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産業社会と道具の概念

ドキュメント内 人間的生からみた助産 (ページ 58-64)

第 2 章 イリイチの医療批判における人間的な生

2.1 イリイチが現わし出す人間的生

2.1.5 産業社会と道具の概念

イリイチの批判は、産業社会に張り巡らされている制度に対して厳しく向けられてい る。それは、制度の始まりが道具の使用にあるためである。イリイチは「道具とはある 目的を達成するために設計された装置のこと(Cayley, D, ed., 1992=2008:161)」だと述 べている。産業社会において発達した交通や学校、病院などの諸制度は、一定の強度を 超えて発達し当初の目的達成を阻むように働きかける(逆生産性)道具であると言う17。 医療を道具として分析した結果に導き出されたのが、医療批判における逆生産性、つま り「医原病」の理論である。

イリイチの批判は、神学者として、またキリスト教司祭や、大学副学長という経歴や プエルトリコにおける生活体験など、自らが経験したキリスト教制度に基づいている。

また、イリイチは自らのキリスト教批判が、ジャック・エリュール(Ellul , Jacques, 1912-1994)18の思想を受けながら展開されたと述べている。しかし、イリイチはエリュ ールのキリスト教批判との相違点について次のように明らかにしている。

エリュールが一貫したカルバン主義で悲観的な人物であったのに対し、イリイチは人

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間が開発するテクノロジーに期待するところはないとするところはエリュールに同意す るものの、人間には美や創造力、創意工夫などの才を有することを信じるとする点で異 なるというのである。つまりイリイチは、人間が人と人との間に生きることにより、人 間に自立を取り戻す可能性があることを期待していたのではないかと推察される。

そのためイリイチのキリスト教批判は、キリスト教を全面的に否定するものではない。

教会が人と人の間を支えるのではなく、キリスト信仰を教会の発展と維持のための道具 として用いた教会の態度にイリイチは批判を向けていたのである。ケイリーは、イリイ が「corruptio optimiquae est pessima-最善のものの堕落は最悪である」という言葉で 産業社会を批判する理由には、西洋近代が備える人びとのニーズをケアするという巨大 な体系的諸制度が、教会による福音の制度化という企ての倒錯的な延長にほかならない

(Cayley, D, ed., 1992=2008:81)19と考えていたためだと推察する。

確かにイリイチは、社会と技術の在り方にはキリスト教制度が関わっていることを常 に産業社会批判の基盤においている。しかし彼は、産業社会の制度に留まることは無く 道具の観点からも検討を加えている。

イリイチは、エリュールによる社会批判を「テクノロジーの支配する社会を、キリス ト教が掲げる理想の倒錯としてのみ 説明がつくもの(Cayley, D, ed., 1992=2008:165)」

としている。イリイチは、この受容を踏まえた上でテクノロジーに対する検討を加えて いる。イリイチは「テクノロジーと秘蹟の神学の両者は、意識的な設計―効果をもたら す要因となり得る諸手段に関する意識―という共通のルーツを有している」ということ を理解し始め、イリイチ独自の技術論へと進んでいくのである。

イリイチは道具の概念を 12 世紀のサン・ヴィクトールのフーゴー(Hugo of St.Victor.

1097-1141)20に見出した。フーゴーは『機械的学問について De Sciencia Mechanica[仏] 』 を著した人物である。イリイチによればフーゴーは、機械的学問に関する最初の理論家 であり、七つの秘蹟という考えを明確に説明した人物(Cayley, D, ed., 1992=2008:158)

だという。

フーゴーにとって技術とは「人間によって損なわれた自然と、それゆえにそうした自 然から脅かされる人間とのあいだに生じた・歴史のなかで傷つけられた関係を、いくら かでも耐えやすくつくりかえようとする社会の努力の物質的(ものの側からみた)表現

(Illich, I, 1991=2010:177)」21であると言う。フーゴーにとっては、手仕事、採鉱、

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交通そして演劇もまた社会にとっての「癒しの術 Heilkünste[仏]」であると考える。そ れは、人間の罪により、自らの生活を汗と労苦で贖わなければならなくなったことを、

