第 3 章 社会的人間の「生」と出産と助産
3.4 淘汰される助産師
助産を担う者たちは、明治期における公的な産婆の制定、度重なる大戦、戦後の混乱、
高度経済成長期、そして現代社会の専門職化など、時代の変化に呼応するかのように在 り方を変えながら助産師へと辿り着いている。
その過程には、度重なる法改正と再教育を受け、助産の方法や場が変わったとしても 常に変わらずに貫いてきたのは、出産する「女性と共にある」ことである。それは、産
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婆から助産婦、そして助産師へと変遷しても、失われることなく引き継がれた助産の本 質であると言えるだろう。その本質は出産の事実に触れることによって得られるもので ある。
明治期から現在に至る間で助産師は、何度かの分岐点を乗り越えてきた。最初の分岐 点には、医制に伴う産婆規則の制定があげられる。これによって、人間の生活の中で培 われてきた助産の行いは、生物学や医学的な概略によって分娩介助という技術に置き換 えられた。この置き換えは助産の枠組みを狭め、その行いが規則として定められ公式な 産婆と非公式な産婆(伝統的産婆)に分断された。この分断は産婆から、母子を共同体 と結び親子として存在させるという社会的な役割を取り除いた。親子関係の紐帯を結ぶ という産婆の役割は、近代国家では法制度が替わって行うことになり、産婆の存在を出 産の介助にあたる行為者へと変容させた。
第二の分岐点としては、産婆法制定をめぐる助産師たちの自立に向けた動きと、法案 の頓挫である。正常出産における医療介入の拡大に対して、職挙を明らかにし自らの存 在意義を示そうとした産婆法制定の試みは、当時の出産状況が徐々に臨床へと移り替わ り助産師たちに危機感を齎していたことを示す出来事である。産婆法は、医師法・薬師 法に並ぶものとして、産師法と改名し法案の策定を試みていた。助産師たちは、法案制 定に向けて様々な方面に陳情したが、新たに誕生する産師を定義するための「助産を業 とする者」という一文が、医師の助産を禁ずることになるとの指摘が上がり、産婆会内 で議論が紛糾した。もともと産婆規則に助産をすることが明記されているという理由か ら、法案名を「産婆法」で良いのではないかとする意見と、現状の産婆規 則に不備が あるとし「産師法」を支持する助産師との間で意見が分かれた。
昭和 15 年の大日本産婆会第 13 回総会議事録には、国家の衛生政策が進む中で、助産 師たちの仕事も、巡回産婆や乳幼児の健康診査など公衆衛生に関する業務が拡大し、助 産が衛生政策実行者として変容しつつある状況が映し出されている。この出来事は、助 産の変容に助産師の存続に危機感を抱いたことに端を発する。この危機感は、助産師た ちに与えられた技術や能力が外的な要因によって定められているということに気付かせ る契機ともなる。当時の産婆会は、「中央の存在より、○○県産婆会という地方団体の独 自の歩みのなかで、それぞれ自由な運営が行われ……団体の必要性を感じないまま県の
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産婆会のなかに所属している者もあった(日本助産婦会編 1988:11)」と記されている。
それが全国的な職能団体の結成へと向かわせた背景には、母子保健を担う者に対する 社会的、衛生的必要性と、戦時体制による国家的指導の徹底であったとする解釈もある。
しかし、開業助産婦が社会的に普及した段階では、開業場所の許可もそれぞれの地域の 産婆会に一任されていた時期もあり、産婆会は中央システムの下部組織ではなく、それ ぞれが自立した助産師の集合体という性格が強かった(日本助産師会編 1988)として いる。
第二次世界大戦後のGHQによる医療改革時にも、助産婦の間にはこのような旧産婆 としての特性が残っていたために、指導が徹底されないことが度々あった。それは、助 産師たちの間に度々亀裂を生じさせていた。昭和 21(1946)年に産婆会は解体され、新 たに日本産婆看護婦保健婦協会が結成された。それは保健師助産師看護師の三職種が一 体となった職能団体である。産婆や助産婦たちは GHQ の指導に従い、一度はこの団体 に所属した。しかし、その 8 年後には開業助産婦の多くが脱会し、助産婦だけの職能団 体となる日本助産婦会を設立するなどして分裂した。これによって、産婆は独立開業者 と施設勤務者とに分断することになる。
