第 1 章 出産の本質と助産の人間学的意義
1. 出産と出生の重層的意義
1.1 出産による人間の基本的構造~「生む」ことと「生まれる」こと~
1.1.5 生物学的意義付け
生物学的な人間理解は様々な定義に基づき人間の「生」を規定した。人間のどのよ うな機能が生命現象を生じさせているのか、どのような仕組みによって意識が起こり人 間を行動させているのかという探求の繰り返しと積み重ねによって、人間の身体の骨格 や臓器の関係性を明らかにした。人間に対する生物学的なまなざしは、近代化に伴い、
解剖・生理学の基盤を築き医学の発展を導いた。
医学による人間の解明は、人間社会をキリスト教制度から解放し人間本来の「生」を 置き直すことを目指した。それは人間が、一人の人間として自由に「生きる」ことを支 えるものとなるはずであった。
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近代医学による人間の解明は、人間の構造と病気の原因を明らかにすることによって 患者の命を救った。人間の身体の構造と病気の解明は、すべての間に生死と病気を平等 に置いた。医学による治療法の開発は、「医」と「病苦」によって培われてきた人間の「生 きること」を、「医」の外部へと追いやり、人間の「生」を医学技術と結び付けた。
医学は、人間の「生」を危機へと貶める病気のプロセスを解明し、原因を究明しその 自然性を管理した。
デカルト(Descartes, René.1596-1650)により示された人間の身体と精神の二分化9は 機械論的医学が創設される契機となる。この分化は人間として「生きること」を支える 出産においても同様に行われた。出産に対する医学的な解明は、出産を分娩(delivery)
という用語に置き換え分解を進める。分娩は「産道(軟産道・骨産道)、娩出力、胎児お よびその付属物(胎盤や臍帯)の三要素からなる」10と定義された。この定義づけによ って出産による母子関係は「うみ」「生まれる」という人間としての関係性にまなざしが あてられることはなく、母体と胎児という生物学的な定義の下に病気の遺伝に関心が寄 せられた。
近代医学による出産の解明は、主に難産における介入から始まることになる。近代医 学は、難産のメカニズムを明らかにすることによって、産科医学が隆盛期を向かえる。
出産の場所における医学の介入は、出産の介助者であった産婆の互いに共に在ること によって、一人一人の出産を取り上げるという人間的な在り方を、非力で無知な方法と した。困難に立ち向かい、鉗子や手術などの医学技術を用いて自然のプロセスに介入す る医師の姿は、人間を自然の一部という束縛から解放する態度として人々に受け入れら れた。
難産に対する対処法を次々に生み出す近代医学の隆盛によって、出産する母親と「共 に在る」こと、そして母子のそれぞれの「生んだ」と「生まれた」を成り立たせて出産 を支えることで得られる人間として「生きる」ことが見失われて行く。
人間社会は出産を長い間、医学の対象にはしてこなかった。それは人間にとって「医」
が人間に苦しみや死を齎す「病」に対峙する行為として在ったということがある。一方 出産は、新たな人間を迎え入れ、母と子と父という人間の共同性を生起するという「生 きる」ことに関わるものであり、受け入れるという立場をとることが基本的な在り方と なる。このように、「病(あるいは死)」と「生きること」の性質の違いが、対応の仕方 に影響していたことが分かる。
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ヒポクラテス(Ἱπποκράτης, ac460-370)の「医術」は、人間が「自然(physis)11」 の一部であるという考えの下に「病」を理解し治療法を形成した。ヒポクラテスは、人 間の性質が単一ではなく様々なものから成り立つ個別のものである(小川 2013)とし、
そのことを自然という概念を用いて述べている。ヒポクラテスの人間観に従えば、人間 は自然の内から生み出され、自然と共に生きるものとして捉えられていたというように 理解することができるだろう。
ヒポクラテスは、人間が自然の一部として存在しているという立場から「病」を理解 し、患者一人一人の病苦に従うことを重視した。彼は、患者のもとへ自ら出向き、実際 に症状を見て、聞き出し、患部に触れて診断するという仕方によって「病」の状況を見 定め病苦に対応していた。このようなヒポクラテスによる医の行いは、病にある人間に 対して、内なる病を明らかにしめし、対峙すべき方法を具体的に知らしめ取り除くこと へとつなぎ、患者の治癒力や回復力を引き出すものである。ヒポクラテスは医術の本質 を、患者と共に在ることにより見出した。
このような在り方は、出産に対する産婆の在り方にも通じる点が多くように思われる。
同時期の古代ギリシアにおけるソクラテスの問答法が「産婆術maieutikē, διαλεκτική
[希]12」とも呼ばれているように産婆の存在は古くからある。産婆は出産する女性と 共に、産婦に有された自ら生み出す力を発することができるように付き添う。陣痛を和 らげることも、難産を助けることも常に出産に従う。これは、人間が有する出産という 能力を、最大限に発揮することによって成し遂げようとするものである。よって産婆は、
産婦の一人一人に有された力が発揮されるように出産に支えるという態度が「助産」の 基本的な在り方となる。
しかし、「病」と「出産」とでは決定的な違いがある。それは、子の存在が関与すると いうことである。産婆には、「生む」母と「生まれる」子の双方の力を見極めるという第 三者的な在り方が求められている。それは、母子のそれぞれから生じる「生きる」力を 互いに共存させ統合するという在り方である。出産とは、母親の陣痛の痛みを取り除く のではなく、その痛みを胎児が生まれる娩出力へと変えるというような相互補完的な性 質をもつものなのである。出産により母子が分離した後には、それぞれが個別な人間で あるようにしたうえで親子として結び合わせる。この一連の経緯に伴って様々な複数性 の在り方が生じる。「助産」は、出産を通し生起するこれら全ての事柄に、それぞれ折り 合いを付けながら統合させていくことが期待されている。それが人間の共同性を編成し
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「生きること」を支える技術となる。
科学的にも論じられているように、人間の遺伝子や DNA を構成する細胞や組織の内 に進化の過程が記憶として残されるという13のならば、出産において生起する共同性は、
すべての人間の身体の中に刻まれ、継承されるということになる。出産することで共同 性は発揮され、それが社会を形成するということになる。
その場合、人間が出産することにより潜在的な共同性を発露させることが社会的にも 合理的であると言えるだろう。産婆による助産が、生命的な危機を乗り越えるだけでな く社会を編成するということからも意義が与えられるのではないか。
しかしその一方で、出産が母や子に「死」をもたらすものとなる場合には、それを救 えなかった「助産」には合理性が与えられるということはない。「助産」という在り方が、
人間が自然の力に従うしかない、儚く無力な仕方と見做される。出産の原理を自然科学 的に解明し「死」の原因を追究することで、その恐怖から逃れようとすることが、出産 を医学的な枠具に取り込む契機となる。
科学的に解明された出産は、生む母と子を身体としてあらわし、互いの交わり合いを 分娩機序として制定する。例えば出産による母や子の「死」が人間に有された出産とい う力と、人と人との関係性(複数性)によって生じた人間としての「死」であるという ことが、「死」の原因や因果を問うことで覆い隠される。「死」は出産という「生」の場 には生じてはならない出来事であり「死」を齎す自然の力を調節する力を有することが、
人間が生存するための能力になる。