あきらめて受容するのではなく、破壊された自然を人間の支配に委ねるものでもない。

人間の生活を出来る限りよく(美しく)生きようとつとめようとするものなのである。

フーゴーの学問は、人間的生の三つの不十分さ(無知、悪徳、肉体の弱さ)とそれぞ れを癒やす手段(理論的な技芸、徳のための実践的な技芸、生活の維持のための機械的 な技芸)から示されているという。これらの技芸は、理論的学問(Theorie[仏])、実践 的学問(Praxis[仏])、機械的学問(Mechanik[仏])の三つの部門に分かれている。その内 の『機械的学問 mechanische Wissenschaft[仏] 』がフーゴーの技術論となる。その技 術論は、人間の生活を出来る限りよく生きようする技芸のうちに現れている知恵を探究 するものとなる。フーゴーの視点を踏まえた場合に技術とは、何かを獲得するためのも のでは無く、補助手段であり、治療法であり、支え、杖(Illich, I, 1991=2010:185)と 言うようになる。

イリイチは、フーゴーの技術論を踏まえて、さらに道具の考察を続ける。そして彼は、

キリスト教において秘蹟の効力が、神に委ねられているということに着目する。そして フーゴーを手掛かりに道具の対する考えを次のように言い表している。

道具という観念と秘蹟という観念の間にはある関係性が存在すると思います。すな わち、道具とは人が欲することをしてくれるのであるのに対し、秘蹟とは、神が人 間に掲げることを許したしるしであると同時に、神が欲することをなすもの、そし て、多かれ少なかれ、それを司る僧侶の能力や力や意図、さらには品位とも無関係 に、神のよくすることをなすものなのです。

(Cayley, D, ed., 1992=2008:158-159)

イリイチが特に強調するのは、道具が人間に対して直接的に作用するということでは なく、道具を用いる者の意思である。彼は道具を、人が企画・設計した目的に資する手 段を意味する言葉とした。そして、一定の強度を超えて発達した道具は、不可避的にそ の利点を享受しうる人々を、その道具からつくられた目的から遠ざけるとしている。イ リイチは、医療が人びとの望みや経験を、一定の限度を超えて医療の対象として扱うよ うになれば、医療はそれが癒しうる以上の、不幸や無力さは生みださざるをえなくなり、

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同時 に苦しむ 技術や死ぬ技 術を用い る人びとの力 を衰えさ せる( Cayley, D, ed., 1992=2008 : 164)道具となるという結論を導き出している。

道具に関するこのような考察を通してイリイチは、道具が直接的に人間に対して何か を行うのではなく、むしろ道具が人間に何かを語りかけるようになることに注目した。

彼はそれを次のよう分析して述べている。

すなわち、主要な道具の諸体系によってもたらされるもっとも重要な効果は、現実 に対するわれわれの見方をかたちづくることであり、われわれの内面に一連の固定観 念を植えつけることであるということ。われわれはそうした社会に生きるようになっ たのだということです

(Cayley, D, ed., 1992=2008:166)

イリイチは、産業社会おいて製造される道具が、社会の意志によって企画されその効 力が予め定められていることを明らかにするものである。そのような道具を人間が用い ることで、「快適さ」や「発展」が最善であるという観念を植えつけている。それは、人 間の自立を奪う要因の一つとなっている。

そしてイリイチは、その構造が、キリスト教の発展を支えてきた信仰様式にあること、

またそれが近代化や産業社会の勃興させた要因となっていると指摘する。イリイチの考 察は 12 世紀のヨーロッパに身を置くことで得られたと述べている22。イリイチはその考 察によって、テクストの可視化や結婚にみられる契約など、今日においても主要となる 社会的なツールが 12 世紀に出現したことを認めることができると言う。イリイチによ れば、道具と人間の関係性は、既に 12 世紀のヨーロッパにおいて紐づけられており、

その紐づけは現代の産業社会において開発と発展とに結び付けられていると述べている。

これらの結論からイリイチは、社会と人間との関係性を紐づけるものが道具であり、

その道具による観念が人間を社会に適応させている。Conviviality を提唱するイリイチ にとって人間の観念は、人間の「生きること」を通して形づくられるものであるとして いる。彼は、産業社会の道具によって打ち立てられた観念が、人間的な「生」にどのよ うな影響を及ぼしているのか注意深く分析を続けていく。

そして、イリイチは産業社会が生産した道具によって植え付けられる観念が、人間を 更なる危機へと向かわせていると指摘する。彼はその一例を、ナチスの医師たちを題材

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