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しかし,その後太 1乙洋戦争末期の1945年3月以降,東京は大空襲に見舞われ,住宅が密集 していたド町地区を中心に再び甚大な被害を受けることになった、終戦後,日本政府は 戦災の復興に尽力するが,GHQの反対渦や,「ドソジラインls jy」による緊縮財政から,幹線 道路や大型公園などの建設は大幅に規模が縮小され,折角の都市計画の好機を逸してし

まった,[950年6月25日勃発した朝鮮戦争による特需を契機に,日本は高度経済成長 の道を歩み始めるが,本格的な東京の変貌は,第18回夏季オリンビソク大会の開催が決 定された1959年頃に始表ったと言える、東京は首都高速道路の建設に伴い,江戸以来の 景観である河川や運河「iT{1の埋め立てが進められ,代々木や駒沢など競技場の周辺を中心

とする南西部は整備され,東部との地域格差が進んだ、また1962年5月住居表示法が施 行されたが,江戸期以来みられていた道路方式STIを,主に郵便配達の事情を考慮し,全面 的に街区方式sT2に改めたものである。訪問者にとって不便な街区方式を採用する国家は、

現在ほぼ日本以外にみられないsT S、

 その後,石油危機に伴う一 時的な停滞はみられたものの,全般的に日本経済は成長を 続け,経済規模は1968年当時の西ドイツを抜き,自由主義社会では世界第二位となった。

1980年代前半,当時米国の厳しい財政事情による「プラザ合意3可後の円高誘導策より,

国内の不動産に投資が集中した結果からバブル経済へと向かう中,東京はデベロソパー と呼ばれる業者によって次々と新しい業務地や住宅地が開発された,また地上げ屋と呼 ばれる地価の引き上げ自体を目的とする業者も生まれ,特に都心地域の地価は暴騰し,

高額の相続税負担から代々都心に居住していた住民を郊外へ移転を促すようになった。

さらに拡大を続ける都市域に対応するため,丸の内の東京都庁舎移転が論議されるよう になり,1985年9月鈴木俊一都知事は,東京都の人口重心の西部への移行などを理論的 裏付けとして西新宿への移転を決定した,この結果,東京の旧市街のうち,都心の業務地 純化(人口空洞化)と東部の衰退が顕著となっていった。

 東京は明治以降,関東大震災と東京大空襲を通じて壊滅的な被害を受けたが,戦後の

当時の東京市が,東京府に吸収されて東京都が置かれることになった背景による。

侭当時GHQには 敗戦国の日本にとって,大規模な都市計画は不要と言う考えがあったとみられている,

lF[ P9.49. H,13月日本経済の自立と安定のためGHQの経済顧問であったJoseph M. Dodgeによって実施された 財政金融の引き締め政策

:lfJ ヘ村(LOOI)[江戸ゾ)中心街は四分の一を水面が占めi,「明治期,日本に入ってきたヨーnッパ人に,「東 洋のベニス1とぎわしめた」p.116,ように当時は非常に親水性の高い都市であった。

3il ケ路の両側に沿って,連番を振り分けて住居を表示する方式

:tTL ケ路,河川などに挟まれた区画に対して住居を表示する方式

a73 リ国では,か!)ては街区方式を採用していたが,2006年から2012年まで段階的に道路方式へ移行した・

中国では,住所表記する場合,行政区画より道路方式を用いることが多い。

nη1985年9月二一・.・一一ヨ・一クのプラザホテルで行われたG5(先進五ヶ国蔵相会議)にて,当時米国の巨額財政 貿易赤字に対処するため円高ドル安誘導の方針が示されると,景気悪化を懸念して実施した景気刺激策が,

国内のイミ動産投機を呼び込み,バブル経済を引き起こした直接的な要因とみられている,

東京オリンピックに向けた都市改造期から,バブル経済の再開発期にかけた行政機関と 業者協働による再開発は,次の特徴に集約されるとともに,それまでと異なり相対的に 異質的と言える都市構造への変容に繋がったと考えられる」

・歴史性の喪失

・中 亡wr生の曖1床

・親水性の軽視

 li記の項目について説明すると,明治時代に欧米都市を模倣したといっても都市中心 部に限られ,いわば舞台装置的な役割で,目的としては欧米に対する対抗意識の発露と 存在感の主張,国民に対する発揚と意識改革に限定されるものであった,実際都心を離 れると江戸期以来の家屋や掘割といった景観が多く残されていた,後の関東大震災では,