空襲の中でも、敗戦後の荒廃した社会の中でも、困窮した暮らしの中でも助産師たち は様々な方法で助産を行った。このような劣悪な環境の中でも病院で出産する産婦もい ること、また、病院出産においても入院費を支払える者と、支払えない施療患者とがお り、出産という同じ出来事においても、病室や食事などの待遇に差があったことなど様々 な時代における人間の「生」の置かれ方の事実を知っている。
昭和 20 年代の多くの住居は、焼け跡に簡易的に建設したもので、部屋の温度や衛生 状態を調節する術も無く、子どものオムツとなる古着さえも入手するのに困難を極めて いた。自宅分娩の介助にあたる助産師は、分娩後も約1週間程度は、毎日産婦の自宅へ 通い、産後の母体の回復状態を確認し新生児の沐浴を実施した。沐浴は「お湯つかわせ」
と呼ばれておりその料金は分娩代に含まれていた。当時、10 円程度の分娩代さえ払えな い家庭も多く、それぞれの家庭の生活状況によって分娩代を加減したり場合によっては 無料にしたりすることもあった(杉田 2010)。
産後訪問した際に子どもの産着の洗濯や、産着もままならない家庭にはそっと産着を
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置いてくるなど、助産師たちの気遣いで母子を支援し助産を成り立たせていた。北千住 で開業していた助産師の記録によれば、当時の開業助産師は、一人当たり年間で約 300 件の分娩介助を取り扱っていたようである(高岡・古崎 1987)。
つまり、当時の助産師たちにとってこれらの行いはすべて助産に含まれるものである。
助産が医療技術に特化し、戦後の人口増加の中で、多忙を極める助産師たちがいた一方 で、社会では、人口の増大に危機感を抱き再び多産亡国論を唱え始めるのである。この 動きに受胎調節運動が湧き上がり、生活の困窮により人工中絶を迫られる女性が急増し た。それにより、人工中絶手術を受ける女性たちの身体損傷や敗血症などによる死亡事 故が多発した。
国は母体保護を目的として受胎調節の普及に乗り出し、昭和 27 年から受胎調節実地 指導員の養成と認定制度を開始したのである。受胎調節実地指導員の養成は看護師、保 健師を対象として進められることになったが、日頃から出産や子育てに苦労する母子の 現状をよく知る開業助産師たちは、この動きに次々と対応し受胎調節実地指導員の認定 を受け、地域の母親たちを対象に指導にあたった(大林 1987)。
しかし、受胎調節実地指導の対象となる地域の母親たちは、かつて自分たちが出産を 助けた女性たちであり、母親達からは、お産を介助する助産婦がどうして産まない方法 を指導するのか、商売替えをしたのか等と不思議そうに問われたと言う。また、父親た ちからも「自由にさせろ」などの罵声をあびせられ、悔恨の念を抱いた助産婦も多くあ った(永沢 1995)。
助産師たち自身もこのような経験をとおして、本来の職務である分娩の介助と、その 対極にある受胎調節指導の業務を行うことに葛藤を覚えることもあり、助産師の職能団 体の中でも意見の相違や対立が生じたが、多くの助産師が「女性の健康」「生まれてくる 子どもの幸せ」を願い受胎調節指導に専心した。
それは助産師が、人工妊娠中絶を選択し経験した妊産婦が次回の妊娠や出産におい て異常な経過を辿り、難産や大量出血によって命の危険を高めることを知っているから こその動向である。必要のない人工妊娠中絶を受けさせたくないという思いがあったか らこそ、助産師たちは懸命に技術を習得し保健指導にあたった。しかし、開業地域の家 庭を対象に実施した受胎調節実地指導は、妊娠と出産を助産師が担当する地域から遠ざ
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けることに繋がり、助産師自らも、出産の場所を自宅から医療施設へと転換させる新た な段階へと押し上げてしまうという大きな分岐点になる(大出 2018)。
高度経済成長期における病院出産への転換によって開業助産婦数と、病院勤務助産婦 数が逆転し、再び両者の間が分断されるなど、働く場所や助産業務の内容が助産に大き な影響を与えた。異常になった分娩を病院に搬送する開業助産婦に対し、病院勤務助産 婦は、その原因を医療技術が提供できない助産所で生むことにあると考えるようになっ た。医療技術の発展は、異常妊産婦や新生児の救命率をあげ、〝異常分娩の場合には医 師の指示を受ける″という規定に則った開業助産婦の行為を、異常を予測できないこと に対する無知だとして批判した。これは、同じ職種でありながら共に助産を考えていく ことが出来ない助産師同士の亀裂となり、現代社会の助産師を高度専門家へと促す要因 にもなっている。