第 3 章 社会的人間の「生」と出産と助産
3.2 社会的出産と助産の技術化
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医師や助産師は、「病」にある人や「出産」する人を支えると同時に、国家や社会のため に有用でありたいというように、二重の立場を取ろうとする。この二重性が、人の「生 きる」ための能力を奪い、人々に新たな苦しみや葛藤を生じさせる。そしてこの二重性 は医師や助産師自身に対しても苦しみや葛藤を生じさせる要因となるのである。
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明治期における助産師の、教育、免許、職務制限を規定する諸制度が制定され近代化 の基盤が整った。医制公布後の 1878(明治 11)年に 12,009 名であった産婆の数は、明 治 43 年には 27,674 名まで増加した15。多くの産婆が地域で開業し自宅へ出向き分娩介助 にあたった。「助産」が職業化したことによって、出産と助産の関係性は分娩費という経 済的な関係性で結ばれるようになる。近代国家としての目的を果たして行くための基盤 を築いた時代となる。
その後も産婆数は年々増加し、大正 14 年には 42,877 名となった。職業化し開業する 産婆の一般的な働き方は、開業した地域の産婦や家族と人間関係を結び、出産だけでな く、医療や保健衛生を担当する者として役割を果たす存在として(日本助産婦会 編 1988:9-10)人々の間に定着した。
同時期に出版された『産婆開業術』(久保 1925)には、開業の心得や産婆の容姿、性 質や体質、開業地の選択などが掲載されていることなどから、産婆が産婦や家族から選 ばれる存在となった様子が伺える。これによって、「取り上げ婆」は近代国家から姿を消 し、国家の法制度によって結ばれた新しい「産婆」が人々の出産を「助産」するものと なる。
女性たちの出産は、生活を共にする共同体の産婆では無く、公的な産婆によって取り 扱われるようになった。それは、顔見知りの誰かから初めて見る産婆への変化である。
この変化は助産を経験から得られた技から技術へと変えた。これは江戸中期から産科医 の技術が飛躍的に進歩して、その指導を受けたからである(高橋 1983)とする見方も ある。
江戸の中期以降の出産では産椅(いす)が用いられ、難産時における胎児の娩出ため の手技が伝えられるなど、物や道具が助産の中に持ち込まれるようになる。これを助産 の技術化、または発展や進歩と言うように見て取ることもできるのかもしれないが、そ れがかえって人間に有されている出産や治癒力を妨げていることもある(杉山 2007)。
また、このような物や道具の使用によって用いる対象が「出産」となることで、出産す る母親の存在が見失われることに対しても配慮されなければならない。
明治近代における出産と助産の医学的な理解は、出産する一人の女性を、「産婦」や「新 生児」として捉えることによって、助産の技術化を一層推し進め、人と人との関係性を
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賀川玄悦の高弟佐々井玄敬茂庵が著した『産家やしなひ草』の序文には、次のように 記されている。
産は病にあらず。而に今世の産家。椅帯もて束縛し。湯薬もて温涼し。或は食忌に 拘て養を失ひ。或は祷呪を信じて惑を増やし。外俗医の制をうけ。内穏婆の誣を用 て。遂に弄して病痾をなす。此弊巳に二三百年に及べり。
(佐々井 1777)(
現代語訳)
出産は病ではない。ところが近頃のお産の場では産椅や腹帯で妊婦の体を束縛した り、煎じ薬で温めたり冷やしたり、ある時は食事の禁忌を気にして栄養を取れなく したり、ある時は祈祷や呪術を信じて迷いを増やしたりします。妊婦は外では学識 のない卑俗な医師から指図され、内では取上げばばの誤った教えを聞かされたりし て、心身に余計なことをやりすぎ長引く病気になってしまいます。このような弊害 はすでに 230 年にもなります。
(杉山 2008:1)この書は 1777(安永六)年に著されたものである。この一節には、既に医学や助産の 技術化と、それを用いる医師や産婆のそれぞれの態度を鋭く批判するものがある。つま り、近代化を迎える以前から出産に対する医師や産婆の対立と介入があったことが示さ れている。
そして近代化以降には、新たな医療制度の制定によって、医師と産婆の関係性も変化 し新たな問題が生じるのである。その一つは、医師による産婆への医学知識や技術の普 及が産婆の業務拡大に繋がり、医師と産婆の領域を接近させることとによるものである。
医師と産婆の接近により両者が出産にたいする理解を医学的な知識に基づいて行われ ることで、出産に纏わる人間学的な意義が見失われていくことがある。骨盤位(逆子)
を矯正する外回転術16や難産を回避するための出産体位、胎児の娩出方法などを医師が 産婆に教示し、技術を共有する。それは、出産における異常の早期発見や医療介入を行 う時期を適切に判断できることになり、産婦の生命的な危機を救うことに繋がる。
