保険に加入する国民皆保険制度方式を導入した。これによって、国民 は「誰でも」「いつでも」「どこでも」同じ水準の医療を受けることが出来るようになっ た。しかし、出産は、異常分娩のみが保険の適応となった。この仕組みは、出産に対す る医療介入を増やし産科医療の開発と発展に繋がった。他方、正常分娩のみを扱う助産 師にとって正常分娩が保険対象外になったことが、正常分娩を減少させ、助産の領域を 一層狭めることになる。

産科医療は、医療技術が異常出産の予防や苦痛の軽減などとして用いられること、ま

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