第 4 章 出産と助産の Conviviality
4.1 助産技術再考
4.1.1 医原的身体
出産と助産は共にあることで、母親と子とその両者を助ける第三者のそれぞれの存在 を支えている。出産と助産は、軍国化、産業化などそれぞれの目的の下に道具や資源と して用いられ、投入され、消費される途を歩んできた。このような歴史的な変遷をたど ることにより人間は、共に生きる人間を道具や資源と見做し、さらにはそれが自身を身 体という道具や機械を備えるものと見做している。
これは、人間が人間と共にあることを分断するということだけでなく、個となった人 間自身をも分裂させるのである。それは、一人の人間のかけがいのなさを見失わせ、自 分自身を「同じ人間」あるいは「誰でもない誰か」であるかのように知覚させる。この ような身体感覚は、一人の人間の人格形成や人と人との関係性を構築する場面で問題を 引き起こす要因となる。たとえば出産後の母親の孤立や子どもとの親子関係の形成を阻 害し、子ども虐待などのリスクとして考えられている。
イリイチは晩年に、人にこのような知覚を与える要因として再び医療化の問題を検討 している。この医療化の問題は、人が医原的な身体を獲得しつつあるということ自体が 医原病であること指摘するものである。イリイチは医原病の分析に、身体それ自体の医 原的なつくりかえに盲目だったことを自覚している。医療化による「われわれの身体と われわれの自己という〔身体と自己とを区分する〕経験が、今世紀半ばにおいて、どれ だけ医療的な概念と医療的な世話(ケア)の結果であるかということに気付かなかった
(Illich, I, 1991=2010:259)」としている。
イリイチは『脱病院化社会』において、1960 年代の産業社会では「病院」という施設 が人々の「生」の医療化のために機能していたことを明らかにした。それは、産業社会 の「病院」という施設によってコモンズ(風通しのいい誰もが出入りできる共有空間)
が衛生的で画一化された空間となりヴァナキュラーが失われたことに起因するものであ った。ヴァナキュラーを失い規格化されたコモンズによって人間は、標準化された「生」
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「病院」という場に出産と助産が集約されたことにより、出産によって齎された人間 的な「生」は医療によって管理されるものとなった。産婦人科学が母の〔母による〕分 娩だったものを、母から子供の分娩〔分離〕にかえて(Illich, I, 1991=2010:253)し まった8。しかし現代の医療化の問題は、さらに進んだ状態にあることをイリイチは明ら かにしている。
イリイチによれば現代の医療は、人が自己の身体感覚を医療的なモデルに従って獲得 するという重大な症状を伴う医原病となっているという9。この医原病によって人は、自 己の身体を医師や医療者が説明するとおりに知覚する。医療化によって獲得した身体感 覚は、一人の人間の身体と生命を生きる人間のもとから離床させ、それぞれを別々の物 質にすることができるのである。イリイチは、このような人間の身体と生命の物質化は 産業社会におけるサイバネティクスやコンピューター時代の到来を招くと指摘している。
産業社会において離床した身体や生命は、生産システムの中へと投入されてしまうとい うことを既に予期していたのである。
近年における身体感覚の変容は、医療を現代社会において先端技術と位置付けられて いる生殖補助医療や ips 細胞を用いた臓器の複製と臓器移植などの開発へと導いている。
産科領域における医療技術は、出産から可能な限りリスクを排除し、出産する母親を
「死」という危機から遠ざけた。それは同時に、健康な子の誕生を迎えることができる とされている。しかし一方で医療は、出産した母親と子との間を親子関係として繋ぐと いうことはできない。何故なら、母と子による親子関係は、日々の生活を経ることによ り徐々に編成されるものであるからだ。それは人にとって労苦を費やす過程となるのだ が、その過程が人と人との関係性によって支えられることで楽しみを齎すものにもなる のである。
産業社会における生産システムは、人と人との関係性を分断し、人間を個として存在 させる。現代社会は、出産や子育てにおけるニードを道具やケア技術で充足するために 新たな製品が次々と開発するというシステムの中に母子を取り込んでいる。それは、出 産や子育て期にある母と子に対して、人が支えようとすることを阻んでしまうシステム となっている。
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イリイチは産業社会の構造が自己の存在までをも阻むものとなることについて、それ は、かつて人間がそのまとまりを超越的なものとの関係に基づいて自覚し、それが同時 に自己規定を支えるものとしてあった領域を失ったために生じたものであると分析して いる。イリイチは、その領域について、絶対的な他者へと通じる入り口であり、聖なる もの、あるいは神、あるいは一つの力が自己を顕現する場所であると説きそれを、聖域
(sacrum)10と呼んでいる。現代社会において人は、超越的なものが公的に宗教的なも のとしては把握されていない社会に生きているという11。
身体とことば
人は生活の中から聖域を失ったことで、一人の人間として「生きること」を奪われて しまう。イリイチはそれが「生命(life)」ということばの用いられ方の変化によって生 じていることを明らかにしている。イリイチによれば「生命」という言葉は、元来人間 の一人の「人格(person)」を意味する言葉12であった。しかし、それが「人格」から切 り離され「生命」だけが一つの言葉となったとき、卵子や精子、細胞などさまざまなレ ベルで用いられる「根無し草のことば」13となった。
言葉を用いて観念や概念を形成する人間にとって「生命」という言葉は人間に埋め込 まれた身体と生命を分離させる道具となっている。これにより人間的な「生」はますま す奪われ管理されていく。人格から切り離された「生命」という言葉が、人間の手に「生 命」を引き渡し、人間が世界をつくることができるという想定を抱かせる。
それは「生命」を自分たちが欲するかたちに作り変える手段を生み出すことへと繋が っていくのである。この繋がりがやがて、人間が世界に対して責任を負っているという 主張を生じさせていく。つまり人間が「生命」を管理することへの正当性にもなる。
イリイチの指摘は、言葉は人間が用いる道具であると同時に人間が用いられる道具で もあることも明らかにしている。つまり、イリイチは、身体と言葉の問題を産業社会批 判を通じて明らかにしたのである。彼の思想が、交通や学校、医療に始まり、最終的に 言葉やアルファベットの成り立ちへと展開した背景には、産業社会が「物」から「非物 質」の生産へと変容した過程が示されている。
晩年のイリイチは、言葉を回復させることで分断されたコモンズを取り戻すことを目
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指したことが推察される。イリイチにとって「言葉」は人間が個として、もしくは分裂 した自己として生きることから、一人の自立した人間として生きることを取り戻すため の道具、すなわち Conviviality のための道具になるという考察である。
出産を支える助産師は、医原病を生み出し続ける医療の枠組みの中で人間的な「生」
を取り取り戻す Conviviality のための道具となる。産業社会が ICT 技術や AI 技術など の「非物質」的な製品の開発を急速にすすめていく中で、人間の存在も「非物質化」し ようとしている。このような社会においてこれからも人間が人間として「生きる」ため にも助産師は、出産し分離する母子を繋ぎ合わせることを「技術」として用いていくこ とがより一層求められている。出産の場に母と子とその両者を支える助産師が共に在る ことが、産業社会において分断された人と人との関係性を繋ぎ合わせ、コモンズを回復 することになると考える。