第 4 章 BCCWJ に見られる「やっと」 「ようやく」の相違…
4.6 本章のまとめ
「やっと」「ようやく」は、語源が同じ類義語であると考えられるため、両副詞の違いを 見出すことが難しい副詞である。本章では、BCCWJにおけるさまざまなジャンルでの両副 詞の出現傾向と、『文学』という特定のジャンルにおける「会話文」と「地の文」を通し、
両副詞の文体の差を明らかにした。また、『文学』に現れる両副詞と共起する述語について、
中頻度語のうち「独自の語」を検討し、「独自の語」の意味分布から両副詞の違いを明らか にした。今回、明らかになったことは、以下の通りである。
まず、ジャンルによる出現傾向の結果、「やっと」「ようやく」の大きな相違は、文体の 差である。「やっと」は、より話し言葉的でくだけた文章に、「ようやく」は、改まった文 章で書き言葉的な文章により多く現れた。
次に、『文学』における「地の文」と「会話文」の出現傾向を検討した結果、「やっと」
の方が「ようやく」より「会話文」に多く現れた。
また、「やっと」「ようやく」と共起する高頻度の述語の出現傾向から、共通する述語は
「する」(1位)、「なる」(2位)であり、その以降、順位は異なっているものの、「分かる」
「できる」「出る」「気づく」「付く」「開く」が共通していることが明らかになった。両副 詞と共起する共通の5位以内の高頻度語「する」「なる」「分かる」「できる」であり、これ らの出現比率を合計すると、「やっと」が26.6%、「ようやく」が25.9%であった。このこ とから、両副詞と共起する高頻度の出現傾向は似ていることが分かった。
さらに、「やっと」「ようやく」と共起する中頻度語のうち「独自の語」を検討した。そ の結果、「やっと」は「人間活動」部門において「ようやく」より多く現れ、「ようやく」
は「抽象的関係」「自然現象」部門において「やっと」より多く現れることが明らかになっ た。
なお、各部門における「独自の語」の相違について検討した。「抽象的関係」部門におい て、「やっと」に現れる「独自の語」は、入りにくい所に入れたことを表す時に現れるが、
事態の成立に大変さと厳しさが感じられ、実際の空間への移動であるが、そこから意味が 拡張され、抽象的な空間への移動を表すものが現れた。また、話し手の感情を表すものが 現れるが、感情と感覚の成立も空間的に外側に広がったり、はっきり感じられた感覚から 薄くなっていったりする空間的に遠くなっていくことを表わしている。
一方、「ようやく」の「独自の語」は、「やっと」の相反した結果が見られ、「独自の語」
と係る補語(予感、考え、実感、悲しみと絶望感、自尊心など)によって感情や思考を表 しており、外に散らばっていた考えが内側にまとまったりすること、また、自分に起きな いことだと遠く思っていた考えが実感として近く迫ってきたりすることを表わしている。
さらに、悲しみと絶望感から出たことで心を空間に比喩し、移動的に捉えている用例が見 られた。同様に満たされなかった自尊心が満たされることで、空間に例えた心が満ちるこ とを表わしている。
また、「人間活動」部門において、「やっと」の「独自の語」は、主体が意志を持ち制御 できない人の状態の変化を表し、人のある行動が相手の状態に影響をさせることである。
一方、「ようやく」の「独自の語」は、主体が意志を持ち制御できる人の感情、思考を表し ている。また、感情、思考の表現は「独自の語」と結びつく名詞の意味から分かった。ま た、人の発言行為により、相手に影響を及ぼすことを表している。
さらに、「自然現象」部門において、「やっと」の「独自の語」は、例えば、目に見える 身体上の状態の変化を表しているが、はっきり見られた注射の跡が薄れていく、遠くなっ ていくことであり、上記の「抽象的関係」部門と類似の解釈ができると思われる。一方、「よ
うやく」は、熱い血が流れることで感覚的であり、外側に広がる方向性が見られる。
最後に、益岡・田窪(1992)は「やっと」「ようやく」を「アスペクトの副詞」と称した ように、両副詞はアスペクト形式との共起が多いと予想されたが、「独自の語」の現れる文 から、(有標の)アスペクト形式「~し始める」との共起は「ようやく」のみ確認できた。
このことから、「やっと」より「ようやく」の方が事態の成立において時間的局面のうち開 始を表す傾向があることが言えよう。
以上、BCCWJの『文学』における「やっと」「ようやく」の相違について検討し、その 結果を述べた。次章では、『文学』と異なるジャンルである『毎日』を用い、本章と同様の 方法で検討し、本章における結果と比較する。