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しかしそれは、医師による医療介入の機会を増やし、産婆の権限を狭めることになる。
医師と産婆のこのような関係性が成立することによって、医師は出産時の医療介入を推 し進め、出産における異常を拡大させていった。そして産婆の取り扱う正常出産の範囲 を狭めて行くことになるのである。
このような医師と産婆の関係性は、その後の医療技術の発展により、両者の間に軋轢 を生じさせていくこととなる。それは、出産する女性や家族の人間的な「生」を見失わ せる要因にもなった。
明治期における産婆規則の制定により産婆は。正常な出産のみを扱うことが認められ た。それゆえに産婆に用いることが許された道具は、臍帯を切断するための鋏だけであ った。産婆が異常分娩を取り扱うことは禁止され、医師の診療を仰ぐという棲み分けが 出来るようになり、産婦や家族にとって良い出産が迎えられるようになると考えられて いた。
しかし出産は、正常に経過するものもあれば、異常に転じるものもある。出産が正常 であるか異常であるかを判断するためには出産に付き添い、その経過から見極めること が必要である。出産の場における産婆は、出産の正常と異常の間を繋ぐ存在となる。医 師にとって産婆は、異常を見極め医療介入時に医師の指示に従う産婆が有用となる。正 常な出産を異常に経過させる産婆、異常に推移しそうな出産を正常に経過させる産婆は 無用なのである。
例えば、出産時の産道の裂傷、胎児の仮死や死亡、出産時の大量出血など、生じてし まった異常の要因は産婆の未熟さや無知が原因とされる。このような状況は、産婆を出 産の場において有用であるために技術の修得や開発へと向かわせてしまう。
かつて産婆の「誇り」とされた会陰保護という技術は、医師の領域へと侵入する産婆 を排除するために、産婆に課せられたものであった(木村 2011)という指摘もある。
産婆に会陰裂傷を防ぐという目的が課せられたことで、産婆は会陰保護という技術を高 めて行こうとする。それは母親の陣痛を過度に調節し、胎児を仮死状態にするなど、新 たな問題の要因になる場合もあった。産婆の技術化が、出産する女性や子どものために あるものではなく、産婆の誇りや技能の高さを示す道具となってしまったというのであ る。
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これらは、人間が「出産」にどのように向き合うべきなのか、あるいは人間が人間に 対して技術をどのように用いるべきなのかなどと言う問いを投げかけている。そしてそ の問題は、既に近代化以前から始まっていたことを示唆するものである。共同体におけ る出産と助産が、儀礼や慣習を用いていたということを、単なる無知や野蛮なものとし て捉えるのではない。人々が出産と助産を人と人との関係性の中においたということの 意義を考察しなければならないことに気付かせてくれるものとなる。
助産の技術化は近代化以前においても広がりつつあった問題であるということ、そし て近代化はその社会構造が要因となり、技術化が発展として社会的に受容されたことが 明かになる。またそれは、技術と人間の関係性に変容を生じさせる要因となったという ように考えることができる。この変容は、近代化が開始してからわずか 40 年の間に急 速に進み、その後の時代に生きる人々の出産の在り方にも影響を与えることになった。
出産と助産が映し出す人間的な「生」の在り方
助産を担う者の名称が全国的に「産婆」へと統一される以前には、「取り上げ」や「取 上婆」「引き上げ」など地域によって異なるという言葉で呼ばれ、人々の生活の中で定着 していた。柳田国男の『産育習俗語彙』17における研究にもあるように「取り上げ」には、
ただ単に子を取り上げるという行為を指すだけでなく、出産前後に関連した共同体の儀 礼や仕来りを取り仕切るという役割を担っていたことが明かである。つまり「助産」に は母と子を親子として結び、家族や共同体との関係を取り持つという役割が人々の生活 を支えるものとして重んじられていたことが伺える。
出産において第三者を介在させるという事は、人間が出産を「生存」のためのものだ けではなく、新たに生まれてくる者を迎え入れるというような「生きること」へと繋げ るための態度であり、人間の共同性の在り方を現わし出すものとして見ることができる。
すなわち、出産と助産によって示される人と人との関係性の中から「生きること」を編 成していこうとする在り方だと考えることもできる。
助産師が「取上婆」と呼ばれていた時代には取上婆と生れた子との関係は出産後も長 く続き、七五三や子の婚礼の宴に招かれるなど一つの親子関係であり、取り上げるとい うことが活かす大きな力であった(柳田 1946:496-497)という。人と人との関係性や