住宅が密集する城東地区から、中野や杉並など城西地区へ住民移転を促す契機となった が,大規模な復興計画が表明されるものの,予算の問題から多くは実現されず、結果的に

・部の道路の建設や公園の造成に留まるものであった。東京大空襲でも下町を中心に壊 滅的な被害を受けたが,戦災復興を担当した安井誠一郎都知事による本格的な都市計画 より,大量の浮浪者や浮浪時への住居の確保を優先させたいと言う意向もあって,この 時期も大規模な復興事業は見送られ,抜本的な改造に繋がるものにはならなかった。

 しかし,東京オリンピックに向けた都市改造では,首都高速道路の建設と,交通の利便 性確保及び治水目的のため河川や運河を埋め立てたため3T5,皇居の内堀以外に都心では

さしたる水系景観376がみられなくなった,高度成長期からバブル経済期まで続く再開発 の流れは,過度に地価高騰を促進させ,結果的に住民が都心に居住し難い都市へと変貌

させた,無秩序にスプロール化された首都圏は,二時間程度の通勤は珍しくなくなり,

職住分離の進行とともに,地域と住民の一体性は失われていった,東京都は,業務機能分 散などの観点から1958年新宿,池袋、渋谷,1982年上野・浅草,錦糸町・亀戸,大崎,1995年 臨海地区を副都心として設定したが,1991年4月東京都庁舎が西新宿に移転されたこと から,東京の中心の概念が曖昧化され,都心の地価高騰と放射状に延長された私鉄各社

375 ]戸以来の東京の豊潤な中小河川は,大正期より衛生性や安全性等の観点から,徐々に暗渠化の計画が 進められていた。

376 岺O東京の主要駅であった秋葉原,飯田橋,汐留,両国,錦糸町は,全てもともと河岸であった状況からも かつては親水性が高い都市であったことが分かるfi

の沿線開発と連動して都市機能の分散的配置が固定化したS77、民間業者に委ねた大型商 業施設の開発は,海外の都市イメージなどを安易に転用する企画iTbが日立ち,都市の歴 史性や連続性に1掲連する印象はますます希薄になっていったm,端的に言えば,東京は,

東京オリンピックからバブル経済期の再開発によって,それまで度IEなる災害を経ても 受継がれていた都市の歴史性,中心性,親水性といった要素刷が喪失されたとも言える

のであるt  1,

写真8 博50年代の日本橋1,ii−1辺(日本銀行/1越本店)の都市景観

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出所:杉田米行(2007)三GHQカメラマンが撮った戦後ニッポン』アーカイブス出版

:;; P970年Hkに計画されていた成田新幹線は,当時の東京都庁舎(現東京国際フォーラム)前に設置予定で あった4(京駅(現京葉線東京駅)と成田国際空港間を30分で繋ぐ計画であったが,沿線住民の強い反対から,

事業は凍結を余儀なくされた、

t「hパリをイメージした商店街の原宿シャンゼリゼ会,ロサンゼ・レス近郊のビバリー..一ヒルズを彷彿させる赤 坂アークヒルズ、六本イくヒ レズ,表参道ヒルズ、イタリアの小都市がモデルのカンッタ汐留,ニューヨークに 同名地域がある東京ミッドタウン等 但し,こうした傾向は,常磐ハワイアンセンタ・一(1L66)を皮切りに、

長崎オランダ村(ig. 83),カナディアンワー一ルド公園(1Y90).新潟1」シア村(1993),鷹島モンゴル村(1993),

志摩スヘィン村U9. ! ・・1),柏崎ト・レ:n村(19. Y6),倉敷チボリ公園(19. 97)等みられるよう東京だけでなく,

日本全体の特徴でもあ ったようだ.

川 歴史・文化の主ちづくり研究会 の調査によると,明治期から戦前にかけて建てられた近代建築群は,

1980年の時点ではL),196件が存在していたが,その後の.二十年間で約7跳の1,611件が解体されていた、

談三ゲ己辛i斤聞W/S L)OIO.9.3 http://www. yomiuri.co. jp/1ユationaL ne ・s/20100903−OYTlTOO634. htm

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囃z家の河原(L OOI)は,「都市がなければ継続的な文化の積み上1げはできないが,戦後の日本にはこの 積み上げの意識が希薄な!:ころに問題があった。lp.95,「都市の構造組織と土二地利用には歴史連続性がある ことはいくらでも例をひいて説明することができる,−p.IL 1,戦後拙速に作られた高速道路は都市の構造 とll地利用を無視し,地城社会と環境を破壊し,東京に混沌と麻庫を持ち込んだ、 p.122,と戦後東京の都市 開発過程を痛切に批判L、ている.

lS {研究で言及する東京オリンピックに向けた都市改造期以降の都市構造の変化については、議論の余地 もあり得るが,あく主で都市の観光魅力としての表層的な側面に対して指摘するものである.